番外編:リーゼ視点 気になるあの子
マルタさんが城で一番の噂話の源泉だ。みんなそう言う。お父様はちょっと困った顔をしているけど、わたしはマルタさんの話が好きだ。なにしろ、城のことをなんでも知っている。掃除係は城中を動き回っているから、誰がどこで何をしているかが全部耳に入るらしい。
その日、わたしは廊下でマルタさんを捕まえた。雑巾を絞り終わったところを狙った。マルタさんは雑巾を絞っている間は忙しそうだが、絞り終わると少しだけ手が空く。そのタイミングを逃さない。
「マルタさん、聞きたいことがあるの」
「あら。リーゼ様、またですか」
マルタさんがため息をついた。でも嬉しそうな顔だった。わたしが話を聞きたがると、マルタさんは少しだけ嬉しそうにする。聞かせがいがあるのだろう。
「テルナー様のところに来てる新しい娘さんのこと」
「ああ、あの子ですね。魔法みたいに片付けるんですよ。三日で書庫の整理を終わらせたんですって。テルナー様がえらく驚いてたって」
テルナー財務官の書庫。あそこの書類の棚を思い浮かべる。難しい内容がたくさん書いてあって、触っちゃいけないような雰囲気がするところ。そこを片付けられること自体、尊敬してしまう事柄。
でも今日は別のことが気になった。
「その子、どんな顔してるの」
「亜麻色の髪で、そばかすがあって、華奢な感じの子ですよ。あまり喋らないって」
亜麻色の髪、そばかす、喋らない。頭の中で、その顔を組み立ててみる。まだ会ったことのない人の顔を想像するのは、わたしの癖だ。実際に会ったときに、想像と違うと面白い。想像通りだと、もっと面白い。
「食堂でいつもわたしの隣に座ってるんですよ。最初は何も言わない子だと思ってたんですけど、最近は少しずつ話すようになって。今日の朝、『スプーンとフォークがいつもよりピカピカですね』って言うから、びっくりしましたよ。そんな細かいこと気付く子がいるんだって」
スプーンとフォークが。そんなことに気づく人がいるんだ。
「マルタさん、ありがとう」
「もういいんですか。まだ話せることがありますけど」
「また今度」
マルタさんはちょっと物足りなそうな顔をした。マルタさんは話したい人だから、聞き手が早く去ると少し寂しそうにする。でも今日はもう十分だった。わたしは、あの子に会いに行きたくなっていた。
わたしは書庫のほうに足を向けた。噂の娘がまだそこにいるなら、顔を見たい。見て、想像と合わせてみたい。
ちょうど書庫から出てきた人影があった。
亜麻色の髪。後ろで一本にまとめている。背はわたしと同じくらい。肩の線が細い。服は清潔で、素朴なワンピース。
薄い青の目だった。廊下を静かに歩いていて、眼差しは迷いがない。テルナー財務官の執務室と書庫は隣り合ってるから、別のところに向かうのかも。
ああ、とわたしは思った。
この子は、人よりも物を見る人だ。
話したこともない人のことをパッと見て決めつけないように気を付けてることだけど、たいてい当たる。わたしは人を見るのが好きだから、少し見ればだいたいわかる。
わたしは話しかけずに、少しだけ見送った。背中の線が、まっすぐだった。まっすぐすぎるくらいだった。何かを背負って歩いている線ではなく、何も背負っていない線でもなく、背負っていたものを今日は一度下ろしてみた、という感じの線。
うまく言葉にできない。
でも、見て思ったことを全部言葉にしなくてもいい、とフリーダに言われたことがある。「リーゼ様、何でもかんでも口に出さなくていいんですよ」って。
話してみたいな。
その頃から、私はミーナと友達になりたかった。
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翌日、わたしはフリーダを連れて書庫に向かった。
「リーゼ様、本当に行くんですか」
「行くって決めたの」
「テルナー様からの許可は」
「取ってある。『テルナー財務官のところの、ミーナに会いたがっている』ってお父様に伝えたら、すぐ話が通った。きっとお父様もあの子に興味を持つわ」
「リーゼ様が興味を持った人に、旦那様は興味を持つんですよ」
フリーダがため息をついた。わたしのフリーダは、わたしをよく見ている。わたしがミーナのことを気にしているのを、もう見抜いている。たぶん昨日の夕方から気づいていた。わたしが夕食の席で上の空だったからだ。
「ねえ、フリーダ」
「はい」
「ミーナって、どんな子だと思う?」
「わたしはまだ会っていません」
「マルタさんの話からでも」
「……マルタさんの話だけでは、想像できませんよ」
フリーダは真面目だ。わたしの冗談にも、真面目に答える。だからフリーダと話すのは好きだ。わたしは冗談を聞いてほしいのではなく、こうして会話してほしいだけだから。
書庫の前に着いた。扉をノックして開ける。、
ミーナがいた。本棚の前で、帳簿を数冊抱えている。昨日よりも、顔色がいい気がした。昨日は廊下ですれ違っただけだったけど、疲れた顔をしていた。今日は、少し落ち着いて見える。城に馴染みつつあるのかもしれない。
「あなたがミーナ? 会いたかったの!」
わたしは手を伸ばして握手をした。ミーナが少し驚いた顔をした。でも手は握り返してくれた。痩せた手だった。ほんのりと温かかった。
「リーゼです。こっちはフリーダ。わたしの衣裳係。服のことならなんでもこの子に聞いて」
