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【第二部開始!】わたしの特技ですか? 整理整頓です。 ~なんでかお城のお偉いさんがたくさん相談しに来るけど、角を揃えただけなので~  作者: 絹田屋
第一部 番外編

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番外編:ヴォルフ視点 兵士のまなざしより


 ブレンナー様から話を聞いたのは、秋の初めだった。

 兵舎の奥で剣の手入れをしていたら、軍務官が入ってきた。ブレンナー様が直接兵舎に来るのは珍しい。たいていは伝令を寄越す。俺は剣を膝の上に置いて立ち上がった。


「ヴォルフ。座っていろ」


 俺は座った。ブレンナー様が向かいの椅子に腰を下ろした。大柄な体が椅子をきしませた。


「明日、テルナーの紹介で城下町の娘が一人、武器庫の棚卸しに来る」

「はい」

「お前に手伝いを頼みたい。重い物を運ぶ手が要る」

「了解しました」


 ブレンナー様が椅子に背を預けた。武器庫に城下町の娘を入れる。軍務の場所に外の人間を通す決断を、この人はもう済ませた顔だった。


「その娘について、ひとつだけ言っておく」

「はい」

「片付けの名手だそうだ。マルケス商会の倉庫を立て直した。ホルスト家の書庫から徴税記録を掘り起こした。ヴェーバー家の薬棚を整えた。テルナーが書庫の整理を頼んだら、三日で終わらせた上に、三年間誰にも見えなかった数字の乖離を見つけた」


 俺は黙って聞いていた。


「お前の役目は、その娘の手伝いだ。重いものを運ぶ。それだけでいい」

「了解しました」


 ブレンナー様が立ち上がった。出ていく前に、俺の剣を見て、一言だけ付け加えた。


「手入れを怠るな。何があっても抜けるようにしておけ」


 俺は頷いた。いつもと同じ言葉だった。


 夜、ニクラスが兵舎を訪ねてきた。

 俺たちは双子だ。一日に一回は顔を合わせる。話さない日もあるが、近くにいる。今夜のニクラスは、何か言いたそうな顔で来た。


「明日、武器庫に城下町の娘が来る」


 俺が先に言った。ニクラスが頷いた。知っていた顔だった。

 双子は、相手が何を知っているかを測れる。


「書庫を三日で片付けた娘だな。お前が手を貸したという」

「ああ」

「どういう娘だ」


 ニクラスがそこで黙った。何か考えている顔だ。答えを選んでいる間だった。


「……棚を見る目が、他の人間と違う」


 それだけだった。ニクラスは人の話をするとき、めったに形容を使わない。その男が「違う」と言うなら、違うのだろう。


「俺の役目は、重い物を運ぶだけだ」

「そうか」


 ニクラスの「そうか」には特に意味はないはずだ。ただの相槌だ。だが今夜のニクラスは、その「そうか」のあとに少しだけ間があった。何かを言いかけて飲み込んだような間。


「何日かかるんだ」

「本人の見積もり次第だと聞いた」


 俺がもう一度、聞かれてもいないことを言った。なぜ言ったのか、自分でもわからない。ただ、確認したかったのかもしれない。何日かかるのか、と。


「それは本人次第だ。まだわからない」


 ニクラスがそう答えた。それだけだった。

 ニクラスが帰った後、俺は剣を磨き続けた。刃を布で拭った。水で濡らさず、油を薄く塗った。明日抜けるようにしておく。ブレンナー様の言葉を思い出した。「何があっても抜けるようにしておけ」。

 武器庫の棚卸しで、剣を抜くことになるとは思わなかった。抜くことはなかった。だが、ブレンナー様の言葉は、その日以降、頭の中に残り続けた。


二


 翌朝、武器庫に呼ばれた。

 地下に下りる階段は冷たい。松明の灯りが石壁を撫でている。武器庫の中では、ブレンナー様がその娘に棚卸しの説明をしていた。

 その娘がいた。

 亜麻色の髪を後ろで一本にまとめた、痩せた娘だった。城下町の娘の服装。仕立ての良くないワンピース。頬が少しこけている。武器庫の真ん中に立って、棚を順番に見ている。俺が入ってきても、すぐには振り向かなかった。

 全体を見ている、とわかった。剣の稽古で間合いを測るときの目に似ていた。一つひとつを見ているのではなく、全部を一度に見ている。


「手伝いをひとりつける」とブレンナー様が言って、俺を目で示した。娘が振り向いた。亜麻色の髪が動いた。薄い青の目だった。そばかすが頬に散っていた。

「ヴォルフだ」

「ミーナです。よろしくお願いします」


 お辞儀された。俺も頭を下げた。それで挨拶は終わった。それ以上、何か言う必要はなかった。この娘も、何かを言ってほしそうではなかった。

 ブレンナー様が出ていって、俺とその娘が武器庫に残った。

 すぐに作業が始まった。


「ヴォルフさん、剣を棚から下ろして壁際に並べてください。長いものと短いものを分けて」


 俺は頷いて動いた。剣を棚から下ろして、壁際に並べた。長いものと短いもので分ける。難しい指示ではない。だが、この娘の指示は妙に正確だった。「長いもの」「短いもの」と言われただけなのに、どこに何本ずつ並べるか、無駄のない配置で頭に浮かんだ。たぶんこの娘の頭の中には、すでに完成形があるのだろう。俺はその完成形に向かって動いている。

