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【第二部開始!】わたしの特技ですか? 整理整頓です。 ~なんでかお城のお偉いさんがたくさん相談しに来るけど、角を揃えただけなので~  作者: 絹田屋
第一部 番外編

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番外編:ヴォルフ視点 城を守った夜


 城主が領内の挨拶回りで不在の間、俺は毎晩、城の警備の配置を確認していた。

 年末年始にかけて、城内の空気が変わっていた。普段は見ない使用人が食堂で接触している。兵士の中に目つきの違う者が数人いる。ブレンナー様から「配置を厚くする」と命令が出ていた。俺はそれに従って、夜の巡回の担当を増やしていた。


 ブレンナー様は、あの娘が大掃除のときに指摘した「城の弱点」の三箇所に、衛兵を配置していた。西棟の二階の物置から屋根に出られる窓、地下の排水溝、厨房の搬入口。普段はあまり見張らない場所だ。だがあの娘は「棚の裏の隙間を確認しただけです」と言いながら、城を外から狙う者の目で見て、弱点を指摘していた。


 あの夜、その三箇所のうちの一つに俺は配置されていた。西棟の窓ではなく、城の西側の門だった。門は正規の出入り口で、普段は警備の兵が二人いる。その日は四人に増員されていた。ブレンナー様が決めた配置だ。表向きは「年末の警戒を強めている」という説明だった。

 俺は門の横の物陰に立っていた。剣は鞘に収まったまま。だが、いつでも抜ける位置に柄を置いていた。

 夜が深くなった。外から馬のひづめの音が聞こえた。遠くで。何頭かの馬が、城に向かっている音だった。門の前に到着する前に、城内で動きがあった。

 兵士が二人、門に近づいてきた。普段、この時間にここに来る理由のない者たちだった。俺は物陰から目で追った。兵士の一人が、門の鍵に手を伸ばした。

 俺は物陰から出た。


「何をしている」


 兵士たちが振り返った。目が泳いだ。隠そうとしたが、隠しきれなかった。門の鍵に手を伸ばしていた手が、止まった。

 俺は剣を抜いた。


 戦いは短かった。

 相手は二人、俺は一人。だが、こういう状況では、冷静な者が勝つ。こちらの配置を読まずに、夜の門を開けにきた時点で、相手は俺の存在を想定していなかった。

 一人目は、俺が踏み込んで剣の柄で首を打った。意識を失って倒れた。二人目は剣を抜こうとしたが、俺のほうが速かった。相手の剣を弾き飛ばして、腕を取って押さえ込んだ。

 だが、二人を押さえ込む間に、俺は一撃を食らった。剣の峰が頬を掠った。袖も裂けた。血が垂れたが、浅かった。顔の傷はよく血が出る。だが、それだけだ。動きに支障はなかった。

 衛兵が駆けつけてきた。俺が押さえ込んだ二人を縛った。


「外は」


 俺が聞いた。


「門を開けようとしていたのは、こいつらだけです。外の馬の音は、遠くで止まりました。本隊が来る前に引き返したようです」


 俺は門の外を見た。夜の道は暗かった。何も見えない。だが、音は確かに遠ざかっていた。城は持ちこたえた。

 朝が近づいていた。


 戦闘が終わってから、俺はブレンナー様のもとに報告に向かった。廊下を歩きながら、頬の血を袖で拭った。袖はもう破れているので、血を拭くのには問題なかった。兵舎に戻って手当てを受ける時間はまだなかった。先に報告が要る。

 廊下の角を曲がったところで、ニクラスと鉢合わせした。ニクラスは息が上がっていた。走り回っていたのだろう。だが怪我はない。書記官は前線には出ない。それでもこの夜、ニクラスは城の中を走り回って、情報の集約と伝達をやっていたはずだ。俺たちは一瞬、目を合わせた。


