第三十四話 新しい内務官様と、四つの山
書庫の朝は、ペンの音で始まる。
ニクラスさんが隣の机で帳面を書いている。ペン先をインク壺に沈めて、縁で二度落としてから紙に置く。その流れと回数は決まっていて、不思議と落ち着く。その音を聞きながら、棚を一段ずつ見ていく。
昨日と同じ、ずれなし。いつもの確認はここまで。
一昨日、帳簿を届けたときにテルナー様に仕事を言い渡されていた。
「内務官が来ることになった。今月のうちだ。ケスラーの書類は城の物だから、後から来た者に始末をつけさせるわけにはいかない」
ケスラー様が残していった書類は、執務室にも書庫にも、まだ相当な量が残っていた。年度ごとに綴じられた帳簿もあれば、案件ごとにまとめられた書簡もある。中には、どこにも分類されず、机の引き出しに押し込まれたままのものもあった。
それらを一度に片づけるのではなく、まずは必要なものと、そうでないものを分けなければならない。新しく着任する内務官が仕事を始めるにあたって、何をどこから引き継ぐのか。その境目を、今月中に整えておかなければならない、ということだった。
テルナー様は、わたしが差し出した帳簿を一枚めくり、続けた。
「動いている年のものは執務室に置いておいてもらえるか。新しい者がすぐ引くことになる。それより前は書庫だ」
「何年ぶんを、執務室に残しますか?」
「三年。財務の突き合わせも三年で見る。それより古いものを引くことは年に何度もないからな」
「はい」
「新しく来る者は、前の領地から自分の書類を持ってくる。それも置く場所が要るだろう」
「わかりました」
「どの段に何を移したか、紙に書いて残しておいてほしい」
それから二日、朝の仕事のあとに少しずつ見てきた。今日で終わる。
着任は明日だと、昨日の夕方に聞いた。
---
内務官の執務室に入った。
棚は四段。ケスラー様が並べたまま。案件ごとに束になっていて、革紐で括ってある。結び目は全部同じ形。同じ案件の中では新しい年の紙が上、動きの止まった年が下。案件で分ける物差しと、年で分ける物差し。二つが重なって、ぶつかっていない。
机の上に、束が一つだけ残っていた。紙が三枚。革紐は結ばれていない。端が揃っていない。手を付けたまま止まった案件だ。年明けに、ケスラー様がいなくなった日のままになっている。
紙の端に、乾いたインクの小さな染みがあった。いつからそこにあるのかは、わからない。
中は読まない。内務の内容は、財務官補佐の持ち場ではないから。
束を数える。棚に十七。指四本ぶんの厚さが十二。指二本ぶんが五。机の上の三枚は、束と呼ぶには薄い。
昨日までに十四を見た。今日は残りの三つ。束を開いて、年を見る。開くのは表の一枚だけ。
案件によっては、同じ束の中で年が分かれた。ケスラー様は新しい年を上にしている。上から三年ぶんを抜けば、下が残る。抜いたところで束が薄くなるが、案件の順は動かない。
これで十七が分かれた。執務室に残すのが十。書庫へ移すのが七。
書庫の保管棚は五段ある。下の二段が空いている。上の三段には、使わなくなった古い帳面の箱が三つ。ニクラスさんが帳面から顔を上げた。
「箱を出すか」
「そのままで大丈夫です。下の二段に入ります」
「そうか」
執務室から書庫まで、七つを運ぶ。廊下と階段を四回往復した。ニクラスさんが二回、わたしが二回。案件別の順も、年の上下も崩さない。わたしが並べ直すのではなく、ケスラー様の並びを写す。
厚い束が五つ。薄いのが二つ。下の一段目に厚いのを、二段目に薄いのを入れる。
一段目で止まった。
厚い束は奥に三つ。手前に二つ積む。奥の三つを積むと、一番上が上の棚板につかえる。指一本ぶん足りない。押し込めば入るが、押し込むと紙が擦れる。次に引き出すとき、端が破れる。
「……うーん」
棚板は、柱の穴に差してある。穴は指二本おきに空いている。一段目の上の板を外して、穴一つぶん上に差し直した。一段目が指二本ぶん広くなり、二段目がそのぶん狭くなる。二段目に来るのは薄い束ばかりだから、それでいい。薄い束は、ケスラー様の棚でも一段にまとまっていた。