 その娘は、自分でも動いていた。短剣や矢筒など、自分で持てるものを別の棚に移していた。動きに無駄がない。一度持ち上げたものを途中で置き直すことがない。最初から最後まで、一本の線で動いている。剣の稽古で、無駄のない動きをする者を見たときと同じ感覚があった。


「こっちの棚に、長い順で入れてください」


 俺は黙って従った。指さされた位置に、正確に置いていく。長剣の刃の形が違うものがある。柄の材質も違う。だがこの娘は剣のことを知らないはずなのに、「同じ形のものを揃えて棚に戻す」と指示してきた。形と大きさで分けている。剣の知識ではなく、整理の知識で動いている。

 俺はその動きを横で見ていた。見ながら、自分の役目を果たした。重いものを運び、指示された場所に置き、また次の指示を待った。会話はほとんどなかった。必要な指示と、俺の短い返事だけ。

 半日経った頃、その娘が手を止めた。何かに気づいたような顔だった。

 棚の裏に掛けてあった台帳を取った。読み始めた。読み終わって、もう一度棚を見た。それからまた台帳を見た。

 俺はその顔の変化に気づいた。最初の「全体を見る目」とは違う目になっていた。何かを数えている目だ。


「ヴォルフさん」

「はい」

「もう一度、剣を数えていいですか」

「どうぞ」


 俺は壁際に並べた剣を、邪魔にならないように一歩下がった。その娘が剣の前を歩きながら、指で数えている。声に出さない。指の動きだけ。終わって、もう一本ずつ列を確認した。


「やっぱり、四十七本です」


 その娘がそう呟いた。俺に向かって言ったのではなさそうだった。自分に向かって言っていた。

 台帳をもう一度見て、それから棚の裏側に回った。壁と棚の間に何かが落ちていないか確認している。隣の小部屋の扉まで開けて、中を覗いた。何も言わずに戻ってきた。

 俺はその動きを見ていた。見ていて、自分も確かめてみる気になった。指示されたわけではない。

 ただ、この娘が二度数えて同じ数字にたどり着いたのを見て、自分の目でも確認しておきたかった。

 兵士の癖だ。上司に報告を上げる前に、自分で一度確認する。

 俺は娘に気づかれないように、壁際の剣を数えた。指で、静かに。四十七本だった。短剣も数えた。三十三本だった。槍の穂先、二十八個。弓、十五張。盾、二十一枚。

 その娘の数字と、俺の数字は同じだった。

 数え終わって、俺は小さく頷いた。この娘の数字は正確だ。間違いではない。ということは、台帳の数字のほうがおかしいのだ。


「ヴォルフさん。配置図を書きます。少しお待ちください」

「了解です」


 その娘が紙と炭筆を取り出して、棚の配置を描き始めた。各棚に何が何本あるかを書き込んでいく。台帳の数字と、自分が数えた数字を並べて書いている。差が出ている品目に印をつけている。

 俺は壁にもたれて、その娘の手を見ていた。炭筆の動きが速い。書く字は小さいが整っている。書記官が書く字と似ている。だがニクラスの字とは違う。ニクラスのほうが線がもう少し細い。この娘の字は、線の太さが均等で、角がきっちり揃っている。

 書き終えた紙を、その娘が俺に見せた。


「これでいいでしょうか。ブレンナー様にお渡しします」

「はい」


 俺はその紙を見た。差が書いてあった。剣、十三本足りない。短剣、七本足りない。弓、五張足りない。

 俺は剣を握る手を、無意識に握った。

 武器が消えている。半年で、これだけの数。誰かが持ち出している。組織的に。少しずつ。気づかれないように。

 俺の頭は、武器庫の管理について素早く考えた。鍵は誰が持っていたか。出入りした記録はあったか。半年前の棚卸しは誰がしたか。すべて、答えは「ブレンナー様」に繋がる。

 ブレンナー様が武器を持ち出すはずがない。あの方は誠実な軍人だ。だとすれば、ブレンナー様の管理下で、誰かが手を加えている。

 ああ、と思った。

 この娘は、おかしな話を見つけてしまうんだ。気づかないうちに。整理しているだけのつもりで。気持ちが悪いから整える、それだけのつもりで。

 俺はもう一度、その娘の顔を見た。何もない顔だった。整え終わって、配置図を書き終えて、それを上司に渡そうとしているだけの顔。自分が見つけてしまったものの重さを、まだわかっていない顔。


「行きましょうか」


 その娘がそう言った。俺は頷いた。

 階段を上がりながら、俺は剣の柄に手をかけた。抜かなかった。ただ、いつでも抜けるようにしておいた。ブレンナー様が昨日言っていた。「何があっても抜けるようにしておけ」。