「無事か」

「ああ。お前こそ」

「かすり傷だ」


 それだけだった。お互い、生きている。動ける。それで十分だった。

 ニクラスの後ろから、もう一人いた。あの娘だった。書庫から出てきたらしい。テルナー様から「書庫から出るな。鍵を閉めろ」と指示されていたはずだ。戦闘が収まって、出てきたのだろう。

 あの娘の目が、俺の頬に向いた。それから、袖の裂け目に向いた。顔が少しだけ硬くなった。


「わたしは書庫にいただけです。ヴォルフさんこそ、怪我――」

「かすり傷だ」


 俺は短く答えた。嘘ではない。本当に、かすり傷だ。深くはない。骨にも当たっていない。ただ、顔の傷は目立つだけだ。それだけのことを、この娘に説明する必要はなかった。

 あの娘はまだ俺の顔を見ていた。薄い青の目が、俺の頬の傷を見ている。何か言いたそうな顔をしていた。

 俺はあの娘の顔を、逆に確認した。血の気はない。でも、倒れてはいない。書庫で震えながら、それでも帳簿を整えていたのだろう。この娘は、自分にできることしかしない。できないことには手を出さない。だから書庫の中で、自分の仕事を続けていた。

 無事だ。

 その一言が、俺の頭の中で響いた。無事だった。この娘は無事だった。戦闘の音を聞きながら、一人で書庫にいて、それでも無事だった。

 俺は目をそらした。あの娘の顔から目をそらすのに、少しだけ時間がかかった。


「ブレンナー様のところに行く」


 俺はニクラスに言った。ニクラスが頷いた。ニクラスはあの娘を控室に連れていくつもりだろう。

 俺は報告に行く。役割分担は、言わなくても決まっていた。

 廊下を歩きながら、頬の血が乾いていくのがわかった。これでいい。兵舎に戻って手当てを受けるのは後でいい。血は止まる。


 ブレンナー様は兵舎の一室で、拘束した裏切り者の処遇について指示を出していた。俺が入ってくるのを見て、すぐに話を切り上げた。


「ヴォルフ。無事か」

「かすり傷です」


 ブレンナー様が俺の頬を見た。眉を寄せたが、すぐに表情を戻した。傷の深さを目で測って、問題ないと判断したのだろう。軍人の見方だ。


「西門の件、報告しろ」


 俺は戦闘の結末を報告した。門を開けようとした兵士二人を取り押さえたこと。外から来た連中は門の前で止まって、本隊が来る前に引き返したこと。音で確認した。城内の裏切り者は衛兵が順に拘束している。

 ブレンナー様が頷いた。


「ご苦労。先手が取れた。ミーナ殿の読み通りだ」


 ミーナ殿の読み。俺は内心で少しだけ驚いた。ブレンナー様が、あの娘を名前で呼んだ。「あの城下町の娘」ではなく。


「ヴォルフ。すぐに次の任務だ。手当てを受ける時間はない」

「はい」

「テルナー様からの指示だ。ケスラーの妻と娘の救出。クーデターが失敗した今、監視役は証拠隠滅に動く。今すぐ動く必要がある」


 俺は頷いた。テルナー様から直接指示を受ける形ではなかった。ブレンナー様経由で命令が来た。

 城の指揮系統としては、それが正しかった。俺は兵士で、ブレンナー様の部下だ。テルナー様は財務官で、俺の直属上司ではない。だからテルナー様が俺に任務を命じる場合、ブレンナー様を通す。それが城の秩序だ。


