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わたしの特技ですか? 整理整頓です。 ~なんでかお城のお偉いさんがたくさん相談しに来るけど、角を揃えただけなので~  作者: 絹田屋


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番外編:ニクラス視点 書記官の机より

 秋になる前、天気が崩れやすい時期のことだった。


 テルナー様から執務室に呼ばれる用件はだいたい決まっている。帳簿の確認。書類の清書。たまに報告書の下書き。俺は書記官で、テルナー様の手の延長のような仕事をしている。

 剣を振るのは弟の仕事で、ペンを動かすのは俺の仕事。双子で役割を分け合っている。


「ニクラス。少し話がある」

「はい」

「近いうちに、城下町の娘が一人、書庫の整理に入る。期間はまだ決めていないが、状態を見て、本人が見積もらせる」


 意外な内容に、何度か瞬きをした。


「城下町の娘、ですか」

「ホルスト家から紹介があった。片付けの才があるそうだ。マルケス商会の倉庫を立て直し、ホルスト家の書庫から徴税記録を掘り起こし、ヴェーバー家の薬棚を整えたと聞いている」


 一人の娘が、三軒も。しかも商会、貴族家、薬種問屋。系統の違う仕事を全部。


「お前はいつも通りの仕事をしていていい。必要なら手を貸してやってくれ」

「承知いたしました」


 臨時の仕事だ。書記官が特別に面倒を見る必要はない。言われたら手を貸す。それで十分だ。そう受け取った。


 その夜、兵舎に寄ってヴォルフに会った。弟は剣の手入れをしていた。


「テルナー様が城下町の娘を呼ぶそうだ。書庫の整理に」

「聞いた」

「もう聞いたのか」

「ブレンナー様から。片付けの名手らしいな。うちの武器庫もお願いするかもしれん」


 ヴォルフは剣の刃先を布で拭いていた。手が止まらない。


「何日いるんだ」

「本人の見積もり次第だ」

「……そうか」


 ヴォルフの「そうか」には特に意味はなかったはずだ。ただの相槌だ。俺も「そうか」で済ませて、兵舎を出た。


 城に戻る道を歩いた。秋の夜風が冷たかった。数日の仕事なら、顔を覚えないまま終わるかもしれない。書記官と城下町の片付け屋。交わる理由が数日で消える関係。それで別に構わない。俺はペンを動かし、棚を整え、数字を並べるだけの人間だ。それでいいと思ってきた。町の娘が数日来たところで、俺の日常は何も変わらない。


 そう思っていた。変わらないはずだと。


---


 書庫に彼女が来て、俺が手伝いに入ったのは二日目だった。


 初日は俺は別の仕事で書庫には行かなかった。配置図を作っている、とテルナー様が言っていた。「三日いただけますか」と本人が申し出たそうだ。好きなだけ使っていい、とテルナー様は答えたらしい。


 二日目、テルナー様から「手を貸してやれ」と指示が来た。書庫に向かった。


 扉を開けて、足が止まった。


 棚から帳簿が全部下ろされていた。床に並んでいる。膨大な量だ。山ではなく、整列だった。山積みではなく、平らに並べられている。一冊ずつ。年度ごとに、種類ごとに。床の上に巨大な分類図ができあがっていた。


 その真ん中に、一人の娘がいた。亜麻色の髪を後ろで一本にまとめて、帳簿の間を歩き回っている。痩せている。頬が少しこけている。服は清潔だが、仕立ての良くないワンピース。どこにでもいそうな城下町の娘の装いだ。


 俺が入ってきたのに気づいて、軽く頭を下げた。俺も会釈を返した。それ以上は必要ないような気がした。この娘が話しかけてくる様子はなかったし、俺が名乗るタイミングでもなかった。


 代わりに、指示が来た。


「そこの山を、その棚の二段目に戻していただけますか。背表紙の角を棚板の縁に合わせて」

「わかった」


 俺は言われた通りに動いた。帳簿を持ち上げて、棚に戻す。角を縁に合わせる。その娘の指示は短いが正確だった。どの山をどの棚のどの段に戻すか。迷いがない。


 半日、俺はほぼ黙々と棚の往復を続けた。その娘も黙々と帳簿を並べ続けた。時々「その帳簿は隣の段に」「背表紙が逆を向いています」と指示が飛んだ。俺はその通りに動いた。