三


 秋祭りの前日、仕事が早めに終わった。

 武器庫の棚卸しの件が落ち着いてから、俺の仕事は普段通りに戻っていた。だが、あの娘が書庫に通い始めた頃から、城の中の空気が少しだけ変わっていた。テルナー様の執務室の灯りが夜遅くまで点いている。ブレンナー様が兵舎に来る頻度が増えた。ニクラスも書庫で夜まで帳面を書いている日が増えた。

 その日は、珍しく俺もニクラスも夕方までに仕事が片付いた。俺はニクラスに声をかけた。


「今日は外に出るか」

「外」

「城下町で飯だ。久しぶりに」


 ニクラスは少し考えて、「行く」と短く答えた。俺たちは双子だが、一緒に食事に行くのは数ヶ月に一度あるかないかだった。ニクラスは帳面の前にいるのが好きで、俺は兵舎にいるほうが落ち着く。だが、今夜は珍しく、二人で出た。

 城下町の南通りを歩いた。秋祭りの前夜で、通りが浮き足立っていた。屋台の匂いがあちこちから漂っている。肉を焼く煙。揚げ物の油の音。甘い菓子の匂い。俺たちは赤とんぼ亭を目指した。何度か行ったことのある食堂だ。料理の量が多い店として、兵士の間では知られている。

 赤とんぼ亭は祭りの前夜で混んでいた。奥のテーブルに二人分の席を確保できた。俺は品書きを指さした。


「揚げ鶏、ヒラ焼き、ロースト肉。全部持ってきてくれ」


 店主が少し笑った。兵士の注文だ、と思ったかもしれない。ニクラスが追加で魚の煮付けとスープを頼んだ。


「パンも」


 ニクラスが短く付け加えた。兵舎のパンとは違う、焼きたての黒パンがこの店の売りだった。

 料理が運ばれてきた。大皿に揚げ鶏、ヒラ焼き、ロースト肉が盛られている。魚の煮付けが別の皿で来た。スープが二つ。パンの籠。テーブルの上がすぐにいっぱいになった。

 俺とニクラスは、ほとんど同時に手を伸ばした。

 子供の頃からそうだった。大皿が目の前に来たら、二人で競い合うように食べた。母が「二人とも、少しは遠慮しなさい」とよく言っていた。でも腹が減っていたから、遠慮はしなかった。遠慮しないのが兄弟だった。大人になった今でも、その癖は抜けていない。

 俺は揚げ鶏を掴んだ。ニクラスがロースト肉を切り始めた。パンの籠から一つずつ取った。スープは各自の前に置いた。黙って食った。話すより、食べるほうが先だった。

 揚げ鶏の衣がぱりっとしていた。中の肉が熱くて汁が出た。ヒラ焼きは香ばしい香辛料の味がした。ロースト肉は骨付きで、ニクラスが骨の周りの肉まで丁寧に削ぎ落としていた。書記官の仕事と同じ手付きだった。細かいところまで見逃さない。

 半分ほど食ったところで、俺は手を止めて水を飲んだ。ニクラスも同じ頃に手を止めた。双子は、腹が満たされる速度も似ている。

 そこに、扉が開いた。

 その娘だった。

 亜麻色の髪を後ろで結んで、薄い青の目をした、あの娘。武器庫で手伝った娘。俺とニクラスは、同時に目を上げたと思う。娘も俺たちに気づいた。店主が「相席でもよければ奥にひと席だけ」と言っていた。


「あ、知り合いです。あちらにお邪魔します」


 娘が俺たちのテーブルに近づいてきた。ニクラスが小さく頷いた。


「ミーナ殿」

「こんばんは。先日はお世話になりました。満席でして、相席させてもらっていいですか」

「どうぞ」


 ニクラスが隣の椅子を引いた。俺は肉を噛んでいたので、頭だけ下げた。口がいっぱいだった。

 娘が座った。テーブルの上の大皿を見て、少し驚いた顔をしていた。揚げ鶏、ヒラ焼き、ロースト肉、魚の煮付け、パンの籠、スープ二つ。普通の二人分ではない。兵士と書記官の食事というより、働きに来た大人の男たちの食事だった。

 娘が食事券を出して、店主に白身魚の焼き物とかぶときのこのスープを頼んでいた。俺は肉を飲み込んで、少しだけ体の向きを変えた。娘を観察する位置に。警戒ではない。ただ、見ていたかっただけだ。

 料理を待つ間、娘が俺たちを見ていた。


「あの、お二人って」

「双子です」


 ニクラスが答えた。あっさり答えた。俺はそのあっさりさに、内心で少し笑った。


「そうだったんですか。どおりで」

「こいつが兄です」


 俺は親指でニクラスを指した。ニクラスが「一刻だけだ」と言い返した。よくある応酬だった。子供の頃から繰り返してきた。

 娘の顔に、小さな疑問が浮かんでいるのが見えた。双子なのに、なぜ文官と武官に分かれたのか。

 口には出さなかったが、顔に出ていた。俺は娘の顔から、そういうものを読むのに少しだけ慣れ始めていた。


「子供の頃から、こいつは本ばかり読んでいて、俺は外で鍛錬をしていた」


 俺は言った。誤魔化しではない。本当のことだ。兵舎に入るずっと前、俺は裏庭で木刀を振っていた。毎日、何時間も。


「……鍛錬というより暴れていた」


 ニクラスが小さく訂正した。俺は笑った。確かに、子供の頃は鍛錬と暴れの区別がついていなかった。ニクラスの言うほうが正確かもしれない。


「母は同じ顔が二つあるからしょっちゅう間違えていた。こいつが叱られるべき時に俺が叱られたり」

「逆もあった」


 双子の応酬だった。俺はいつもより口数が多かった。ニクラスが俺を見た。「お前、今夜はよく喋るな」という顔をしていた。俺もそれに気づいた。気づいたが、理由は考えなかった。