「監視役は四人。屋内に二人、屋外に二人。先遣隊がすでに出発している。お前は後から合流して、屋内の制圧を担当しろ」

「了解しました」

「生きて連れてこい。全員だ」


 ブレンナー様が言った。


「はい」

「監視役もだ。殺すな。拘束して連れてこい。後の調べのためだ」


 俺は頷いた。ブレンナー様の目を見た。いつもより少しだけ、強い目だった。


「ヴォルフ」

「はい」

「ミーナ殿には、『家族を迎えに行っている』と伝えることになる。お前の任務の詳細は伏せる。テルナー様の判断だ」

「……了解しました」


 ブレンナー様の言葉の意味は、俺にもわかった。あの娘が、また地下の匂いを思い出してしまうかもしれない。足枷と爪の跡と腐った食べ物の匂い。ケスラー家族がそこにいる可能性を、あの娘に想像させてはいけない。だから「迎え」と伝える。嘘ではない。迎えに行くのは本当だ。ただ、その途中で起こるかもしれない戦闘のことは、伝えない。


「お前が、あの娘のために動いていることは、知っている。だが今は、ケスラーの家族のために動け。あの娘のためではなく」


 俺は少しだけ驚いた。ブレンナー様がそう言うとは思わなかった。


「……了解しました」


 正確には、俺は両方のために動いていた。ケスラー家族の命を守ることが、あの娘の平和を守ることでもあった。あの娘が書庫で見つけた数字の乖離が、ケスラー家族の命を救うことに繋がった。俺は今、その繋がりの最後の一歩を踏むところだった。

 でもブレンナー様の言う通り、任務の最中は「あの娘のため」という考えは捨てるべきだった。任務には任務の論理がある。あの娘のことを考えながら剣を振ると、判断が鈍る。俺は任務の間、あの娘を頭から消す必要があった。

 頭から消すのは難しい。でもやる。それが兵士の仕事だ。


 医師が俺の頬の傷を消毒して、布を貼った。袖の破れた服を脱いで、新しい兵士服に着替えた。血の染みた服は後で洗うとして、今は戦闘に向かう準備だ。準備が終わるのに、半刻もかからなかった。


 馬を走らせた。雪が降り始めていた。冬の朝の雪だ。空はまだ暗かった。

 南東の村まで三時間。馬が地面を蹴る音と、自分の呼吸の音だけが聞こえていた。俺は走りながら、屋内の構造を頭に描いていた。ブレンナー様から簡単な地図を渡されていた。一階は居間と台所。地下室に人質。監視役は一階の居間で交代で見張っている可能性が高い。

 村の手前で、先遣隊と合流した。三人とも見慣れた顔だった。レンカ城の兵士たちだ。一人が囁き声で状況を伝えた。


「屋外の二人は、村はずれの木陰に隠れている。夜通し見張っていたようだ。眠くなっている時間帯だ」

「屋内は」

「灯りが点いているのが一つ。台所のほうだ。居間は暗い」


 俺は頷いた。台所の灯りは、見張り役が夜を明かすためのものだ。居間が暗いということは、監視が手薄になっている。夜明け前のこの時間は、人間が一番疲れる時間だ。


「屋外は俺たちがやる。お前は屋内だ。合図は鳥の声を二回」

「了解」


 三人が闇に消えた。俺は単独で、家の裏手に回った。剣は抜かない。抜けば光る。光れば気づかれる。素手で行く。


 裏の小窓から、家の中を覗いた。台所のほうに灯りがあった。一人の男が椅子に座って、ナイフで木片を削っていた。退屈しのぎだ。もう一人はどこだ。

 俺は家の外壁を伝って、反対側に回った。小さな窓から居間を覗いた。

 居間の隅に、もう一人いた。椅子にもたれて、目を閉じている。眠りかけている。だが、剣が膝の上に置いてある。すぐに手が伸びる位置だ。

 二人。屋内は二人で確定だった。

 鳥の声が二回、聞こえた。屋外の制圧が完了した合図だ。

 俺は裏口の扉を、音を立てずに開けた。鍵は古かった。蝶番も油が切れていた。きしむ音を出さないように、ゆっくり、一ミリずつ。


 扉が開いた。俺は屋内に入った。

 台所の男が先に気づいた。顔を上げた。木片を削る手が止まった。

 俺は踏み込んだ。三歩で距離を詰めた。男が立ち上がろうとした。遅かった。俺は男の首を後ろから掴んで、床に押し倒した。男が声を上げようとした。俺は口を塞いだ。そのまま体重をかけて、意識を落とした。男が動かなくなった。