「ミーナです。財務官補佐をしています」
「知ってる! 書庫を魔法みたいに片付けた人でしょう。マルタさんが言ってた」
ミーナの目が、一瞬だけ揺らいだ。「魔法ではない」と思った顔だった。口には出さなかった。でも目に出ていた。わたしはその目の動きを見た。
口以外でも話してくれる子だ。この子は。
「リーゼ様、廊下で騒いではいけませんよ」
フリーダが窘めた。わたしは聞いていないふりをした。本当は聞いていたけど。でも今は、この子ともっと話したかった。
「ねえ、わたしの部屋も見てくれない? 片付いてはいるんだけど、なんかしっくりこなくて」
「あの、わたしあまりすごいことができるわけでは」
「テルナーには話してあるの。行こう!」
ミーナの腕を引いた。ミーナが抵抗しなかった。わたしが腕を引くと、抵抗する人と抵抗しない人がいる。抵抗する人は、心の中で「急ぎの用事があるのに」と思っている。抵抗しない人は、「この人に任せればいい」と思っている。ミーナは後者だった。後者は、あんまりいない。みんな、わたしに腕を引かれると「リーゼ様!」と慌てる。慌てないミーナは、珍しい。
後ろからフリーダが追いかけてきた。「すみません、いつもこうなんです」とミーナに小声で謝っていた。いつものことだ。
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わたしの部屋に入ると、ミーナが立ち止まって部屋全体を見た。
立ち止まり方が違う。普通の人は、部屋に入ったら「わあ、広い」とか「きれい」とか言う。ミーナは何も言わなかった。ただ、目が部屋の中を順番に見ていた。化粧台、書き物机、本棚、寝台、窓、その順番で。
わたしの目は、ミーナの目を見ていた。
ミーナが何を見ているのかは、わからない。でも、見ている順番には意味があるらしい。適当に見ているのではなく、何かを確かめるように見ている。
気持ちいい、とわたしは思った。
部屋をこうやって見てくれる人は、今までいなかった。メイドのハンナは、部屋を掃除するときに見る。客は、装飾を見る。お父様は、娘がちゃんと暮らしているかを見る。ミーナは、そのどれでもない見方をしていた。部屋そのものを見ていた。
「きれいなお部屋ですね」
「でしょう? メイドのハンナが毎朝やってくれるの。でもね、なんか違うの。きれいなんだけど、使いにくいというか、探し物が多いというか」
ミーナがまた部屋を見た。今度は化粧台に目を止めた。それから書き物机。それから本棚。それぞれ数秒ずつ。
「メイドのハンナさんは、いつもどう片付けていますか」
「ハンナはね、大きいものを奥に、小さいものを手前にって。あとは色が揃うようにって言ってたかな」
ミーナが頷いた。わかった、という顔だった。
それから、説明を始めた。化粧台の小瓶を使う頻度で分けたほうがいいこと。書き物机の道具を使う順番に並べたほうがいいこと。本棚の本を大きさ順にしたほうが取り出しやすいこと。
説明は短かった。でも、全部納得がいった。ああ、そうか、と思うことばかりだった。メイドのハンナは間違っていたわけじゃない。「見た目の正しさ」で並べていた。でも「使うときの正しさ」で並べると、こうなる。二つの正しさがある。わたしは両方知らなかった。ミーナが教えてくれた。
ミーナが実際に手を動かし始めた。動きに無駄がない。一度持ち上げた瓶を途中で置き直すことがない。最初に頭の中で完成形を作って、それに向かって動いている。
わたしはそれを横で見ていた。フリーダも見ていた。二人とも、少し黙っていた。ミーナの動きが、見ていて気持ちいいからだ。
化粧台が整った。書き物机が整った。本棚が整った。一時間もかからなかった。
「ミーナ、すごい! ありがとう!」
「どういたしまして」
意識していたものが、自然に出たという感じだった。ありがとう、と言われた後の返事。普通の人は「いえいえ」とか「そんな」とか言う。ミーナは「どういたしまして」。もしかしたら何かこだわり?とかがあるのかもしれないと思ったけど、深くは聞かなかった。
窓際の椅子に三人で座って、お茶を淹れた。父上の書斎から持ってきた、少しいい茶葉だ。本当はお客さま用。ミーナはお客さまではないけど、お客さまにしてみたかった。
「ミーナ、城に住んでるんだよね。寂しくない?」
「棚が整っていれば大丈夫です」
「変な子」
「よく言われます」
フリーダが笑った。わたしも笑った。ミーナは笑わなかったけど、口元が少しだけ緩んだのをわたしは見ていた。
笑わない人を笑わせたい、と思ってしまう。わたしの悪い癖だ。この子は笑わない人じゃなくて、笑うのが遅い人かもしれない。いつか、普通に笑う顔を見たい。
それまで、何回この部屋に来てくれるだろう。何回お茶を淹れられるだろう。
わたしは、この子ともっと話したい。それだけは、はっきり思った。
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ミーナがわたしの部屋に来るようになってから、一ヶ月ほど経った。
毎日ではないけど、数日に一度、顔を出してくれるようになった。だいたいが、わたしがミーナの控室に押しかけるか、フリーダを通じて「お茶にどう?」と誘うか。でも時々、ミーナのほうから「お邪魔します」と言って来てくれることもある。そのときは、わたしは一日中ご機嫌だ。