 料理が来た。白身魚の焼き物。娘が一口食べた。


「おいしい」


 思わず声が出た、という感じだった。目の前がぱっと広がるような顔をしていた。俺は揚げ鶏の次のひとつを手に取りながら「うん」と言った。それだけで通じる。ニクラスは口の端が少しだけ動いた。

 かぶときのこのスープも来た。娘が飲んでいた。何かを思い出すような目で。

 俺とニクラスは食事に戻った。大皿の上の肉がまだ半分残っていた。ニクラスがロースト肉の最後の一切れを取った。俺は揚げ鶏の骨までしゃぶっていた。娘がそれを横目で見ていた。少し驚いた顔をしていた。


「祭りの警備で来週から忙しくなる。また前後で仕事を依頼するかもしれない」


 口の中が空いたので、俺が言った。


「そうなんですか、お疲れさまです」

「ミーナ殿も忙しそうだな。さっき通りで見かけた。台を動かしていた」

「青果屋さんの台の配置を直したんです」


 娘が脚の長さが五ミリ違っていた話をした。俺は思わず「五ミリがわかるのか」と聞いた。ニクラスが「わかるのだそうです」と答えた。娘の代わりに。娘が少しだけ面映ゆそうな顔をした。

 五ミリ。目で見てわかる人間はいない。普通は気づかない。この娘は気づく。そしてこの娘は、それを特別なことだと思っていない。「気持ち悪いから直した」という顔をしている。

 俺は残りの肉を食い終わった。ニクラスも食い終わっていた。大皿は空になった。パンの籠も空になった。スープも飲み干した。娘も白身魚を食い終わって、スープを最後まで飲んでいた。

 店主が空の大皿を下げに来て、「よく食うなあ、兄さんたち」と笑った。俺は片手を上げて応えた。ニクラスは何も言わなかったが、少しだけ口の端が動いていた。

 食事を終えて、店を出た。秋の夜風がひんやりしていた。通りには祭りの前夜の提灯が並んでいた。


「では、」


 娘が別れの挨拶をしようとした。そのとき、ニクラスが言った。


「仕立屋の角でしたか」


 俺は少し驚いた。ニクラスが娘の住所を覚えていた。以前、馬車で送ったときに聞いたのだろう。

 それを、今、ニクラスがはっきりと口に出して確認した。


「はい。すぐそこですから、大丈夫です」

「通り道ですから、送ります」


 通り道、とニクラスが言った。

 俺は、ああ、と内心で思った。

 城は北だ。仕立屋の角は南寄りだ。通り道ではない。だがニクラスは「通り道」と言った。理由が要るから、理由を作った。ニクラスが、だ。

 ニクラスが娘に理由を作るのを、俺は初めて見た。普段のニクラスは、理由がなければ動かない。

 テルナー様の指示に従うのは、指示があるからだ。俺に声をかけるのは、双子だからだ。ニクラスの行動には、いつも明確な理由があった。

 だが今夜、ニクラスは「通り道」という作り物の理由で、娘を送ろうとしている。

 俺はそれに気づいた。気づいたが、何も言わなかった。ニクラスが隣で、俺と似たようなことを感じているらしい、とわかっただけだ。双子は、言わなくてもわかる。

 俺はもう歩き出していた。ニクラスに合わせるふりをして。実際は、俺も娘を送りたかった。自分でもそう思った。

 三人で並んで歩いた。俺が一番背が高くて、ニクラスがその隣で、娘が少し後ろ。誰も喋らない。

 提灯の明かりが三人の影を石畳に落としていた。

 仕立屋の角に着いた。


「ここです。ありがとうございました」

「おやすみなさい」とニクラスが言った。俺は片手を上げた。それだけだった。


 娘が家の方向に歩いていく後ろ姿を、俺は少しだけ見送った。ニクラスも同じように見送っていた。二人とも、同じ方向を見ていた。

 背を向けて、城のほうに歩き始めた。


「通り道、か」


 俺はニクラスに聞いた。嫌味ではなかった。ただ、確認したかった。

 ニクラスが少し黙ってから、答えた。


「……通り道だ」

「そうか」


 それ以上は言わなかった。双子は、言わなくてもわかる。今夜の「通り道」は、俺とニクラスの共通の言葉になった。

 秋の夜風が冷たかった。提灯の灯が揺れていた。祭りの前夜の城下町が、俺たちの後ろで少しずつ静かになっていった。


四


 秋祭りの日、俺は警備の腕章をつけていた。

 城下町の南通りから北広場まで、昼の巡回は三度ある。人が多いから、普段よりも気を張る必要があった。だが今日は、それだけではなかった。もう一つ気を張る理由があった。

 その娘だ。

 祭りの朝、俺は知っていた。あの娘が今日は城に来ない日だと。テルナー様から聞いていた。


「ミーナ殿は城下町で過ごす。巡回の最中に見かけたら、目配りだけしておいてくれ」と。


 目配りだけ、という言い方は、その娘を警護対象として指定しているのと同じだ。でもはっきり「警護しろ」とは言わない。なぜか。あの娘に気づかれないためだ。あの娘は自分が狙われているとまだ気づいていない。気づかないままで整理整頓を続けている。それが今のところ、あの娘を守っている。