 音は最小限だった。だが、居間のもう一人が気づいた。椅子が床を擦る音がした。剣を抜く音がした。

 俺は立ち上がった。剣を抜いた。今度は抜いた。屋内の静かな制圧は半分しか成功しなかった。もう半分は、正面からやるしかない。


 居間に踏み込んだ。


 男が剣を構えていた。体格は俺と同じくらい。年は少し上。目が覚めた直後だが、構えはしっかりしていた。訓練を受けた者だ。

 男が斬りかかってきた。俺は受け止めた。刃が噛み合った。金属の音が響いた。男の力は強かったが、俺のほうが冷静だった。相手は寝起きで、俺は走ってきたばかりだが頭が澄んでいた。こういうときは、冷静な者が勝つ。

 俺は受け止めた刃を横に流して、男の体勢を崩した。崩れたところで足を払った。男が倒れた。剣が手から離れた。俺は男の首に剣の切っ先を当てた。


「動くな」


 男は動かなかった。俺はそのまま、男の両手を後ろで縛った。ブレンナー様が用意してくれた縄だ。縛り終えて、もう一人のほうを確認した。まだ意識を失ったままだった。

 先遣隊の一人が裏口から入ってきた。屋外の制圧が完了して、援護に来たのだ。俺は頷いた。兵士も頷き返した。


「地下に行く」


 俺は地下の扉を探した。台所の奥に、床に埋め込まれた木の扉があった。鍵がかかっていた。俺は男の一人が持っていた鍵束を奪って、順に試した。三本目で開いた。

 扉を開けると、石の階段が下に続いていた。松明の灯りを持って降りた。

 地下室だった。狭い。天井が低い。石壁が湿っている。

 二人いた。

 中年の女と、十代の娘。ケスラー様の妻と娘だった。二人とも痩せていた。目が大きく見えた。痩せた人の目は大きく見える。足に枷が付いていた。縛られた鎖は、長く、短かった。立てる範囲が制限されていた。

 奥様が俺を見上げた。一瞬、体を強ばらせた。新しい誰かが来た、と警戒する目だった。ここに来るのは監視役しかいないはずだ。その監視役が、今、彼女たちを殺しに来るかもしれない。

 俺は剣を鞘に収めた。両手を見せた。


「レンカ城のヴォルフと申します。助けに参りました」


 奥様の目に、ゆっくりと理解が広がっていった。それから、涙が溜まった。だが声は上げなかった。ただ、娘を守るように抱き寄せた。娘はまだ子供のような年頃だった。十四、五歳。

 俺は枷の鍵を探した。奥にあった鉄の箱から見つけて、開けた。鉄の輪が外れた。奥様の足首に赤い痕がついていた。娘の足首にも同じ痕があった。

 俺は一瞬、手が止まった。

 あの娘が地下で見た部屋の話を思い出した。壁に爪の跡があって、足枷があって、閉じ込められていた場所があった、と。娘はあの場所の匂いを知っていると言った。体が覚えていた、と。