段の縁に札を掛ける。布の端切れに炭で案件の名を書いて、紐で吊るした。二段ぶん。
紙に書いた。記録というより、今の書類の置き場所を示す申し送りだ。
案件名の横に、執務室か書庫か。書庫なら何段目か。執務室なら何年から何年までか。
ひとつずつ、束と照らし合わせる。どこに何があるのか、初めて見る人にも辿れるように。
綺麗に一枚に収まった。
執務室に戻る。棚の上の二段が空いている。下の二段に、三年ぶんの十。
紐の無い三枚は、机の上に残した。
紐が結ばれていない紙は、まだ動いている。ケスラー様の物差しなら、動いている紙は上だ。
棚の上を払った。窓の桟も。机の空いたところも。花瓶には触らなかった。花は掃除係の人が替えている。わたしは埃を払うだけにした。
戸を閉めた。
「……よし」
明日の朝、この部屋に入る人がいる。
---
翌朝、中庭で馬車の音がした。
書庫の窓から見ると、荷を積んだ馬車が一台。木箱が三つ下ろされた。人が一人降りて、迎えに出たテルナー様と中へ入っていく。そのまま二階へ上がっていった。城主様の書斎だ。
わたしは棚を見ていた。昨日と同じ。ずれなし。なのにどうしてこんなに落ち着かないのだろう。
肩に力がはいって上がっている。
何故だか、うまくやらなければ、と身構えているみたいだ。相手が誰かも知らないうちから、先に構えてしまう。……前にいた場所で、ずっとそうしていた気がする。
肩を一度下ろした。すぐにまた上がった。
「……」
きっと、手を動かせば肩の力は抜けるはずだ。
------
昼前に、書庫の戸口から呼ばれた。二階へ上がる。
内務官の執務室の戸が開いていた。
四十代半ばの女の人が立っていた。中肉中背。髪をきっちり結っていて、ひとつも後れ毛がない。
「ザビーネ・フォン・ノイベルクです。今日から内務を預かります」
「財務官のテルナーと申します。財務を見ております」
テルナー様がわたしのほうへ手を向けた。
「財務官補佐のミーナだ。書庫を見ている。この部屋の書類も、この者が分けています」
「ミーナと申します」
頭を下げた。ザビーネ様の目が、わたしから棚へ移った。部屋の中を、左から右へ一度動く。棚。机。窓辺の花瓶。
「……上が、空けてありますね」
声は低い。
「下の二段が前の内務官の書類だ。三年ぶん。それより古いものは書庫にある」
ザビーネ様が棚に歩み寄った。空いた段の板に指を当てて、離した。その下。また離した。指に埃は付いていない。
「あなたが掃除してくれたのですね」
「埃を払っただけです」
ザビーネ様はちょっと目を見開いて、ふと力の抜けた眼差しでわたしを見た。
「では、私は城主様のところへ戻ります。ミーナ殿、細かい伝達を頼む」
「承知しました」
「ザビーネ殿、何かあれば財務のほうへもお声がけください」
「ありがとうございます。必要があれば伺います」
テルナー様が執務室を出ていった。わたしは残った。
「ところで、前任者の書類はどちらに?」
「書庫の保管棚に移しました。こちらが、どの段に何があるかです」
紙を渡した。ザビーネ様が読む。速い。目が行を追うたび、紙の端がわずかに持ち上がっては戻る。
「止まっている案件は、ありますか」
引き継ぎの紙から目を上げずに尋ねられた。
「一つ。革紐が結ばれていませんでした。まだ動いている内容だと思って、机に残してあります」
「……見せてください」
机の上の三枚を取り、ザビーネ様に差し出した。
ザビーネ様は受け取ると、立ったまま目を通した。二枚めくり、最初の紙に戻る。指先が、日付のところで止まった。
「冬の分が、まだ通っていない。……三か月。これは今日のうちに通します」
書類を持つ手が、わずかに下がった。声の調子は変わらない。けれど、三枚を重ねる動作に迷いはなかった。
「ただ、ここの書式の体裁について存じません。清書や代筆を頼める方はいますか」
この城の書式は、財務と内務で違う。内務の書類を、わたしが勝手に整えるわけにはいかなかった。