ミーナは観察の人だ。わたしの部屋に来ても、最初に棚を見る。それから机の上を見る。「今日は変わりませんね」とか「本の位置がズレてますね」とか言う。いつもそう。
わたしはその目を盗み見るのが好きだ。
何を見ているかはわからない。でも、見ている目が真剣で、その真剣さがいい。わたしは人を見るのが好きだけど、物を見るのはあまり得意じゃない。だからミーナの見方を見ていると、世界が違って見える気がしてくる。
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ある日、わたしはミーナの控室に行った。
ミーナが机に向かっていた。手に分厚い本を持っている。近づいて見たら、それは「城の役職と職務一覧」という題だった。父上の書斎の奥にある本だ。ハンナに頼んで借りてきたのだろう。
「ミーナ、なんか難しい顔してるね」
ミーナが顔を上げた。少し疲れた顔をしていた。
「手引書を読んでいました。城の仕組みの」
「あー、あれ退屈じゃない? わたし、小さい頃に読まされて三ページで寝た」
「三ページ……」
ミーナが呟いた。わたしの三ページを馬鹿にしたのではなく、「本で寝られるんだ」と感心した感じの呟きだった。
「だって、役職名ばっかりで。でもね、実際の人を知ってると面白いのよ」
わたしは椅子を引いて座った。この控室の椅子は硬い。わたしの部屋の椅子はふかふかだから、普段はそっちに慣れすぎている。でも硬い椅子で座るのも、たまにはいい。
わたしはミーナに、城の人たちの話を始めた。
「ケスラー内務官ってすごく几帳面な人で、廊下に花を飾る位置まで決めてるの。花瓶の間隔、三歩おき。掃除の手順書も自分で書いてて、マルタさんは尊敬してるって言ってた」
ミーナの目が、少し変わった。興味を持った目だ。
「外務官のドレスラー様はね、声がすごく大きいの。廊下の端にいても聞こえる。法務官のヘルマン様は逆に声が小さくて、会議で何言ってるか聞こえないって父上がぼやいてた」
わたしは、城の人たちのことを話すのが好きだ。特にミーナに話すのは、一等好きだった。
わたしが「ケスラー様はね」と切り出すと、フリーダは「リーゼ様、そのお話は前にも」と優しく止める。だから、ミーナに話すのが楽しい。一番最初から話せる相手がいるのは嬉しい。
わたしはケスラー様の話を続けた。
「でもね、ケスラー様、最近ちょっと元気がないの。お父様が心配してた」
ミーナの目が、また変わった。
「元気がない」
ミーナが繰り返した。わたしの言葉をそのまま繰り返す。ミーナは時々、人の言葉を繰り返す。そのときのミーナは、何かを頭の中で並べている顔をしている。箱を開けて、中身を確認している顔。
「うん。前はもっとにこにこしてたのに。ここ半年くらいかな、顔が険しくなった」
半年、と言ってからミーナの目がまた変わった。
わたしは気づいた。
ミーナは、わたしの言ったことを、自分の頭の中の何かと照らし合わせている。何を照らし合わせているのかは、わからない。でも、ミーナの中には、誰かの顔を並べる棚があるのだ。ケスラー様、ドレスラー様、ヘルマン様。その棚の中に、今、わたしの話した言葉が並べ直されていく。
わたしの観察と、ミーナの観察は、種類が違う。わたしは人の顔を見て、その人の気分を測る。ミーナは人の顔を見て、その人に関係する全部を棚に並べていく。わたしは瞬間を見る人で、ミーナは連続を見る人だ。
だから、半年前から元気がない、というわたしの観察を、ミーナは別の意味で受け取る。わたしはただの心配だ。ミーナにとっては、何かの証拠だ。
「リーゼ様、ケスラー内務官にはいつか会えますか」
「会えるよ。城の中にいるんだから。紹介しようか?」
「いえ、そのうち自然に。急ぐ必要はありません」
急がない、と言った。でもミーナの急がない、は、普通の人の急がないとは違う。急がないけど、確実に会う必要がある、という意味の急がない。
わたしは、何も言わなかった。ミーナが何を追いかけているのかは、わからない。でも、追いかけているものがあることは、わかった。
言葉にはしなかった。なぜか、言葉にしてはいけない気がした。わたしはいつも思ったことを口に出す人だけど、今日は出さなかった。自分でも珍しいと思った。
部屋に戻ると、フリーダが衣装部屋を片付けていた。
「リーゼ様、今日はなんだかお静かですね」
「ミーナが頑張ってたから」
「ミーナさんが?」
「うん。頭の中で」
フリーダが少し不思議そうな顔をしたけど、それ以上は聞かなかった。フリーダも、言葉にしない人だ。わたしのフリーダ。
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大掃除の朝、わたしは東棟の三階に降りていた。
手順書ではわたしの部屋は二日目の予定で、一日目はリーゼのいない場所から掃除することになっていた。でもわたしは、どうしても初日の様子を見たかった。ミーナが城中の掃除係を指揮するところを、一度だけでいいから見ておきたかった。
だから、差し入れの焼き菓子を持って三階に行った。
「見学だけだよ。あとお菓子」
わたしはそう言った。本当はほとんど見学が目的で、お菓子は口実だった。でも籠にお菓子を山盛りにしたら、フリーダが「リーゼ様、多すぎます」と言った。多いほうがいいのだ。掃除は腹が減る。わたしは掃除をしたことがないけど、マルタさんから何度も聞いている。「掃除係が動き出すと、三時間で腹がぺこぺこなんですよ」。だから多いほうがいい。
