第三十三話 お城と街でのお仕事
目が覚めて、天井を見た。
石でできた天井。お城の控室で、わたしは寝起きしている。継ぎ目の位置は昨日と同じ。
寝台から足を下ろす。床は冷たいが、足の裏に貼りつく冷たさではない。触れたときだけ冷たいけれど、すぐに温まった。
春は一日ずつ進んでいる。
棚を確認した。水差し。壁際、机の端から五センチ。今日も合っている。
窓を開けた。庭木を数える。十二本。昨日は硬かった芽が、先のほうだけほどけかけている。十二本とも、同じ日にほどけ始めた。
顔を洗うとさっぱりとする。リーゼ様からもらったクリームを顔と手に塗った。リーゼ様が、仕事を始めるときと、外から戻ったときに塗るのだと教えてくれた。若草を思わせる、自然な香り。
……前いたところでは、こういうものを自分でまとうことはあまりなかった。けれどこの香りはとてもいいなと思う。
棚の上に薄い青の巾着。口を開けてリボンを出し、髪を一本にまとめて巻いた。蝶結び。結び目の左右が揃うまでに、ひと呼吸かかった。
よし。
食堂へ下りる。下りるにつれて汁物の匂いが濃くなる。今朝は菜っ葉と豆だった。ブルーノさんが鍋を持って回っている。
「起きたか。まだ冷える日が続くからな。しっかり食え」
「おはようございます。いただきます」
席を見渡すと、住み込みの人たちで賑わっていた。空いているところに座って、さっそくスープから食べる。
うん。おいし。豆が柔らかい。パンもふかふかだ。
食べ終えて、財務官の執務室に帳簿を届けた。
テルナー様が受け取って、革紐の結び目を見てから机の左に置いた。
「ミーナ殿。今日は街に行く日だったな」
「はい。行ってきます。カティさんのところなので、昼食はご一緒できると思います」
「うむ。妻が待っている。帳簿はこちらで見ておく。それから、内務官のことだが」
「決まったのですか」
「昨日の夕方、城主が面談した。女性だそうだ。よその領地で長く内務をしていたと聞いている」
「お名前は」
「まだ聞いていない。今月のうちに来る」
内務官の部屋は、年明けから空いている。棚は前の内務官のケスラー様が並べたままだ。
「今は埃だけ払っています。並びは触っていません」
「着任するまでは、そのままでいい。門にヴォルフがいるはずだ。送ってもらいなさい」
門へ向かっていくと、テルナー様が言っていたとおりヴォルフさんが待っていた。
剣を腰に、いつもの姿勢で立っている。わたしの顔を見て、顎を城下町のほうへ向けた。
「カティさんのところ、だな」
「はい」
二人で坂を下りる。
城から城下町までは歩いて二十分かからないくらい。ヴォルフさんは前を見たまま歩く。話さない。
仕立屋の角で、ヴォルフさんが足を止める。
「昼までか」
「はい」
「迎えに来る」
「……通り道、なんですか」
「……ああ」
少し間があった。わたしは笑わないようにした。笑うと、次から来てくれなくなる気がする。
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カティさんは店の前に出ていた。三十過ぎの、腕のいい仕立屋さん。目の下に隈はない。去年の秋とは大違いだった。あの時よりもずっと元気そうに見えた。
「ミーナちゃん。来てくれたわね!」
「はい。衣替えのお手伝いですね」
「そう。裏、見て。ミーナちゃんが整えてくれたときのまま使ってるの。使ってるんだけど……」
裏の作業部屋に入った。
左手に裁断台。右手に棚。奥に作業机と椅子。壁に型紙の釘。去年の秋にわたしが決めた並びがそのまま残っている。反物は軸をこちらに向けて下の三段。床から数えて、一段目が厚い布。二段目がこれから裁つ布。三段目が薄い布。その三段の上が中段で、注文の布を木箱に入れてある。いちばん上が上段で、道具。
仕組みは種だ。人が続けやすい仕組みがあれば、維持しやすい。
ただ、冬のあいだに反物が増えたみたいだ。厚い冬の反物が三段に溢れて、春の薄い反物が一段目の奥へ押し込まれている。手前は冬の反物でふさがっている。膝をついて奥へ手を入れなければ、春の布が取れない。糸巻きも同じだった。濃い色が前に出て、薄い色が後ろに下がっている。冬の型紙が釘を全部ふさいでいる。
「冬のものも使ってはいるのよ。でも、季節が変わったら上と下が逆になっちゃって」
「そしたら、シンプルに逆に並べ替えてみましょうか」
ふと、部屋の隅に女の子が立っていることに気づいた。十四歳くらい。わたしと目が合って、ぱっと頭を下げた。
「ああ、そうだ。紹介したいと思ってたのよ。この春から来たの。ロッテというの。仕立ての見習い」
「ミーナです」