 午後、広場で子供の踊りが始まった。人垣ができて、背の低い娘では見えないだろうと思った。俺は広場の端に立って、巡回の合間に舞台のほうを向いていた。

 その娘が広場の端に来た。背伸びをして、見えないのか、眉を寄せている。俺の位置からは、その娘の頭のてっぺんが見えた。

 俺の足が、勝手に動いた。

 正確には、動きかけた。あの娘の隣に行って、背の高さで肩越しに見せてやろう、と考えた。考えたけれど、理由がなかった。「警備中だから近寄らない」が筋だ。「通りかかった知り合いに軽く挨拶する」でもいい。でも「見せてやる」は行き過ぎだ。

 俺は動きかけた足を止めた。止めたつもりだった。だが次の瞬間、俺は娘の隣に立っていた。


「ミーナ殿」


 出た言葉は普通だった。普通の挨拶の声だった。


「こんにちは。お仕事中ですか」

「休憩に入った。ニクラスは向こうの門にいる」


 嘘ではなかった。休憩時間だ、と自分に言い聞かせた。それに、ニクラスが向こうの門にいるのは事実だった。

 娘が俺の肩越しに舞台を見ているらしい。俺は半歩横にずれた。舞台のほうがよく見える位置に。

 小さな子が揃いの衣装で踊っている。娘が拍手した。俺は拍手しなかった。口元が少し緩んでいたかもしれない。よくわからない。


「串焼き食べますか」

「休憩中だ」

「休憩中だから食べられるのでは」


 俺は少し考えた。昨夜、赤とんぼ亭で一緒に食事をしたばかりだ。今日も食う流れになるのは、妙な気がした。だがこの娘が買いに行く、と言っているのを断る理由は、なかった。


「一本だけ」


 娘が屋台の列に向かって歩いた。戻ってきて、串焼きを一本差し出した。俺はそれを受け取った。

 三口で食った。速い、と娘が言いたげな顔をしていた。昨夜と同じ顔だ。俺は言い返さなかった。

 食い終わって、門のほうにニクラスが来た。ニクラスは記録係だから、門で人の出入りを書いている。俺は娘に、もう一本串焼きを買って、ニクラスに届けてくれと頼んだ。自分で届けに行ってもよかった。でもそうしなかった。

 娘が包みを持って、門のほうに歩いていった。俺はその背中を見ていた。見ていた、ということだけが、あとから残った。


 日が暮れて、提灯が点いた。祭りの灯りが城下町全体を暖色に染めていた。俺の巡回は夜まで続いていた。

 その娘がまた広場にいるのを見つけた。今度は一人で、楽団の演奏を聴いている。大人の楽団で、弦楽器の音が重く響いていた。娘の体が、音に合わせて少しだけ揺れていた。俺の位置からは後ろ姿しか見えなかった。

 俺はその後ろ姿を、数秒、見ていた。

 数秒だ。それ以上は見なかった。見なかったはずだ。

 そのとき、ああ、と思った。

 なぜ「ああ」と思ったのかは、考えなかった。考えても答えが出ないことは、考えない。剣の稽古で学んだことだ。答えの出ない動きを考え続けるより、次の動きに移ったほうがいい。

 俺は次の巡回に移った。


 娘が帰る時刻になった。仕立屋の角を曲がる前に、俺は自然と後ろについていた。巡回のついでだ、と自分に言い聞かせた。でもこの通りは巡回経路ではない。娘の家がある方向だ。

 仕立屋の角を曲がった。祭りの音が遠くなった。静かな通りだった。提灯の数が急に減る。暗い道を、娘が歩いている。俺は半歩後ろを歩いていた。

 娘の家が見えた。玄関脇に置いてある陶器の鉢植え。

 娘の足が止まった。

 俺の目も、同時に鉢植えに行った。

 ずれている。

 壁からの距離が、朝とは違う。俺は朝、この家の前を巡回で通ったとき、鉢植えの位置を覚えていた。娘が毎朝確認する位置だから。覚えていないとおかしいから。今、それがずれている。三センチ。