 一度だけ、その娘が指で棚の縁を触って距離を測るような仕草をした。奥行きを測っているのかもしれない。見たことのない仕草だった。


 半日で、棚の半分が埋まった。効率がいい。俺一人で配架していたら三日かかる量だ。


 その日、俺たちは一言も無駄な言葉を交わさなかった。必要な指示と、俺の短い返事だけ。名前も互いに知らないままだった。


 その夜、ヴォルフに会った。


「どうだった」

「……変わった子だ」

「どう変わっている」

「棚を見る目が、……天職かのような」


 ヴォルフが首を傾げた。


「才がある、と言いたかったのか」

「そうだ、同じ意味だ。物を見る目が、お前が剣を見るときに似ている」


 ヴォルフが少し考えて、それから頷いた。

 双子の便利なところは、多少は言葉が足りなくても通じる。


---


 三日目、俺は別の仕事があって書庫には行かなかった。配架は彼女一人で終わらせられる段階に来ていた。俺の手はもう要らなかった。


 だが、翌朝に廊下でその娘を見かけた。今日で四日目のはずだ。帳簿を数冊抱えて、テルナー様の執務室に向かっていた。顔が少しだけ硬かった。何かあったのだとわかった。でも、俺が関わる場面ではない。通り過ぎた。


 その夜遅く、テルナー様の執務室の灯りがまだ点いていた。俺が廊下を通ったとき、テルナー様が扉を開けて手招きした。


「ニクラス」

「はい」

「入ってくれ」


 机の上に、一覧が広げてあった。数字が並んでいる。

 きれいに並んでいるが、テルナー様の顔は険しかった。


「あの娘は、三年間の帳簿を突き合わせて、数字の乖離を見つけた。金貨三百枚以上。城壁修繕費が不自然に膨らんでいる」


 言葉を失った。金貨三百枚以上も?


「本人は、ただ数字が合わないと報告しただけだ。横領とは言っていない。気づいていないのかもしれない。あるいは、気づいていて言わないのかもしれない。どちらにしても、ここから先の仕事は三日では終わらなくなった」

「……はい」

「まだ考えることがある。今夜は戻れ」

「失礼いたします」


 執務室を出て、廊下を歩いた。大仕事になった。変わらないはずだった日常が、三日で変わり始めていた。


 彼女の顔を思い出した。帳簿を抱えて歩いていた廊下の顔。硬かったのは、自分が見つけたものが何を意味するかを、なんとなく察していたからだったのかもしれない。


---


 それからしばらく、俺は書庫での仕事を続けていた。

 俺はあの娘の名前を知らないままだった。


 正式に紹介されたのは、ブレンナー軍務官の武器庫の件の後だった。


 武器庫の棚卸しで彼女が呼ばれ、数が合わない結果を報告したら、ブレンナー様がその娘を疑った。お前が触ったからだろう、と。テルナー様が仲裁して、その場は収まった。だが、テルナー様は彼女に詫びる必要があると感じていた。


 執務室に彼女を呼んで、お茶を出した。蜂蜜菓子と共に。俺も奥の執務室にいたので、その様子は見ていた。


 彼女は椅子に座って、お茶を両手で持っていた。温まりたい人の持ち方だった。


 テルナー様がブレンナー様の振る舞いを詫びた。あの娘は「数が合わなかったのは事実なので、ブレンナー様がわたしを疑うのも無理はありません」と答えていた。声が小さいが、筋が通っていた。


 その場で、ミーナ殿の身の安全が話題になった。テルナー様は悪意の存在をほのめかした。わざと散らかす者がいる、わざと数字をずらす者がいる、と。ミーナ殿は黙って聞いていた。驚いている顔ではなかった。理解しきれていない顔だった。