「あの、よろしくお願いいたします。話は聞いています。この部屋を片付けた人だって」
「使いやすく並べただけですよ」
ロッテさんの目が少し丸くなった。
「それじゃあ、まず反物を全部部屋から出しましょうか」
「ぜ、全部ですか!?」
「全部です」
手順を言いながら。三人で動かしていく。
反物を全部出したら、廊下に厚いものと薄いものを分けて置く。
冬の反物が八本。春の反物が五本。冬の八本は一段目へ。春の五本は三段目へ。どれも巻きの端の色が見えるように。二段目が空いた。
空いた段に手を置いて、カティさんのほうを見た。
「ここは、これから裁断する分でいいですか」
カティさんが裁断台のほうへ目をやった。
「そうね。今週裁つのは三本だから。入れ替えやすいと助かるわね」
春の五本のうち三本を、三段目から二段目へ移した。残りは二本。膝をつかなくても、どちらも手が届く。二段目と三段目が薄い色ばかりになったので、それだけで棚が明るくなった。
次に糸巻き。上段の糸巻きを三列に並べ直す。薄い色を前列に、濃い色を後列に。中列は季節に関わらず使う糸。白と黒と、生成り。
型紙は釘から全部外す。冬物の型紙は重ねて紐で括り、上段の端に立てる。釘には春物の型紙だけを戻す。釘が半分空いた。
仕上がった物を入れる箱は六つあった。納める日を一つずつ聞いて、その順に並べ直す。今日が一つ。明日が二つ。明後日が一つ。残りの二つは、まだ日が決まっていないので奥へ回した。一番早いものが手前。
「これ、今日届けるんです。わたしが袖を仕上げました」
ロッテさんが嬉しそうに手前の箱を指した。小さな上着が畳んで入っている。子供の上着だ。薄い緑。裾と袖に折り返しがある。
「青果屋のおばさんのお孫さんの。春の分なんです」
「いい色ですね」
最後に道具の筒を持ち上げた。はさみと針を立てて入れてある布の筒。針の頭が並んでいる。
十一本。それがなんだか引っかかった。
「カティさん。針は、いくつで買うものですか」
「十二本ひと組。立てておく時もそうしているけど、それがどうかした?」
「これ、十一本しかないです」
カティさんがロッテさんを見た。ロッテさんの顔から、色が引いた。
ロッテさんが慌てて数えなおす。やはり十一本しかない。
「朝、確かめました。数えたんです。十二本ありました。仕上げのあとも戻して、数えました。十二本だと思っていました」
「戻したつもりの一本が、戻っていないってことね」
カティさんが作業机の引き出しを開けて、黒い石を出した。親指ほどの大きさで、木の柄がついている。
「針探し。鉄を吸いよせる石よ。これで探しましょう」
カティさんが手前の箱から緑の上着を出して、裁断台に広げた。石を縫い目に沿って滑らせる。襟。前身頃。裾の折り返し。右の袖。左の袖の折り返しに来たところで、石が布の上で止まった。
カティさんが折り返しをめくる。針が一本、布の中に潜っていた。頭だけが糸のあいだから覗いている。
ロッテさんが両手で口を押さえた。身体も震えて、ぽろぽろと涙を落とした。
「わたし……。た、確かめたのに」
「確かめても出るの。だから、これがある」
カティさんが石をロッテさんの手に渡した。
「届ける前に、縫い目を全部なぞる。今日からあなたの仕事。数えるのと、なぞるの。両方やるのよ」
「はい」
「泣かないの。幸い、まだ誰も怪我をしていないんだから」
ロッテさんがわたしのほうを向いた。それから、頭を下げた。深く。
「危うく、お客さんに怪我をさせるところでした。しかも子供に……。本当に、ありがとうございます」
「どういたしまして。数が合わなかったことに気づいただけですから」
「合わなかったって、分かる人がいなかったんです」
言われて、困った。わたしは筒を持ち上げただけだ。もちろん怪我を未然に防げたことはいいことだとわかるけれど。
カティさんが針を筒に戻して、十二本にした。
「ミーナちゃんは、もっと胸を張っていいんだからね」
「胸、ですか」
「あなたが来なかったら、この上着は昼さがりに届いてた。分かってる?」
「……はい。ええと、どういたしまして」
今度の返事はちゃんとできたと思う。棚が明るくなったことのほうが、わたしには大きい。
部屋を出るとき、ロッテさんが棚の前で足を止めた。
「同じ物しか入ってないのに。わたしも運んだのに、朝と全然違う」
「角を揃えただけなのですが」
「角……」
ロッテさんが棚を見て、わたしを見た。それから、もう一度棚を見た。
店先で、カティさんが銀貨を一枚くれた。それから、薄い青の反物を一本。春の薄い布だった。
「日当よ。反物も受け取ってほしいわ。夏まで着れる布だから、新しい服にもできるわ」