 娘が呟いた。「鉢植えが動いています」。

 俺は鉢植えの前にしゃがんだ。地面を見た。靴底の跡があった。鉢植えの前に立って、扉のほうを向いた跡。一人分。

 立ち上がって、建物を見上げた。二階の窓。留め金。外から見て、かすかに浮いている。朝はきちんと閉まっていた。誰かが外から持ち上げて開けようとした跡だ。

 俺は判断した。即座に。


「ミーナ殿。今日は家に入るな」


 言葉が出た。短く、硬く。巡回中の声だ。


「え」

「このまま城に来てくれ」

「なぜですか。鉢植えがずれているだけです」


 俺は立ち上がって、娘の顔を見た。街灯が少ないので、娘の顔は半分影になっていた。片方の目だけが、ぼんやりと見えた。薄い青の目。いつもと同じ目だった。だがその目は、状況を理解していない目だった。

 鉢植えがずれただけ。娘にとってはそれだけのことだ。大家の掃除か、猫か、あるいは風か。普通はそれで済ませる。だが鉢植えがずれるということは、誰かが鉢植えの前に立ったということだ。誰かが家を見上げたということだ。誰かが、この娘の暮らしの場所の位置を確認したということだ。

 それは、狙いを定める動きだ。

 俺はそれを知っていた。軍人として。獲物を狙うときに、人間はまず距離を測る。そして位置を覚える。そして戻ってくる。だから鉢植えがずれている時点で、次に来る者がいる。次は鉢植えだけでは済まない。


「鉢植えだけじゃない。二階の窓の鍵が浮いている。外から見てわかるか」


 娘が見上げた。気づいた顔をした。


「……誰かが入ろうとした?」

「入ったかどうかはわからない。だが今は確認しないほうがいい。城に行こう」


 娘が自分の部屋を見上げた。何かを言いたそうな顔をした。


「荷物が」

「明日取りに来る。俺がついて行く」


 娘がしばらく黙ってから、頷いた。


「……わかりました」


 踵を返した。俺は半歩後ろに下がって、娘の後ろについた。歩き始めてから、俺の目は通りの影、路地の奥、屋根の上を見ていた。誰かがいるかもしれない場所を順番に確認していた。剣の柄に手はかけていないが、いつでもかけられるようにしていた。

 城に向かって歩きながら、俺は娘の背中を見ていた。

 娘は歩きながら、何かを考えていた。肩の線でわかった。歩幅が普段より短い。考え事をしているときの歩き方だ。

 俺は何も言わなかった。言うべきことは、さっき全部言った。あとは城に着くまで、何も起こらないように見張るだけだ。

 城の門に着いた。衛兵が俺を見て通した。


「テルナー様に報告する。ミーナ殿は書庫の控室で待っていてくれ」

「はい」


 娘が控室に向かって歩いていった。俺はその背中を見送って、それからテルナー様の執務室に向かった。

 歩きながら、俺は自分の手を見た。剣の柄に触れなかった手。でも、いつでも抜ける位置にあった手。

 この手は、今日から別のものを守る手になった気がした。

 なぜそう思ったのかは、考えなかった。


五


 大掃除が終わった。年の瀬だった。

 あの娘が城の隅々まで片付けた。俺は警備の合間に、廊下や階段の角がきれいに揃っているのを見た。「ミーナ殿の基準になった」と誰かが言っていた。城の中が違って見えた。

 大掃除の翌日、俺は城の北側の見回りをしていた。

 いつも通りの巡回だった。昼前。地下への階段の近くを通ったとき、下から足音が上がってきた。遅い足音。二人分。だが、揃っていない。一人がもう一人を支えている足音だ。

 ニクラスだった。あの娘に肩を貸して、半ば抱えるようにして階段を上がってきた。

 ニクラスの顔が青白かった。汗をかいていた。娘は自分の足で歩いていた。歩いてはいたが、足取りは頼りなく、ニクラスの腕がなければ崩れそうに見えた。

 娘の顔は、ニクラスの肩越しに半分だけ見えた。目は開いていた。でも顔色がない。髪が汗で額に張りついていた。呼吸は浅いが、止まってはいない。

 俺は一瞬、娘に駆け寄りそうになった。抱え上げて運ぼうとした。だがやめた。娘は自分の足で歩こうとしているのだ。抱え上げれば速い。でもこの娘は、たぶんそれを望まない。俺はニクラスの反対側に立って、歩幅を合わせる役に徹した。


「俺がいる。ゆっくりでいい」


 俺はニクラスにそう言った。「俺がいる」の意味は、ニクラス自身にもわからなかったかもしれない。俺自身もわからなかった。ただ、言いたかった。ここに俺がいる、と。だからお前は娘を支えることに集中しろ、と。俺は周りを見張る、と。

 ニクラスが小さく頷いた。

 控室に着いた。娘が寝台に横になった。俺は扉の前に立った。

 娘は寝台の中で、まだ浅い呼吸をしていた。でも段々と落ち着いてきた。俺はその場にいたが、何もしなかった。何もできなかった。ニクラスが厨房に走って、温かいお茶とブルーノさんの焼き菓子をもらってきた。

 翌朝、娘は高熱を出した。俺は騒ぎを聞きつけて駆けつけた。リーゼ様が医者を呼びに走ってくれた。フリーダとマルタさんが着替えとシーツを持って部屋に入った。ブルーノさんがおかゆを作り始めた。