ミーナが指揮を始めた。
「まず窓を全部開けてください。風を通します。それから天井の隅を箒で払います。箒は上から下に。壁をなぞるように」
ミーナの声はいつもと変わらなかった。わたしの部屋に来るときも、こんな声で話す。大きい声ではない。でもよく通る。掃除係のみんなが動き始めた。ミーナ自身も箒を持った。指揮だけではなく、自分も手を動かす。わたしはそれを見ていた。
気持ちよかった。
ミーナが動くと、部屋が整っていく。天井の隅から埃が落ちる。窓枠が拭かれる。棚板が磨かれる。一つひとつは地味な動きだけど、全部が合わさって、部屋が呼吸を取り戻していく感じがした。
わたしは見ているだけだった。でも、見ているだけで疲れる類の見方だった。ミーナが動きを止めない。止めないから、見るこっちも目が離せない。
三部屋を終えたところで、焼き菓子を配った。掃除係のみんなが座り込んで食べている。ミーナも食べた。
「これ、どこのですか」
「城下町のパン屋さんに頼んだの。ミーナが前にお世話になったところ」
「あのパン屋さん」
ミーナの顔が少しだけほぐれた。本当に少しだけ。普通の人なら「ああ、あそこね」って笑う場面だ。ミーナは笑わない。でも目が柔らかくなる。その柔らかさだけで、笑っているのと同じだとわたしは思う。
食べ終わって、ミーナがまた指揮を始めた。
わたしは焼き菓子の残りを持って、別の階に降りた。差し入れの役目がある。各階の掃除班に配って回る。城主の娘であるわたしが焼き菓子を配る姿を見て、兵士たちが少し照れていた。わたしは照れさせるのが楽しかった。普段、兵士たちは城主の娘に気軽に話しかけない。焼き菓子を配ると、少しだけ距離が縮まる。
「リーゼ様、ありがとうございます」
「お疲れさま。食べて元気出して」
わたしは軽く手を振って、次の階に向かった。
掃除係のみんなの手が早い気がした。普段よりも、明らかに早い。
後で考えたら、それはミーナの手順書のおかげだった。手順書が配られていて、みんなが自分のやることを知っていた。迷う時間がない。次に何をすればいいか、紙に書いてある。だから手が止まらない。
掃除の仕事って、こんなに組織的にできるものなんだ、とわたしは初めて知った。
二日目に、ミーナはわたしの部屋に来てくれた。手順書通りに。
わたしの部屋はハンナが事前に準備してくれていて、化粧台の小瓶は全部下ろしてあった。ミーナが一ヶ月前に並べ直した配置を、ハンナは配置図を引き出しに入れて守っていた。
「ハンナさん、配置を覚えていてくれたんですね」
「ミーナ様が作ってくださった配置図を、化粧台の引き出しに入れてあります」
ミーナが頷いた。嬉しそうに、とは言えない。でも目が柔らかくなっていた。
ミーナは後から言っていた。「仕組みは種のようなものだ。蒔いておけば、誰かが水をやってくれる」。ミーナが蒔いた種が、わたしの部屋のハンナの中で育っていた。それをミーナが見て、また目を柔らかくした。種を蒔く人の顔だった。
三日間、わたしは焼き菓子を配り続けた。配りながら、ミーナの動きを追いかけていた。追いかけるうちに、わたしはミーナのやり方が少しずつわかってきた。
ミーナは部屋を見るんじゃない。人を見ている。この部屋を使う人は誰か。何を探すか。どういう順番で手を動かすか。それを想像して、その人の動きに合わせて物を配置する。だから「大きい順」でも「色順」でもなく、「使う頻度順」になる。
ああ、そうかと思った。ミーナは物を見ているようで、実は人を見ているのだ。
わたしは人の顔を見る人で、ミーナは人の動きを見る人。似ているけど、違う。
わたしはそれを、フリーダにもミーナにも言わなかった。なぜ言わなかったかは、今もわからない。たぶん、言葉にすると少し違う気がしたからだ。ミーナの見方を、わたしの言葉で縛りたくなかった。
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ある日の昼前、部屋で刺繍をしていた。
窓から冬の日差しが入っていて、フリーダが隣でわたしの春物の裾直しをしていた。穏やかな時間だった。
そのとき、扉が叩かれた。
強く。普段、こんな叩き方をする人はいない。ハンナは控えめに叩く。使用人もわたしの部屋をこんなに強く叩かない。
「リーゼ様! 書記官のニクラスです。ミーナ殿が倒れています」
ニクラスさんの声だった。息が荒い。走ってきたらしい。ニクラスさんが走る。あの無口な書記官が走っているのを、わたしは頭の中で想像した。想像できなかった。ニクラスさんは走らない人だ。廊下を早足で歩く人だ。その人が走った。
扉を開けた。
ニクラスさんが立っていた。顔色が悪かった。息が上がっている。額に汗がにじんでいた。その顔を見た瞬間、わたしの中で何かが切り替わった。
「倒れてる? どこに?」
「控室です。高熱が出ています。医者を呼ぶ前に、女性の手が要ります」
女性の手。着替えだ。ミーナは汗で服が濡れているのだろう。高熱を出した若い娘の着替えに、男の手はだめだ。当然だ。ニクラスさんはそれをわかって、わたしのところに来た。
「フリーダ、行こう!」
わたしは振り向いた。フリーダはもう立ち上がっていた。手に着替えの衣服や冷やすのに使える布を掴んでいて、手早く針と糸を机の上に置いていた。フリーダは察しがいい。声を聞いただけで何が要るか判断して動いていた。