 そしてテルナー様が、俺を紹介した。


「ニクラスだ。私の部下で、書記官をしている。今後、あなたが城で仕事をするときは、彼に帯同させる。帰り道も送らせる」

「あ、書庫のときの」


 彼女が俺を見て、何かに気づいた顔をした。


「ニクラスさん、ですね。あのときはありがとうございました」


 名前を呼ばれた。それが俺にとって、彼女が「あの娘」から「ミーナ殿」になった瞬間だった。


「……いえ。大したことでは」


 短い返事をした。それ以上何を言うべきかわからなかった。あのとき書庫で手伝ったのは、特別なことをしたからではない。テルナー様の指示に従っただけだ。礼を言われるようなことではない。でも、ミーナ殿はお辞儀をしてくれた。


 改めて正面からミーナ殿を見た時、こう予感した。

 この華奢な存在が、大きな問題を解決する鍵になる。おそらくこの先に、ぴたりと合う存在なのだと。


---


 その日の帰り、馬車にミーナ殿と同乗した。テルナー様の指示で、俺が送ることになっていた。


 二人とも無口なので、車内は静かだった。窓の外を夕焼けが染めている。石畳の上を車輪が転がる音だけが聞こえる。


 彼女は窓の外を見ていた。何かを考えている顔だった。今日聞いた話を整理しているのだろうと思った。悪意の存在。わざと散らかす人間。今までの認識が崩れかけているはずだ。でも、取り乱してはいない。ただ黙って、外を見ている。


 俺は口を開くべきかどうか迷った。何か言うべきだろうか。大丈夫か、と聞くべきだろうか。でも、大丈夫と返されるのは決まっている。この人は弱音を吐かない。それは短い付き合いでもわかる。


 結局、俺が口にしたのは最も実務的な質問だった。


「ミーナ殿」

「はい」

「……お住まいは、どちらですか」


 ミーナ殿が少し驚いた顔をした。俺が喋ったことに驚いたのかもしれない。


「仕立屋の角を曲がった先の、二階建ての」

「わかりました」


 それで会話が終わった。もっと何か言えばよかったのかもしれない。でも、何を言えばいいのかわからなかった。俺は書記官で、帳面に字を書くことには慣れているが、人に言葉をかけることには慣れていない。


 馬車が仕立屋の角で止まった。ミーナ殿が降りた。礼を言われた。俺は馬車の窓から小さく頷いた。それが精一杯だった。


 馬車が城に戻る道、俺は自分の手を見ていた。ペンを持つ手だ。剣を握る手ではない。この手でできることは限られている。でもテルナー様があの娘のそばにいろと言うなら、俺は隣にいる。それだけだ。


---


 城に戻って、テルナー様の執務室に行った。


 机の上に、二人分の茶器がまだ残っていた。蜂蜜菓子の皿は片付けられていたが、お茶を入れた器はそのまま。たぶん、片付ける気力もないほど考え事をしていたのだろう。


「送り届けました」

「ご苦労」


 椅子に座らずに、立ったまま聞いた。聞かなければならないことがあった。お茶の席で引っかかっていたことだ。


「テルナー様」

「なんだ」

「先ほどの話ですが。ミーナ殿に、武器の件がクーデターに繋がる可能性をお伝えにならなかったのは、彼女の安全のためですか」


 テルナー様が顔を上げた。長い間、俺を見ていた。


「知らない人間は、問い詰めても何も出てこない。何も出てこない人間は、殺す必要がない」


 俺は黙った。


「あの子は、数が合わないと気持ちが悪いから報告しただけだ。悪意の匂いには気づいていない。それが今のところ、あの子を守っている」

「……了解しました」

「ニクラス。あの子のそばにいろ。何かあれば、まず私に報告しろ」

「はい」


 一礼して退室した。廊下を歩きながら、テルナー様の言葉を反芻していた。「知らない人間は殺す必要がない」。書記官が聞く言葉にしては重かった。重すぎるくらいだった。でも、テルナー様がそう判断したなら、そうなのだろう。俺はただ、言われた通りに動く。ミーナ殿のそばにいる。何かあったら報告する。それだけだ。