 みんなが動いていた。俺は扉の前に立って、周囲を見張っていた。

 誰かに命令されたわけではなかった。テルナー様から「警護しろ」と言われたわけでもない。ただ、俺にできることがそれしかなかったから、立っていた。部屋に入って娘の顔を覗き込むのは、俺の役目ではない。女性が世話をしている部屋に大男が踏み込むのは、娘を不安にさせるだけだ。

 だから俺は扉の横に立った。誰も来ない廊下を、ただ見張っていた。それでも、何もしないよりはましだと思った。


 夜になった。娘は熱で眠っていた。フリーダが付き添っていた。テルナー様が一度、顔を見に来て、ニクラスと短く話して帰っていった。

 俺はテルナー様に呼ばれて、執務室に行った。


「ヴォルフ。地下のことは聞いたか」

「いいえ。詳しくは」

「ミーナ殿が地下の奥の倉庫で、閉じ込められていた痕跡を見つけた。足枷、爪の跡、腐った食べ物。人質が監禁されていた場所だ。今は使われていないが、半年前まで使われていた」


 俺は黙って聞いていた。テルナー様の目が重かった。


「ミーナ殿は、その部屋を見て発作を起こした。ニクラスが支えて連れ帰った。過呼吸だ。体は弱っているが、命に別状はない」

「はい」

「ヴォルフ。ミーナ殿を今夜からしばらく見張れ。控室の前でいい。誰も入れるな。私、リーゼ様、ニクラス、フリーダ、マルタ、ブルーノ。この六人だけ通せ」

「了解しました」


 俺は兵舎に戻って、警備の交代を手配した。北側の巡回は別の兵士に任せて、俺は控室の前に張り付くことになった。ブレンナー様にも伝えた。ブレンナー様は何も聞かずに「わかった」と言っただけだった。


 夜遅く、控室に戻った。

 フリーダが椅子で居眠りしていた。娘は眠っていた。額に布巾が載っていた。水差しが机の上にあった。壁際、机の端から五センチ。定位置のままだ。眠っている娘の手からは遠い。

 俺はその水差しに手を伸ばした。

 動かした。寝たまま手が届く位置に。定位置を俺が知っているのは、娘が朝の手順を何度も口にするのを聞いていたからだ。棚を確認して、水差しの位置を見る。壁際、机の端から五センチ。覚えようとして覚えたわけではない。だが今は、定位置よりも、熱のある手が届くことのほうが大事だ。治ったら、元の位置に戻ればいい。

 水差しを動かしてから、俺は自分の手を見た。

 この手は、剣を握る手だ。人を守るために剣を抜く手だ。その手が、今、水差しの位置を直している。

 書記官の兄も、たぶんこういう手の使い方をしているのだろう。ペンを握る手で、帳面を書いて、それで娘の周りを整えている。俺とは違う道具だが、同じことをしている。

 隣の部屋でフリーダが寝返りを打った。娘も小さく寝息を立てている。俺は椅子に座らなかった。

 扉の横に立ったまま、夜が明けるのを待った。


 翌日も、娘は目を覚まさなかった。

 熱は少し下がった。でも、体はまだ起き上がれる状態ではなかった。医師が朝と昼に様子を見に来た。「このまま休めば大丈夫です。若いですから」と言っていた。

 フリーダが付き添いの交代を申し出た。リーゼ様も顔を出した。マルタさんがおかゆを持ってきた。みんなが代わる代わる部屋に入っていった。俺は扉の横に立っていた。立ち続けていた。

 ニクラスも一度、顔を見に来た。ニクラスは何も言わずに部屋を覗き、俺と目が合って、小さく頷いた。俺も頷き返した。それだけだった。

 昼を過ぎ、夕方になり、また夜になった。娘は眠り続けていた。

 俺は扉の横から動かなかった。疲れないわけではなかった。でも、動かないほうが楽だった。動いたら、また別のことを考えてしまう。考えないためには、立ち続けているのがよかった。

 夜中、フリーダが「少し休ませて」と小さく言って、隣の椅子で眠った。俺は扉の横から、フリーダが眠る音と、娘の呼吸音を両方聞いていた。呼吸が整っている。熱はまだあるが、呼吸は普通だ。

 それでいい。


 丸一日と半日経って、娘が目を覚ました。

 正確には、俺が扉の前で立っているときに、中からフリーダが小さく声を上げた。「あ、ミーナさん! 起きた!」。俺は扉の隙間から中を見た。娘が寝台の上で目を開けていた。額の布巾を手で触っていた。

 俺は部屋の中に入った。娘の反対側から、寝台に近づいた。娘が俺を見た。薄い青の目。いつもより少し潤んでいた。でも、意識ははっきりしていた。

 娘が起き上がろうとした。


「動くな」


 俺は手を伸ばして、娘の額に手の甲を当てた。熱を確かめた。大きくて冷たい手だ、と娘が思ったかもしれない。俺の手は、普段から冷たい。剣を握る手は、血の巡りが指先まで行きにくい。