「ニクラスさんは医者を!」
「はい!」
ニクラスさんが踵を返して走っていった。反対方向に。テルナー様の執務室のほうだ。城の医師を呼ぶには許可が要る。ニクラスさんがそれをやってくれる。わたしはミーナのところに行けばいい。
フリーダと一緒に廊下を走った。東棟の三階から、控室のある中央棟まで。走りながら、わたしは怖かった。でも足は止めなかった。
控室に着いた。
扉の横にヴォルフさんが立っていた。腕を組んで、廊下を見張っていた。わたしとフリーダを見て、道を空けてくれた。何も言わずに。
部屋に入った。
ミーナが寝台の上にいた。目を閉じていた。顔が白かった。額に汗がついていて、髪が張りついていた。呼吸は浅かった。でも、していた。生きている、とわたしは思った。
服が汗で濡れていた。ニクラスさんの言う通りだった。
「フリーダ、着替えさせよう」
フリーダと二人で、ミーナの服を替えた。濡れた服を脱がせて、乾いたものに着替えさせた。ミーナはぐったりとしていて意識がなかった。熱が高いからだ。
着替えの途中で、ミーナの体の細さにフリーダが息を呑んだ。小さな声で。衣裳係は人の体を見慣れている。採寸もする。でも、こんなに細い体を見るのは初めてだったのかもしれない。
わたしは何も言わなかった。フリーダも何も言わなかった。ただ、手を動かした。
着替えが終わった。額に濡れ布巾を載せた。マルタさんが替えのシーツを持ってきてくれた。ブルーノさんがおかゆを作ると言って厨房に戻った。
しばらくして、城医が来た。
「熱は高いですが、命に別状はない。きっと疲れが体に出たのでしょう。数日は安静にしてください」
城医が言った。フリーダの手が少し緩んだ。フリーダはずっと自分のスカートの布を握っていた。指の関節が白くなるほど。衣裳係は服に敬意を持つ人だ。普段ならこんなふうにスカートの布を握ったりしない。フリーダも怖がっていた。
わたしの肩もそこでようやく下がった。気づかなかった。わたしも肩を強ばらせていたらしい。
城医を見送ってから控室に戻って、わたしはミーナの手を握った。
握ってから、握っていいのかな、と思った。ミーナは人に触られるのが好きな人ではない気がする。でももう握っていた。握ってしまってから、離すのもおかしい。そのまま握っていた。
ミーナの手は熱かった。熱が高い。でも生きている手だった。けど痩せている。握ると骨が当たる。こんな細い手で、毎日帳簿を抱えて、棚を拭いて、数字を整えていたのだ。
それに、手が荒れていた。
指先がひび割れていた。手の甲の皮膚が、冬の乾いた空気に負けて、少しかさついていた。ミーナは気にしていないのだろう。気にする余裕がないのだ。毎日、あれだけ物を動かして、紙を触って、水仕事もして。手のことまで気が回らない。
わたしは、握った手をそっと離した。
そして心の中で決めた。
元気になったら、ハンドクリームを贈ろう。城下町のいい薬屋に頼んで、甘すぎない香りのを。ミーナは甘い匂いより草の匂いのほうが好きそうだ。小さい瓶がいい。机の隅に置けるくらいの。ミーナは大きな瓶を机に置かない人だ。邪魔になるから。
ミーナが目を覚ましたときに、唐突に「手が荒れてるね」と言ったら、ミーナはきっと「はい」と短く答えるだけだ。気にしていないと言う。気にしていないのに、何かを贈られるのを、ミーナは遠慮する人だ。
だから、言わない。
黙って贈り物を用意する。手を握った今日のことを、わたしの中にだけ残す。贈り物の理由を、ミーナには知らせない。「お正月のお祝い」とでも言えばいい。ミーナは理由があれば受け取る。贈り物の本当の理由が、今日わたしが握った手のことだとは、ミーナに気づかせない。
そのほうがいい。
今日のこの日に、勝手に決めた約束は、言葉にしない。
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お父様が年末の挨拶回りに出かけた。
城主が毎年この時期にする仕事だ。近隣の領主への訪問と、王都への書簡の届け出。戻るのは年が明けてから。わたしは毎年この時期、少しだけ寂しくなる。お父様がいない夜は、城が広く感じる。東棟の三階のわたしの部屋で、窓の外を見ていると、星がいつもより近く見える。
でも今年は、寂しさとは違うものがあった。
テルナー財務官の顔が、ここ数日、硬い。ブレンナー軍務官も執務室に出入りしている。ニクラスさんが夜遅くまで書庫にいる。ミーナは書庫に閉じこもっている時間が長くなった。
何かが起きている。わたしはそれを知っていた。
正確には、知らなかった。でも感じていた。人の顔の変化で。テルナー様の眉の寄り方、ブレンナー様の歩幅、ニクラスさんの字の乱れ、ミーナの肩の線。それぞれが、普段より少しだけずれている。
わたしはお父様が不在の間、仕事を代わりに少しだけ見る立場にある。正式な引き継ぎではない。ただ、城主の娘として、何かあったら知っておくように、と普段から言われている。だから城の動きに気を配る。
でも、何かが起きているのがわかっても、その何かがわたしには見えなかった。テルナー様は「大丈夫ですよ、リーゼ様」と言う。ブレンナー様は「お気になさらず」と言う。二人とも、わたしに知らせない方針らしい。それが何なのかは、わかる。わたしは城主の娘だけど、まだ若い。知らないほうがいい情報がある。
