08 ムサシ02
ムサシの本名は志田風太郎という。幼い頃から父の右京に居合の指導を受け、中学に上がる頃には父を超えるほどの剣の腕前となり神童とよばれた。
彼の父は江戸時代から続く瀞流館という道場を構えていて、近所の大人や子供に剣道を教えていた。
志田家が伝承している剣の型は二種類あった。
一つ目の型は中腰の構えからの居合抜きである。
構えは、左半身になって右肩を前にせり出し、両足を深く曲げてグッと腰を落とす。
刀は鞘に納めたまま刃の側をやや外側に向け、右手は刀のツカの根元を握るがあまり力は入れず、人差し指と親指の間の部分で軽く添える程度の力加減、左手は鞘をしっかりと握る。
はたから見ると潰れたカエルのようで何とも不恰好だが、この独特の構えは戦国時代の戦場で強烈な一閃を放つために先人が試行錯誤を重ねて開発した構えなのだ。
構えが決まったら、次に呼吸を整え、前に出した右足をさらに深く曲げて一瞬体を沈める。この時ツカの先がやや下がるようにしながら右手を自然に前に出すことで刀身を鞘走らせる。
同時に左足で地面を蹴って右足を大きく前に踏み出しつつ溜めた足の力を一気に解き放ち、さらに腰と背中のバネを腕に伝え、鞘走った刀身の進むに任せるように片手で刀を右上に一気に振り上げる。
剣先を自分の身長よりおよそ頭一つ分くらいの高さまで振り上げたら、そこで手首を返して刃先を百八十度回転させ同時に左手も柄を握り、今度は一気に左下に振り下ろす。
この時、振り上げた時と同じ刃軌道をたどるのが基本の型になる。
二つ目の型は正座からスタートし、刀を抜く際に右足を立てて前に踏み出す。振り上げと振り下ろしの動作は第一の型と同じである。こちらは室内で突然斬り合いが始まった時のための型である。
風太郎が三歳の時、父の稽古が始まった。
厳しかった。
朝夕二時間ずつ、繰り返し繰り返しこの一連の型を繰り返す。他のメニューは無い。
稽古を始めた初日に右親指の付け根の皮が剥がれた。子供用の軽い木刀ではあったが、子供の手の皮はあまりにひ弱過ぎた。
しかし父は容赦無かった、風太郎が泣こうが喚こうが激しく叱咤し殴打し、無理やり立たせて木刀を握らせ素振りを続けさせた。
何度も皮がむけ固まりまた剥けて固まるのを繰り返す。風邪をひいて熱が出た時も休みはなかった。往診に来た医者には殺す気ですかと言われた。
風太郎が四歳になった時、手の皮が完全に固まり出血することは無くなった。指の付け根に異様なタコができた。しかしその代わり今度は足の裏の皮が剥けるようになったが、五歳になる頃、やはり硬いタコが出来て剥けることはなくなった。
それを見た父は、朝夕二時間ずつだった稽古を三時間ずつ行うように命じた。朝四時半に起きて朝食前にたっぷり三時間、学校から帰って夕食までの三時間、風太郎は耐えた。
もともと才能はあった。八歳になる頃には腰がどっしりと定まり、木刀の振りに鋭さが増して来た。それを見た父は彼に初めて日本刀を持たせた。それ以降、平日の稽古は木刀を使い、父が休みの日は父の立ち会いの元、真剣で行った。
風太郎が中学に上がった年、道場の生徒を集めてお祝いの会を行なった時のことである。昔から志田家では数えで十三歳を元服として定め、一人前になった祝いの儀式を行うのが習わしだった。
その日、父の道場には大人と子供合わせて三十人ほどの生徒が集まっていた。みな風太郎が小さい頃から知っていたから大人たちは彼を自分の子のように可愛がっていたし、年の近い子供たちとはとても仲が良かった。
その日は日曜日でいつもなら七時から朝稽古があるのだが、風太郎のお祝いイベントのため稽古は休みだった。風太郎は生徒たちの前で日本刀を使った演舞を披露することになっていた。
みな思い思いに道場の壁際にぐるりと陣取って、風太郎の登場を待っていた。
生徒の兄弟だろうか、小さい赤ん坊が母親に抱かれている。
風太郎の妹の香織も子供達に混ざって座っている。一応彼女も少女剣士だ。白の道着を凛々しく着こなしている。父の右京は神棚に近い上座に座って弟子たちと談笑していた。
風太郎は何の前触れもなく道場の入り口から入って来た。
純白の羽織に紺の袴、腰には志田家家宝の日本刀を差している。
道場の空気がさっと透明になり、お祭り気分でざわついていた生徒たちが一瞬で静まり返る。
風太郎は水面を滑るような足取りで前に進み出ると神棚に一礼、師匠の父親に一礼、最後に集まった門弟たちに一礼し道場の中央に進み出た。
色白の頬がほんのり赤らんでまだ幼さを残してはいたが、そのしなやかな身のこなしと涼やかな気迫は見る者を惚れ惚れとさせる。みな賞賛と期待の眼差しで風太郎を見守った。
風太郎は道場の中央に立つと呼吸を整えてから目を閉じ、無造作に腰の刀を抜き放った。
銀色の刃先が空気を切り朝日を集めて光り輝いている。和やかだった道場の空気が一変した、ピンと張ったピアノ線をキリキリと引きしぼるような緊張感が道場を支配する。
みな息を殺して風太郎を見つめている。張り詰めた空気に気付いて赤ん坊が泣き出した。
風太郎は刀を手にしたまましばらく放心をした後、おもむろに刀を鞘に納め、腰を落としていつもの居合の構えを取った。
半身になり気合を貯める、全身から強烈な殺気がほとばしる。
その場の全員が息を飲んだ。
泣いていた赤ん坊が泣き止んだ。
次の瞬間、風太郎は貯めた気迫を一気に解き放った。
しかし、何も起こらなかった。
いや、何も起こらなかったように見えた。
いつの間にか先ほど鞘に収めたはずの刀が左下に突き出されている。全員が目を丸くしてその抜き放たれた刀身を見つめる。
風太郎は残心の体勢からゆっくりと刀を鞘に納める。
ただ一人、彼の父だけは起こったことを理解していた。
剣は確かに鞘から抜かれ振り上げられ、振り下ろされた。自分が教えたとおりの型だった。
しかしそのスピードがあまりに早すぎたため、誰の目にも捉えることができなかったのだった。
父さえもかろうじて剣先が頂点で向きを変える瞬間に刃先が一瞬煌めくのが見えただけだった。
父は全身に鳥肌が立つのを感じた。しかし同時に風太郎の未来を案じたのだった。