 それだけのはずだった。


---


 黒板の前で箱と矢印を描いた日のことは、今でも覚えている。


 ミーナ殿が書庫で見つけた数字の乖離——城壁修繕費の異常な膨張が、城のどこから出てどこに流れているのか。三ヶ月かけて追っていたが、全体像が掴めなかった。テルナー様と俺は、執務室の黒板に図を描いて整理することにした。


 その日の午前中、二人で黒板の前にいた。

 箱を十二個、矢印を二十本以上。書記官らしく、線を均等に、文字を丁寧に描いた。テルナー様と何度も話し合いながら位置を決めた。俺は普段より長く喋った。でも、図を描きながら資金の流れを説明するには、どうしても言葉が必要だった。


 描き終わって見直したとき、どこから金が流れているのかが一目ではわからなかった。線が交差しすぎている。徴税と国庫と城壁修繕と支出を繋ぐ矢印が絡み合って、全体の構造が見えない。


 テルナー様が腕を組んで唸っていた。


「どうにもまとまらんな」

「……ええ」 


 進展がないまま、午後になる。

 廊下から足音が聞こえた。軽い足音。帰宅日のミーナ殿が午前の仕事を終えて、書庫から出てくる時間だった。足音が執務室の前で止まった。扉が開いていたせいで、黒板が見えたのだろう。


 テルナー様が扉のほうに声をかけた。


「ミーナ殿」


 ミーナ殿が入ってきた。


「すみません、通りかかっただけです」

「いや、ちょうどいい。少し見てもらえるか」


 ミーナ殿が黒板の前に立った。しばらく図を見ていた。俺はチョークを持ったまま、横に立っていた。


「あの、ひとつだけいいですか」

「なんだ」

「この線が交差しているのは、箱の位置のせいだと思います」


 ミーナ殿が黒板に近づいた。俺からチョークを借りていいかと目で聞いてきた。俺は渡した。俺の指はチョークで白くなっていた。ミーナ殿の指もすぐに白くなった。


「この『国庫』の箱がここにあると、徴税からの線と城壁修繕への線が交差します。交差すると、どの線がどこへ行っているのか追えなくなります。『国庫』をこの位置に動かすと——」


 ミーナ殿が黒板の端に『国庫』の箱を描き直した。元の箱を布で消した。


 見ていた。俺は黒板の横に立って、ただ見ていた。


 配置が変わっていく。最初はばらばらに見えていた線が、整理されていく。一本ずつ、矢印の流れが見えるようになる。全体の構造が浮かび上がってくる。


 俺が描いた図も間違ってはいなかった。線は全部正確に引いてあった。ただ、見やすくはなかった。ミーナ殿の配置では、同じ情報が、全く違う意味を持って見えた。


 途中から、俺は手伝い始めた。ミーナ殿が消した箱を、俺が描き直す。ミーナ殿が位置を指さして、俺がチョークで箱を書く。言葉はほとんど交わさない。でも、手が合う。


 剣の稽古でヴォルフと手が合うのに似ていた。相手が次に何をするか、ほとんど考えずにわかる。血が繋がっている相手とは何度も経験したことがあるが、血が繋がっていない相手で、これを感じたのは初めてだった。


 ミーナ殿が「矢印の太さを金額に比例させたほうがいい」と言った。俺は太さを描き分けた。すると、図の構造が一目でわかるようになった。大きな太い流れが左から右に三本。そこから細い枝が何本も分かれている。川と支流のように見える。


「見やすくなったな」


 テルナー様の声が低かった。何かを見ている声だった。


「ニクラス」

「はい」

「この線を見ろ」


 テルナー様が黒板の右下を指さした。ミーナ殿が整理し直した図の中で、一本だけ他と違う方向に流れている矢印があった。


「他の線は全部左から右に流れているのに、この一本だけ右から左に戻っている。これは何だ」


 俺は黒板に目を近づけた。矢印の元を辿る。城壁修繕費の項目から、外部業者への支払いの箱へ。そしてそこから、本来繋がるはずのない方向に矢印が伸びている。国庫の別の区分へ。数字が一致している。支払った金額の一部が、形を変えて戻ってきている。