わかるけど、悔しい。
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その夜、わたしは眠れなかった。
星を見ていた。窓の外の星が、いつもより濃く見えた。空気が冷たい夜は星がよく見える。冬の夜は、空が近い気がする。
フリーダが隣の部屋で眠っていた。わたしの部屋の隣が、衣裳係の部屋になっている。何かあるとフリーダはすぐに来てくれる。でも今夜は、フリーダも呼ばなかった。呼んでも、わたしの寂しさは埋まらない気がした。寂しさじゃなくて、別の何かが胸の中にあった。
遠くで、音がした。
最初は風の音かと思った。違った。金属音だった。短い音。それから、足音。何人かの足音が走っていた。
わたしは立ち上がった。窓に近づいて、外を見た。暗くて見えない。でも、城のどこかで何かが動いていた。
扉が叩かれた。フリーダだった。
「リーゼ様。今、テルナー様からの伝令が来ました。東棟から出ないように、と」
「何があるの」
「わかりません。でも、『外からの襲撃の可能性がある』と」
襲撃。
わたしは椅子に座った。足の力が抜けた、というか、自分の足が自分のものでない感じがした。襲撃。城への襲撃。父上がいない夜に。
「リーゼ様」
「大丈夫」
わたしは言った。自分に言い聞かせるように。大丈夫。わたしは大丈夫。
でも大丈夫じゃない人がいる。ミーナは書庫にいるはずだ。ニクラスさんから聞いていた。ミーナはクーデターが起きるかもしれないと予想して、その準備に関わっていた。だから今夜、書庫から動けない。ニクラスさんも走り回っているはずだ。ヴォルフさんはどこかで戦っているかもしれない。
わたしはここにいる。東棟で。フリーダと。安全な場所で。
「フリーダ」
「はい」
「怖いね……」
わたしは言った。フリーダの前で、初めて「怖い」と言ったかもしれない。子供の頃から、わたしは人前で弱音を吐かない人になるよう育てられていた。城主の娘として。
でも今夜、フリーダの前では言った。
フリーダが隣の椅子に座った。わたしの手に、フリーダの手が重なった。
「わたしも怖いです」
フリーダが言った。フリーダは普段、弱音を言わない人だ。衣裳係として、落ち着いていることが仕事の一部だ。でも今夜、フリーダも言った。
二人で、手を重ねて、椅子に座っていた。何もできない二人。ただここにいることだけ。東棟から出ないこと。誰かが戻ってくるのを待つこと。
それが一番つらいことだとわたしは思った。
何かできればいいのに。ミーナのように。書庫で一人でいるミーナは、たぶん帳簿の角を揃えているはずだ。震える手で。それがミーナの「今できること」だから。わたしは何もできない。東棟から動けない。命令だから。
でも、動けないこと自体が命令なら、その命令を守ることが、わたしの「今できること」なのだ。ここにいること。フリーダとここにいること。戻ってくる人たちのために、ここに「戻る場所」を保っておくこと。
そう思ってから、少しだけ胸の重さが下がった。
フリーダの手を握った。フリーダも握り返してくれた。
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どのくらい時間が経ったかわからない。遠くの音は一時間ほど続いて、それから急に静かになった。
扉が叩かれた。衛兵だった。
「リーゼ様。城門は持ちこたえました。ご無事でしょうか」
「無事よ。みんなは」
「テルナー様、ブレンナー様、ニクラス殿、ヴォルフ殿、全員ご無事です。兵士が少し怪我をされましたが、軽傷とのことです」
「ミーナは」
「書庫に無事おられます。ニクラス殿が先ほど迎えに行かれました」
わたしは息を吐いた。長い息だった。吸ったのはいつだったか、覚えていないくらい長い息だった。
フリーダが、わたしの肩に手を置いた。いつものフリーダの手だった。わたしもフリーダの手に手を重ねた。
「行きましょう」
「どこに、リーゼ様」
「みんなのところに。わたしたちも、もう東棟から出ていいでしょう」
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廊下に出ると、城の空気が違っていた。嵐の後の空気だ。
遠くで人が動く気配がする。でも、戦闘の気配ではない。後始末の気配だ。
廊下を歩きながら、わたしは考えていた。わたしが東棟で「怖い」と言った夜を、わたしはたぶん忘れない。そして、フリーダが「わたしも怖いです」と言ってくれた夜も、忘れない。
でも、この夜のことは、もう他の誰にも言わないだろう。ミーナにも、父上にも。言ったら、「大丈夫?」と聞かれる。「大丈夫よ」と答えるしかない。そういう場面になるのが嫌だった。
大丈夫にしたくない夜、というのがある。怖かったことを、怖かったままにしておきたい夜が。
だから、もう言わない。
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お父様が帰ってこないまま、年が明けた。
街道が封鎖されたという知らせが入っていた。道中で足止めされている。いつ戻れるか、わからない。
年始の領民への挨拶がある。城の広間で城主が直接挨拶する。わたしの領の伝統で、百年以上続いている行事。城主が出ないわけにいかない。