 あの娘も、こういう場所にいたのか。

 俺の頭の中で、何かが繋がった。繋がったが、言葉にならなかった。ただ、奥様と娘を支える手に力が入らないように、俺は注意した。乱暴に触れたら、この二人はまた怯える。


「お怪我は」

「いいえ、大丈夫です」


 奥様の声は小さかった。でも、はっきりしていた。半年間、この場所で、怯えながらも娘を守り続けてきた声だった。


「立てますか」

「……少し、お待ちください」


 奥様が立ち上がろうとして、よろめいた。娘が支えた。娘のほうが体力が残っているようだった。

 若いからか。あるいは、母が自分の食事を娘に譲っていたのかもしれない。

 俺は奥様に肩を貸した。娘は自分で歩けると言った。階段を上がった。地上に出たとき、奥様が外の空気を深く吸った。長い吸い方だった。半年ぶりの、自由な空気だった。


 外では、先遣隊が監視役を縛り上げていた。屋外の二人も、屋内のもう一人も、全員生きていた。

 血も流れていない。ブレンナー様の命令通りだ。「生きて連れてこい」。俺たちは全員生きたまま、連れて帰る。

 馬車を家の前に寄せた。ブレンナー様が用意してくれたものだ。毛布がたくさん積まれていた。俺は奥様と娘を馬車に乗せて、毛布を掛けた。


「少し長い道のりです。寒いですから、ゆっくり進みます」


 奥様が頷いた。娘は奥様の膝に頭を預けた。すぐに眠りに落ちた。久しぶりの安心が、娘の体を急に緩ませたのだろう。奥様は娘の髪を撫でていた。目を開けていた。何かを考えている顔だった。

 俺は御者の隣に座った。雪が強くなってきていた。

 馬車を出した。縛られた監視役たちは、先遣隊が別の馬で連れていく。俺の役目は、二人を無事に城まで運ぶことだ。

 道中、俺は馬車の中の二人を、時々振り返った。娘は眠っていた。奥様は起きていた。俺と一度、目が合った。奥様が小さく会釈した。俺も会釈を返した。


「ご主人は、城でお待ちです。無事です」


 俺はそう言った。これは命令されていた。「奥様には、ご主人が無事だと伝えろ。詳しい事情はテルナー様から聞くことになる」。俺はそのままを伝えた。

 奥様が目を閉じて、小さく「ありがとうございます」と言った。

 雪の中を馬車が進んだ。

 俺は考えていた。足首に残った赤い痕が、目の裏から離れなかった。

 馬車を進める速度を、俺は意識的にゆっくりに保った。馬車が揺れすぎないように。後ろの二人が安らかに眠れるように。

 あの娘が、この二人を見つけた。帳簿の数字の乖離から、ケスラー様の不自然な痩せ方から、書類の小さなずれから。全部を繋げて気づいた。「この人は、助けを求めています」と言った。そうしなければ、この奥様と娘は、あの地下室で死んでいたかもしれない。監視役は証拠隠滅に動くつもりだった。俺たちが間に合わなければ、この二人はもうこの世にいなかった。

 俺が今、この二人を馬車に乗せて城に運んでいるのは、あの娘が角を揃えたからだ。

 雪が静かに降っていた。馬車の車輪が雪を踏む音だけが聞こえていた。

 レンカ城が見えてきた頃、奥様が窓の外を見た。


「あの城に、主人がいるのですね」

「はい」

「ありがとうございます」


 奥様が、俺にそう言った。俺ではなく、この道のりの全部に対して言っているのだと思った。そして、この道のりを作ってくれた誰かに対して言っているのだと思った。その誰かに、俺の中には顔があった。

 顔は、あの娘だった。


 城に着いた。テルナー様が門まで出迎えた。奥様と娘を馬車から降ろした。奥様がテルナー様に深く頭を下げた。娘もそれに倣った。二人は中央棟に案内されていった。ケスラー様との再会の場面を、俺は見なかった。見る必要のない場面だ。