 目を細めた。


「……城壁修繕費の一部が、外部の業者を経由して、ここに戻っています。還流です」


 ミーナ殿は黒板を見ていた。俺たちが何を見つけたのか、正確にはわかっていないだろう。でも、一本だけ逆に流れている線があるのは見える顔をしていた。


「わたしは箱を動かしただけです。中身のことはわかりません」

「箱を動かしただけで、三ヶ月探していたものが見つかった」


 テルナー様がミーナ殿を見ていた。前に見せた心配そうな顔ではない。もっと複雑な顔だった。感謝と、驚きと、それから、やはり少しの心配が混じった顔。


「ミーナ殿。あなたの目は恐ろしいな」


 ミーナ殿が何と答えていいかわからない顔で、チョークを俺に返した。指先が白かった。俺の指も、もう一度白くなった。


 昼が近かった。ミーナ殿は帰宅日で、ヴォルフと城下町に戻る予定だった。短い挨拶を交わして、ミーナ殿は執務室を出ていった。廊下の足音が遠ざかっていく。


---


 執務室に、俺とテルナー様だけが残った。


 黒板の前で、俺たちはしばらく黙っていた。テルナー様は腕を組んで、まだ矢印を追っていた。還流の線。三ヶ月探して見つからなかったものが、今、黒板の上に露出している。


 俺はチョークを机に置いた。指先を布で拭ったが、白い粉が完全には取れなかった。


「テルナー様」

「なんだ」

「……恐ろしい能力ですね」


 しみじみと、そう言った。意図したわけではなかった。口から自然にこぼれた。書記官が感想を述べるのは珍しい。特に俺は。


 テルナー様が俺を見た。


「本当にそうだとも」


 テルナー様が腕を解いて、椅子に座った。机の上で指を組んだ。


「悪意を持つ者にとって、あの目は最大の脅威だ。見つけるつもりで見ているわけではない。ただ整えているだけだ。それだけで、隠していたものが浮かび上がる。しかも本人には悪意の形が見えていない。見えたものを報告するだけだ。無自覚の発見は、時に意図的な追及より鋭い」


 俺はテルナー様の言葉を聞いていた。書記官として、ただ聞いていた。意見を挟む立場ではない。


「ニクラス」

「はい」

「あの子を、守れ。書記官としてではなく、人としても」


 俺は少し驚いた。テルナー様が俺に「書記官としてではなく」と言ったのは初めてだった。


「……承知しました」


 執務室を出て、書庫に戻った。指についた白い粉を払いながら、さっき口から出た「恐ろしい能力ですね」という言葉を反芻していた。あの小さな背中に「恐ろしい」という言葉を当てはめるのは不思議な感覚だった。でも、テルナー様も同じ言葉を使った。二人とも同じものを見ていた。


 守れ、と言われた。書記官としてではなく、人として。

 その言葉の重さを、俺はまだ測りかねていた。


---


 脅迫文が届いた夜、俺は扉の前にいた。


 ミーナ殿の控室の隣の部屋。本来、俺の仕事部屋はもっと離れた場所にある。でもその夜、俺はそこにいた。テルナー様に言われたわけではない。自分で決めた。


 扉越しに、物音がかすかに聞こえた。棚を拭く布巾の音。紙をめくる音。水を飲む音。ミーナ殿が動いている。震えている手で、でも普段通りに部屋を整えようとしている。


 声をかけようとした。扉を叩こうとした。


 でも、叩かなかった。


 叩いたら、踏み込みすぎる気がした。この人は、誰かに踏み込まれたい人ではない。一人で整えたい人だ。でも、一人で整えようとして、整えきれなくなっている人でもある。その境目がわからなかった。


 しばらく立っていた。どれくらいだろう。半時間か、一時間か。


 結局、扉を叩いた。軽く。


「ミーナ殿」


 返事が遅れた。


「……はい」

「ヴォルフから聞いた。……大丈夫か」


 嘘だ。ヴォルフからはまだ聞いていない。俺がここにいるのは、ヴォルフの話を聞いたからではない。ただ、ここにいたかったからだ。でもそう言うわけにはいかない。書記官として、兄として、同僚として、適切な理由が必要だった。