テルナーを始めとした官長に呼ばれた。
「リーゼ様。今年の挨拶は、リーゼ様にお願いしたい」
「わたしが」
「城主様の代理として。城主様の帰還が間に合わない場合、ご令嬢が立つのが最も自然です」
わたしは頷いた。頷いたのに、胸の中では別のものが動いていた。
わたしは人前で話すのが得意じゃない。お父様はいつも上手にやる。朗々とした声で、広間の後ろまで届く声で、領民の目を一人ひとり見ながら話す。わたしはそれを見てきた。何年も。でもわたしにはお父様の声がない。度胸もない。
でも、断る理由もなかった。
「やります」
わたしは言った。言葉にする人だから、言葉にした。
言葉にしたら、もう引き返せない。
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その夜、わたしは控室に行った。
ミーナの控室。わたしの部屋ではなく、ミーナの部屋に。わたしの部屋にはフリーダがいる。フリーダに見せたくない顔があった。
ミーナは机に向かって、何かを書いていた。わたしが入ると、顔を上げた。
「リーゼ様」
ミーナの目が、少しだけ広がった。驚いたのだと思う。わたしが一人で、フリーダもつけずに、夜の控室に来るのは初めてだった。
「ミーナ、ちょっと聞いてほしいことがあるの」
椅子に座った。お茶を淹れようとしたが、手が震えていた。ミーナが代わりに淹れてくれた。淹れる側になるのはミーナにとって初めてだろう。普段はわたしが淹れる。今日は逆だった。
「お父様が、まだ帰ってこない」
わたしは話した。年始の挨拶のこと。百年以上続く伝統のこと。テルナー様から代理で立つように言われたこと。
「わたし、人前で話すの得意じゃないの。父上はいつも上手にやるけど、わたしは。あの広間に領民が何百人も集まって、わたし一人が前に立って」
声が小さくなった。自分で聞いていて、情けないくらい小さかった。
「怖い。本当に怖い」
わたしは言った。
言ってから、しまった、と思った。城主の娘が「怖い」と人前で言うのは、たぶん、してはいけないことだ。子供の頃から教わってきた。「城主の娘は弱音を吐かない」と。
でもミーナの前では言ってしまった。
なぜだろう。ミーナは噂話をしない人だからかもしれない。あるいは、ミーナの目が、わたしの弱音を判定しない目だからかもしれない。ミーナは弱音を見ても、それを「弱さ」とは思わない。ただ「そういうものがある」とだけ思う。棚にずれがあるのと同じように、ただ観察する。
だから、言えた。
「リーゼ様。お手伝いできることがあれば、何でもします」
ミーナが言った。
「……ほんと?」
「挨拶の原稿を一緒に整理しましょう。言いたいことを順番に並べて、角を揃えれば、迷わずに話せます」
「角を揃える……挨拶も?」
「言葉も棚と同じです。順番が決まっていれば、あとは勝手に動きます」
勝手に動く。
わたしはそれを、ミーナが帳簿を並べる姿で見てきた。ミーナは棚を見ないで帳簿を戻す。頭の中の順番通りに、動く。わたしの挨拶も、そんなふうにできるだろうか。
わたしは少しだけ笑った。泣いたあとの笑顔だった。弱々しいとわかっていた。でも、本物だった。
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ミーナが原稿の整理を手伝ってくれた。
わたしが言いたいことをまず全部書き出した。新年のこと、領民への感謝、お父様への思い、城への思い、これからのこと。ばらばらに書いた。順番も考えずに。
ミーナが読んで、頷いた。
「ここに十二項目あります。これを四つに束ねます。最初の束は『始まり』。次が『感謝』。次が『約束』。最後が『締めくくり』」
ミーナが原稿に印をつけた。十二項目が四つの束にまとまった。それぞれの束の中で、順番を入れ替えた。最初は短い文から。だんだん長い文へ。最後にまた短い文で締める。波のように。
「声に出して読んでみてください」
読んだ。わたしの声で、自分が書いた言葉を、声に出して読んだ。
読みながら、わかった。
順番が決まっていると、本当に楽に話せた。次の文が自然に出てくる。考えないで済む。一つ前の文が終われば、次の文が用意されている。迷う時間がない。迷わないから、声が震えない。震えないから、通る。
ミーナは魔法使いかもしれないと、わたしは思った。魔法ではないと、ミーナは言うだろう。「棚と同じです」と。
何度か読み直した。読み直すたびに、声が落ち着いてくる。もっと声を大きくと言われて、もう一度。最初は震えていた声が、だんだん自分の声になっていく。
「リーゼ様」
ミーナが言った。
「最後の一文、もう一度書いてみませんか」
「最後?」
「この原稿の締めくくりが、少し短い気がします。あと一文、リーゼ様自身の言葉で加えてもいいと思います」
わたしは考えた。最後の一文。締めくくりに何を言うか。
わたしの言葉。父上の言葉ではなく、教わった言葉でもなく、わたしの言葉。
思いついた。とても自然に。
わたしは、その言葉を大事に、原稿の最後に加えた。
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挨拶の日が来た。
朝からフリーダが衣裳を整えてくれた。年始の正装。フリーダが仕立てた、一番いい布の青い冬用のドレス。髪を編み込みにしてくれた。鏡の中のわたしは、いつもより少しだけ大人びて見えた。