「まだ熱がある。寝てろ」


 娘が俺を見ていた。


「……どのくらい寝ていましたか」

「丸一日と半日」


 娘の顔が、少しだけ変わった。丸一日と半日。その間、棚を確認していない、と思った顔だった。

 水差しの位置を――と言いかけて、俺は先に伝えた。


「棚はニクラスが確認した。水差しは俺が位置を直した。動くな」


 娘の目が、少しだけ潤んだ。気のせいかもしれない。俺はそれを見ても、何も言わなかった。言う言葉がなかった。言葉が出てこなかった。

 言葉が出てこないときは、黙っている。それが俺の流儀だ。剣を振るときに、振らない瞬間があるのと同じだ。振らないでいい瞬間は、振らない。言わないでいい瞬間は、言わない。


「テルナー様には」

「報告済みだ。地下の件も。お前は寝てろ」


 娘が小さく頷いた。

 フリーダが目を覚ました。椅子の上で首が傾いていたのを起こして、俺と交代するように寝台の横に来た。俺は扉の横に戻った。立ち位置は変わらない。俺の役目は、見張ることだ。

 娘が再び眠りに落ちるまで、俺はそこに立っていた。娘の呼吸が整ってから、もう一度水差しの位置を確認した。動いていなかった。


六


 冬の終わりの馬車の中だった。

 あの日、ミーナ殿が城下町の家の片付けに行くのに同行した。冬の間、ほぼ城で過ごしていた娘が、久しぶりに家の様子を見に行く日だった。ニクラスが書庫の仕事で手が離せなかったので、俺が一人で同行した。

 行きの馬車は静かだった。娘は窓の外を見ていた。冬の城下町は雪が残っていた。石畳に雪が溶けて、馬車の車輪が水を跳ねていた。

 家に着いた。娘は家の中を一通り確認して、棚を拭いて、鉢植えの位置を直した。鉢植えは壁から十二センチ、扉の端から八センチ。俺はそれを知っていた。娘が手を伸ばす前に、俺は知っていた。

 一時間もかからずに娘の用事は終わった。それから通りの店を順に回った。仕立屋のカティが端切れのマフラーを娘の首に巻き、青果のおばさんがかぶを三つ持たせた。パン屋は焼きたてのパンを紙に包んだ。娘は行く先で同じことを言われていた。もっと胸を張りなさい、と。

 帰りの馬車に乗った。

 馬車が動き出した。

 娘が膝の上に布を広げた。中から、さっきのかぶが三つ出てきた。


「ヴォルフさん」

「ああ」

「これ、おばさんがくれました。ヴォルフさんも食べますか」


 俺は即座に答えなかった。

 かぶ。前にもおばさんからもらったと娘が言っていた。秋祭りの前の日だったか。とにかく、娘はおばさんからかぶをよくもらう。そしていつも、俺たちに「いりますか」と聞く。ニクラスにも聞く。俺にも聞く。

 俺はいつも断っていた。「いや」とか「いい」とか、短く。理由はない。ただ、もらう理由がなかった。娘が手に入れたものを、俺がもらう必要はなかった。娘が食べればいい。

 でもその日、俺は違うことを言った。


「かぶ、一つよこせ」


 言ってしまってから、自分で驚いた。

 なぜ今日、そう言ったのか。考えたが答えは出なかった。ただ、そう言いたかった。かぶを一つ、もらいたかった。

 娘が一瞬、驚いた顔をした。それから、袋からかぶを一つ取り出して、俺に差し出した。


「はい、どうぞ」


 俺はかぶを受け取った。小さくて、硬くて、冷たかった。冬のかぶだ。両手に収まる大きさだが、片手には収まらない。

 娘は布を閉じて、残りのかぶを膝の上に置いた。俺と娘の間で、何も会話はなかった。俺の手の中に、かぶがあるだけだった。

 窓の外を見た。雪が降っていた。冬の終わりの、最後の雪かもしれなかった。

 俺はかぶを、膝の上に置いた。両手で包むようにして。すぐに食べるつもりはなかった。兵舎に帰って、誰かに頼んで煮てもらうか、ブルーノさんの厨房に持っていくか。それは後で考えればいい。今はただ、膝の上にかぶがある。それだけでよかった。

 娘が、窓の外を見ていた。横顔が見えた。亜麻色の髪に、薄い青の髪留め。リーゼ様とお揃いの髪留め。娘はそれを毎朝、巾着から出すようにしている。

 俺はその横顔を、見ていた。見ていた、ということを、自分で認めていた。

 何も言わなかった。何も言う必要がなかった。

 馬車は城に戻る道を進んでいた。車輪が水を跳ねる音。馬のひづめの音。雪が窓に当たる小さな音。全部が混ざっていた。

 手の中のかぶが、ゆっくり俺の体温に馴染んでいった。最初は冷たかった外側が、少しずつ温まっていく。冬のかぶは固い。簡単には温まらない。でも、両手で包んでいれば、いつかは温まる。

 これでよかった、と俺は思った。これが今の俺の形だった。前のかぶは断った。今日のかぶはもらった。前は理由がなかった。今日は理由があった。理由を言葉にはしない。する必要がない。手の中のかぶが、理由のすべてだった。


 それだけのことだった。

 それだけのことが、俺にとっては初めてのことだった。


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