「大丈夫です。ありがとうございます」


 扉は開かなかった。開ける必要はなかった。


「何かあれば呼んでくれ。隣の部屋にいる」


「はい」


 足音を立てずに、隣の部屋に入った。椅子に座った。帳面を開いた。でも字は書けなかった。夜が明けるまで、ただ壁の向こうの気配を聞いていた。何か起きたら、二歩で行ける距離に自分がいる。それだけのために、そこにいた。


 夜明け近くに、ヴォルフが廊下を通った。声をかけられた。


「ここにいたのか」

「ああ」

「……そうか」


 それだけだった。ヴォルフは何も聞かなかった。聞かなくてもわかるのだ。双子は、本当に言葉が要らない。


---


 地下から背負って階段を上がった夜のことは、今でも鮮明に覚えている。


 通路で座り込んだミーナ殿を見たとき、最初に思ったのは「軽いだろうな」だった。体がとても小さい。普段から食が細いのは知っていた。でも実際に背負ってみるまで、こんなにも軽いとは思わなかった。


 子どもの重さだ。いや、それより軽い。


 階段は長かった。地下から一階まで、三十段以上ある。ミーナ殿は俺の背中で、息を整えようとしていた。吸って。吐いて。吸って。俺が言った通りに。でも時々、呼吸が浅くなる。そのたびに足を止めそうになった。止めなかった。止めたら、この人が心細くなる。だから歩き続けた。


 階段の途中で、ミーナ殿の指が俺の服を握った。小さな力だった。でも、握っていた。


 ああ、と思った。


 普段、この人は誰かに掴まらない。自分の足で立つ人だ。倒れそうになっても、誰かの手を取る前に、自分で壁に背をつけて座り込む人だ。その人が、俺の服を握っている。


 それだけのことが、胸の奥で何かを動かした。何かはわからない。でも、階段を上がる足に力が入った。


 控室に運んで、寝台に座らせた。顔色は青白かったが、呼吸は整ってきていた。温かいものを、と聞いたので厨房からもらってくる。


「今夜は隣の部屋にいる。何かあれば呼べ」


 ミーナ殿が弱々しく頷いた。俺は隣の部屋に入って、帳面を開いた。書くべきことがあった気がする。でも、何も書けなかった。壁の向こうの気配を聞いていただけの夜だった。


---


 翌朝、ミーナ殿が寝台から起き上がれなくなった。


 様子を見に行った俺が、扉を叩いても返事がないことに気づいたのが発見の始まりだった。扉を開けたら、寝台の中でミーナ殿が目を閉じていた。額が赤く、汗をかいていた。触ると熱かった。とても熱かった。


 昨夜までは、熱はなかった。地下の疲れと、あの部屋を見た衝撃が、一晩かけて彼女の体を壊した。


「ミーナ殿」


 返事があった。弱々しい声で。意識はある。でも起き上がれない。


 俺は一瞬だけ、どうするべきかを考えた。医者を呼ぶ必要がある。城の医師を呼ぶには権限のある人間の許可が要る。テルナー様は執務室にいるはずだ。だが、医者だけでは足りない。この人は若い娘だ。医師の診察には女性の介助が必要になる。着替えもさせなければならない。汗で濡れている。


 誰か。若い娘を安心して任せられる女性。城主の娘に頼むのは本来筋違いだ。でも今、他に思い浮かぶ人間がいなかった。マルタさんはこの時間、洗濯場にいる。フリーダ殿はリーゼ様のところにいるはずだ。一番早いのはリーゼ様の部屋に行くことだ。