「リーゼ様、よくお似合いです」
「フリーダ、ありがとう」
フリーダの目が少し潤んでいた。わたしは気づいたけど、指摘しなかった。指摘したら、フリーダはきっと「目にゴミが入っただけです」と言うから。フリーダはそういう人だから。
広間に入る前、わたしは廊下で深呼吸をした。
そのとき、後ろから足音がした。
「リーゼ」
お父様の声だった。
振り向いた。旅装から着替えて、城主の正装をしていた。疲れているはずなのに、穏やかな目でわたしを見ていた。
「お父様!」
「間に合ったようだな」
わたしはお父様に駆け寄りたかった。抱きつきたかった。子供の頃みたいに。でも、なんだかそうしてはならない気がしてしまった。今日のわたしは、城主の娘として広間に立つ予定だった。娘ではなく、代理として。
お父様はそれをわかっていた。手を伸ばして、わたしの肩に置いてくれた。短く。それから手を引いた。
「先に行きなさい。後ろで見ている」
「お父様が間に合ったのなら、お父様が挨拶に立たれるのでは」
「今日の挨拶は、お前に任せたい。今日までお前が整えてきたことだ」
お父様の目が、優しかった。
わたしは頷いて、広間に向かった。お父様は後ろからついてきた。一歩後ろで。
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広間に入った。
何百人もの領民が集まっていた。目がいっせいにわたしを見た。高い台に上がる。父上は後ろに立った。一歩下がった位置に。わたしの場所を奪わないように。
息を吸った。
ミーナが教えてくれた通りにする。最初の一冊をまっすぐ置けば、あとは隣に合わせるだけ。
口を開いた。
最初の一文が、広間に響いた。
震えていない。いや、少しだけ震えている。でも届いている。後ろの人にも届いている。わたしは自分の声を聞きながら、次の文に移った。自然に出てきた。ミーナが言っていた通りだった。
順番通りに、頭の中で束を一つずつ開けていく。
始まり。感謝。約束。締めくくり。
最後の一文を言う前、わたしは一度、息を吸った。
「この城は、たくさんの人の手で守られています」
広間がしんとしていた。
「わたしも、その手の一つでありたいと思います」
間を置いて、言い切った。
拍手が起きた。大きな拍手だった。長く続いた。領民の顔が見えた。笑っている人がいた。頷いている人がいた。安心した顔があった。
後ろでお父様が見守ってくださってる。わたしの今日の場を譲って、ただ頷いていた。
台を降りた。足が少しだけふらついた。でも倒れなかった。
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広間を出て、廊下に出た。
ミーナがフリーダと廊下の端に立っていた。中には入らずに、開いた扉越しに見ていたのだろう。
わたしは走り出した。
「ミーナ! できた! できたよ!」
「できましたね」
「声、出てた? 後ろまで届いてた?」
「届いていました。最初の一文が特によかったです」
「ミーナのおかげ!」
「わたしは原稿を整理しただけです」
「だからそれがすごいって言ってるの!」
わたしはミーナの手を握った。力いっぱい。最初に会ったときと同じように。ミーナの手のひらは冷たかった。わたしのほうが汗ばんでいた。緊張していたのはわたしのほうだった。
フリーダが追いついてきた。目が赤かった。
「リーゼ様、素晴らしかったです。立ち姿も完璧でした」
「フリーダも泣いてるし」
「泣いてません。目にゴミが入っただけです」
三人で笑った。廊下で。広間から、まだ拍手の余韻が聞こえていた。
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夜、お父様の書斎に呼ばれた。
お父様は椅子に座っていた。机の上にお茶が二つ。一つはお父様の、もう一つはわたしの。
「リーゼ」
「はい」
「今日は、よくやった」
お父様の声が、いつもより少しだけ深かった。
「ミーナが原稿を整理してくれました」
「そう聞いている。だが、立ったのはお前だ。声を出したのもお前だ。最後の一文はお前自身の言葉だと、ミーナから聞いた」
お父様がゆったりとお茶を一口飲んだ。
「『その手の一つでありたい』と言ったな」
「はい」
「良い言葉だ。城主の娘の言葉として」
わたしは頷いた。お父様の目が、穏やかだった。
わたしは言いたいことがたくさんあった。お父様が帰ってこない夜、わたしが怖かったこと。フリーダの前で「怖い」と言ったこと。ミーナの前でもう一度「怖い」と言ったこと。東棟で何もできなかった夜のこと。でも、全部は言わなかった。
お茶を飲み終わって、わたしは立ち上がった。
「お父様、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
部屋を出た。廊下で、もう一度深呼吸した。
わたしは言葉にする人だけど、言葉にしないことも覚え始めていた。言葉にしたら薄まるものが、世の中にはある。怖かった夜のことは、わたしの中に残しておく。ミーナの前で「怖い」と言えたことも、わたしの中に残しておく。父上が帰ってきた瞬間、肩に手を置いてくれたことも。
全部、わたしの中に残していきたい。
言葉にしないことが、今年のわたしの新しい仕事になりそうだった。