「今は城でお給金をいただいていますから」
「関係ないの。仕事は仕事」
受け取った。銀貨一枚。去年の秋の値なら、かぶが二十個。これだけでひと月越せてしまう気がする。今は城の食堂があるので、かぶは自分で煮なくていいけれど考えてしまう。
少し、もったいない気がした。かぶで数えなくていいお金は、何で数えればいいのだろう。
「では、また何かあったら呼んでください」
「助かったわ。ありがとうね!」
戸を出るとき、中からロッテさんの声が聞こえた。
「カティさん、あの……。ミーナさんて、ちょっと変わった人ですね」
「そうねぇ。あの子は何でも数えちゃうからね」
カティさんの声は笑っていた。
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仕立屋の角に、ヴォルフさんが立っていた。
「予定より早そうだな」
「はい。ちょっとだけ早く終わりました」
二人で市場を抜ける。通りの荷車が、冬より多い。青果屋の台に、かぶが山になっている。値札は冬の半分。おばさんが台の奥から、かぶを二つ取って寄越した。
「ミーナちゃん。今週から北の荷が入るようになってね。かぶも安くなった」
「山のようですね。かぶは美味しいので、何だか嬉しいです」
「お城にもきっとたくさんはいってくるよ」
たくさんのかぶ……! ブルーノさんのかぶ料理はレパートリーがたくさんあって飽きない。
もしかしたら新作がでちゃうかも。
ふと、おばさんが鼻歌まじりになった。
「おばさん、今日なんだか嬉しそうですね」
「おや、分かるかい? 孫の上着が今日届くんだよ。カティのとこから。春物でね。あの子、袖をすぐ汚すからねえ」
かぶ二つは、去年の秋に売り台の脚を直した礼だと言う。もう何度目かの礼だ。厨房に持っていけば、夕食のスープに入れてもらえるかも。ヴォルフさんは荷車の脇で待っていた。
「では、テルナー様のところだな」
「はい。お待たせしました」
テルナー様の家は、東寄りの静かな通りにある。玄関脇の花壇に、春の球根が等間隔に並んでいた。
「俺はここまでだ」
「はい、ありがとうございました」
「……荷物を預かる。ニクラスに渡して、控室に入れておく」
「え、あっ」
返事を待たずに、かぶと反物がヴォルフさんの手に渡って、そのまま城へ戻っていってしまった。
何も言えないままでいると、戸が開いた。ふわっとパンの匂いがした。焼きたてだ。
「ミーナちゃん。いらっしゃい。そろそろ来るかしらと思って」
「奥様。こんにちは。今日もごちそうになります」
この人からはいつもあたたかな料理の香りがする。甘いものが焼けるときのような、やさしい香りだ。
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食堂の卓に、皿が二枚出ていた。奥様が三枚目を持って、台所から出てきた。三つ目の椅子は、初めて来た日と同じところにあった。
「ちょっと早かったのね。あの人は昼に城を出るから、あと少しよ」
「手伝います」
「じゃあ、これをお願い」
匙を三本、渡された。皿の右に一本ずつ置く。お皿の柄の向きを揃える。奥様がパンの籠を卓の真ん中に置いた。布がかけてある。鶏肉を香辛料と香草で煮込んだ料理と、それからスープ。
戸の音がした。足音が廊下を来る。テルナー様だ。
食堂の戸口に立って、上着を脱いだ。壁の釘に掛ける。お城で見る姿はいつも上着を着たままだからなんだか新鮮だ。糊のきいたシャツが顔をだす。椅子を引いて、わたしの向かいに座った。
「手伝わせたか」
「匙を三本、並べただけです」
奥様が笑って、布を取った。
「さっき焼けたところよ。おかえりなさい」
「うむ。食べたらまた行くが、こういうのもたまにはな」
パンを割った。湯気が立ち上る。
ふわふわとしておいしい。ブルーノさんのはしっとりもしているけど、奥様のはなんだかわたあめみたいに消えていく。
……わたあめ、ってなんだったっけ。とにかく甘くて、優しい食べ物だ。
テルナー様が自分のパンを割りながら言った。
「毎日では、お前も私も仕事の途中で城を出ることになってしまうが……」
「はい」
「今日は別だ。それに休みの日の昼も、この椅子に座ってくれ。うちのが喜ぶ」
「ふふ、そうね。毎日来てくれてもいいんだから」
「ありがとうございます」
パンを置いて、頷いた。
懐の銀貨一枚。城のお給金以外でもらったものをどう使おうかなと思っていた。
例えば奥様に。例えばこの食卓に。例えば来るときの花壇に。
何か自分ができることはあるのかな、と思いをはせた。