 走った。


 書記官が廊下を走ったのは、たぶんこれが初めてだった。衛兵が俺を見て驚いていた。気にしなかった。東棟の三階まで、一気に走った。


 リーゼ様の部屋の扉を叩いた。強く。


「リーゼ様! 書記官のニクラスです。ミーナ殿が倒れています」


 扉がすぐに開いた。リーゼ様が目を丸くしていた。フリーダ殿が後ろにいた。


「倒れてる? どこに?」

「控室です。高熱が出ています。医者を呼ぶ前に、女性の手が要ります」

「フリーダ、行こう!」


 リーゼ様が即座に走り出した。俺が思っていたより早い判断だった。フリーダ殿が着替えの布を掴んで続いた。


「ニクラスさんは医者を!」

「はい!」


 俺は別の方向に走った。テルナー様の執務室へ。城の医師を呼ぶ許可を取るために。


 走りながら、彼女の青白い顔を思い出していた。昨夜、背中で握られた小さな力を思い出していた。間に合ってくれ、と思った。何に間に合うのかはわからない。でも、間に合ってくれ、と思っていた。


 テルナー様の執務室に飛び込んで、事情を説明した。テルナー様はすぐに立ち上がって、医師を手配した。


「ニクラス。お前は控室に戻れ」

「はい」


 戻る廊下を、もう一度走った。控室に着いたとき、リーゼ殿とフリーダ殿がミーナ殿の着替えを済ませていた。額に濡れた布が載っていた。


「熱が高い。でも意識はある」

「医師はすぐ来る」

「よかった。ニクラスさん、顔真っ青よ」


 フリーダ殿に言われた。自分の顔色には気づいていなかった。鏡を見る余裕もなかった。


 寝台の横に立って、ミーナ殿の顔を見ていた。青白い。汗をかいている。でも呼吸は整ってきていた。ゆっくりと。吸って、吐いて。


 俺は何もしていない。昨日は背負って上がっただけだ。今日は方々に呼びに行っただけだ。医者を呼ぶ許可を取りに走っただけだ。

 ミーナ殿がいつも言うのと同じだ。「角を揃えただけです」。俺もたぶん、似たようなことしかできていない。


 でも、それでいいのかもしれない。


 ミーナ殿が目を開けた。薄い青の目が、俺を見た。


「……ニクラスさん」

「ここにいる」

「棚を、——」

「あとで俺が確認する。お前は寝ろ」

「水差しの、位置——」

「後でもとに戻すとも」


 ミーナ殿が少しだけ安心した顔をして、目を閉じた。すぐに寝息になった。


 水差しの位置。それが最初に頭に浮かぶ人だ。倒れて運ばれて熱を出して、目を開けて、最初に気にするのが水差しの位置。


 俺は水差しの位置を見た。壁際、机の端から五センチ。

 彼女が目を覚ましたときに、同じ場所にあるように覚えておこう。


---


 朝。


 書庫に帳面を持って入った。いつもの時間だ。棚は整っている。昨日のままだ。俺が確認したからではない。ミーナ殿が毎日確認しているからだ。


 机に座って、帳面を開いた。ペンを取った。今日の仕事は、昨日の徴税記録の整理と、先週の会議記録の清書。書記官の仕事はいつも同じようなものだ。でも、同じことを毎日続けることに意味がある。最近はそう思うようになった。ミーナ殿が棚を毎日確認するのと、似たようなことだ。


 しばらくして、書庫の扉が開いた。


「おはようございます、ニクラスさん」

「……おはよう」


 ミーナ殿が入ってきた。薄い青のリボンで髪を括っている。リーゼ殿とお揃いのやつだ。リーゼ殿は編み込みで、ミーナ殿は一本結び。似合っていると思う。直接は言わない。言う必要もない。


 ミーナ殿が棚の前に立って、確認を始めた。一段ずつ。指で帳簿の角を触っている。いつもの手順だ。俺は帳面に戻った。ペンを動かす。紙の上を走る音が聞こえる。その音と、ミーナ殿が棚を確認する音が、書庫の朝を作っている。


 ミーナ殿が確認を終えた。


「ニクラスさん。今日もずれなしです」

「……そうか」


 いつもの返事。いつもの朝。


 俺はペンを動かし続けた。書記官の仕事は静かだ。大きな事件はもう起きない。たぶんしばらくは。でも、それでいい。大きな事件が起きないことが、書記官の仕事がうまくいっている証拠だ。


 隣の机の気配を感じている。ミーナ殿が配架を始めた音。紙をめくる音。それだけで、今日も一日が整っていく。


 俺には、それで十分だった。


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