「書記官のニクラスさんが適任だと思います」
ザビーネ様は三枚を手にしたまま、頷いた。
ニクラスさんは書庫にいる。わたしは戸口へ向かい、ザビーネ様がその後に続いた。
階段を下りた。ザビーネ様が半歩後ろを歩いた。
書庫の戸を開けた。ニクラスさんがペンを置いて立つ。ザビーネ様は戸口で足を止めて、手でそれを制した。上の段から下へ、目が落ちた。
「……これも、どなたの仕事でしょう」
誰に訊いたのでもない言い方だった。答えていいのか、少し迷った。
「わたしです。角を揃えただけですが」
「角を揃えるだけで、これは大したものです」
ひと呼吸、止まった。ザビーネ様は笑っていなかった。
「大したもの、ですか」
「ええ。角が揃っていれば、探す人が迷いません。それが一番むずかしい」
ザビーネ様の目が、保管棚の二段目で止まった。
「二段目が、狭いですね」
「一段目の束が指一本ぶん入らなかったので、板を穴一つぶん上げました。二段目に来る束は薄い束ばかりです」
「……板を。なるほど、そういった工夫をする人は、前の領地にはいませんでした」
褒められたのか、そうでないのか分からなかった。けれど多分、工夫を認めてもらったのだろうと思えた。
ザビーネ様が、ニクラスさんの机に三枚を置いた。
「内務の申請ですが、こちらの清書をお願いします」
「……宛先はどちらに」
「西棟。今日のうちに通します」
「かしこまりました」
ニクラスさんがペンを取った。縁で二度落とす音がした。
------
執務室に戻った。兵が二人、朝の木箱を運んできた。三つ。ザビーネ様の前の領地からの荷だ。床に並べた。
ザビーネ様が箱を開けて、中の書類を出した。束になっていない。紙の大きさもまちまちだ。
棚の上の二段が空いている。この人の荷のために空けた段だ。
ザビーネ様は棚を見なかった。机の上に、紙を置いた。
一つ。二つ。三つ。四つ。四つの山ができた。
置く前に、どの山に載せるかを決めている。持ち上げてから迷わない。手が止まらない。
「棚、空いてますよ。上の二段」
兵の一人が言った。ザビーネ様は手を止めずに答えた。
「当分はここに置いておきます」
兵がもう一人の兵を見た。それからわたしの方を見て、小さな声で言った。
「空けてあるのに、机に積むのか」
答えなかった。同じことを思っていたのに、口に出したのは兵だった。
四つの山を、目で追った。
案件別ではない。年度別でもない。高さの順でもない。紙の大きさでもない。線が引けない。わたしの目には、山が四つあるとしか見えなかった。
けれどザビーネ様の手は、どの紙をどこへ置くかを一度も迷わなかった。
訊かなかった。今日来た人に、初日から訊くことではない。
ザビーネ様が、最後に窓辺を見た。花瓶。花は光のほうを向いている。
「……そのままで」
わたしは黙って頷いた。
------
夕方まで、書庫で自分の棚を見ていた。夕食は春の葉物のスープ。パンが一つ。
マルタさんが隣に座った。
「ミーナちゃん。洗濯場に薪が来たんだよ。冬の分」
「冬の分が、今ですか」
「年明けから止まってたの。内務官様の判がないと、薪は動かないでしょう。色々と物騒なこともあって忙しいだろうし薪くらいで城主様に言うのもって、洗濯係の子たちも萎縮しちゃっててね。ブルーノが台所の分から回してたの」
「そうだったんですか」
「新しい内務官様、初日でそれを通したって。あんたが色々片付けたんだろ、内務官の部屋」
「束を移しただけです」
「はいはい」
マルタさんが笑って、スープを飲んだ。
わたしも飲んだ。葉物が柔らかい。おいし。
控室に戻って、窓を開けた。
西棟の洗濯場の煙突から、煙が上がっている。夕方の空に、まっすぐに。今日は風がない。
肩の力が抜けていた。
いつ、下がっていたのかは分からない。棚板を差し直したときか、花瓶をそのままにすると言われたときか。
新しい人は、机に山を四つ作った。空けた二段は、空いたままだ。
煙は、まだ上がっている。新しい音がし始めたような、そんな心地がした。