 ブレンナー様が俺のところに来た。


「ご苦労」

「はい」

「傷は」

「問題ありません」


 ブレンナー様が俺の頬を見た。夜明け前に医師が貼った布が剥がれかけていた。戦闘のときに擦れたらしい。


「もう一度、医師に見せろ」

「はい」


 ブレンナー様が歩き去った。俺は兵舎に向かわず、廊下を歩いた。気づいたら、控室の方向に向かっていた。

 控室の前で、ニクラスと会った。ニクラスも俺を待っていたような顔をしていた。双子は、互いの気配を察する。


「戻ったか」

「ああ」

「傷が」


 ニクラスが俺の頬を見た。布が剥がれかけていた。ニクラスが眉をひそめた。


「医師のところに行け。今すぐ」

「後で」

「今すぐだ。ミーナ殿に会ってからだと、また『かすり傷だ』で済ませるつもりだろう」


 俺は黙った。ニクラスの言う通りだった。俺は自分の傷を、あの娘の前では軽く扱うだろう。それを察していたニクラスが、俺の会う前に止めた。


「先に手当てだ。その後で、控室に行け」

「……わかった」


 俺は兵舎に戻った。医師がもう一度、頬の消毒をした。貼り直した布はさっきより小さくて、薬の匂いがした。袖の破れた服を、今度はきちんと新しいものに着替えた。

 兵舎を出てから、俺は控室には行かなかった。行かないでおこう、と決めた。窓の外が白み始めていた。あの娘はまだ眠っているかもしれない。眠っているところに、兵士が踏み込むのはよくない。もう少し待てば、食堂で会える。それで十分だった。

 俺は兵舎の自分の寝台に戻った。服を着たまま、横になった。体は疲れていた。頭も疲れていた。

 だが眠れなかった。馬車の中で、奥様が娘の髪を撫でていた姿が、目の裏に残っていた。それから、あの娘が夜明けの廊下で俺の頬を見ていた顔も。

 目を閉じた。眠りに落ちる前に、厨房のほうから鍋の音が聞こえてきた。


 食堂に行った。

 いつもと同じ時間だった。着替えはもう済んでいる。頬の布だけが、いつもと違っていた。ニクラスが食堂で先に来ていて、俺が入ってくるのを見て軽く頷いた。ニクラスは無事だった。夜通し走り回って疲れた顔はしていたが、怪我はない。俺だけが頬に布を貼っていた。

 食堂にはあの娘もいた。マルタさんの隣に座っている。顔色はいつもより良かった。長い夜が終わった朝の顔だった。

 俺はニクラスの隣に座った。娘の斜め向かいの位置だ。ブルーノさんがスープを運んできた。かぶと鶏肉と豆の煮込み。いつもより香草が多い。


「今日は特別か」


 俺は聞いた。いつもと同じ、短い挨拶のような質問だった。


「特別だ。昨晩、城を守った朝だ。うまいもの食わなくてどうする」


 ブルーノさんが大きな声で言った。食堂のみんなが少し笑った。俺も笑った。正確には、口元が少し緩んだ程度だった。

 あの娘が俺の顔を見た。頬の薬の跡を見ていた。


「ニクラスさんに言われて手当てしたらしいですね」


 マルタさんが俺の代わりに言った。ニクラスに言われて、という部分が正確だった。あの娘が「そうですか」と小さく言った。それ以上は聞かなかった。あの娘は、聞くべきでないことは聞かない人だった。

 俺はスープを一口飲んだ。温かかった。生きて戻ってきた者が飲む温かいスープだった。

 ケスラー様の奥様と娘は、まだこの食堂には来ていなかった。たぶん今は別の部屋で休んでいる。

 疲れと、安心と、半年分の涙を整理するのに、一晩では足りないだろう。いつか、この食堂に来る日も来るかもしれない。あるいは、ケスラー様と一緒に、別の場所で静かに暮らすかもしれない。それは俺が決めることではない。

 あの娘がかぶの煮込みを口に運んだ。うまそうに食べていた。隣のマルタさんと何か話していた。

 俺は聞かなかった。聞かなくても、声の明るさでわかった。

 朝が来た。あの娘が食堂でスープを飲んでいる。この日常を、俺は守った。ニクラスも守った。テルナー様もブレンナー様も、城のみんなが守った。そしてあの娘が、自分では気づかないうちに、みんなを守っていた。角を揃えただけ、と言いながら。

 それでよかった。


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― 新着の感想 ―
主人公を心配させないために、既に逃げてたと伝えたのかな。
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