第五十五話
「お、お邪魔します」
「はい、いらっしゃいませー」
来てしまった。言われるがまま、誘われるがままに愛猫さんのご自宅に来てしまった。
愛猫さんの家はディスカウントショップからは車で10分ほど。俺の家からは3分の場所にあるマンションの一室。
「滅茶苦茶私の家から近いじゃないですか!? ご近所さんみたいなものですね!」
――なんて軽口は叩けず、頭の中はずっと『え、どうしよ、どうしよどうしよ、女装姿のまま人様のお家に着いちゃったぞ』と、半ばパニック状態のまま到着した。
先に玄関を上がった愛猫さんは、家の電気をあちらこちら点けながらスタスタと廊下を渡って正面の部屋へと行ってしまった。
取り残された俺は呆気に取られながらぽつんと立ち尽くす。
と、愛猫さんがこちらへと引き返してきた。
「何してるの? 早く入りなさい?」
「は、はい」
促されるがまま、俺は漸くサンダルを脱いで玄関を上がると愛猫さんの後に付いていく。
廊下の正面の部屋に二人で入る。広さ10畳余りのダイニングキッチンだ。
「ごめんなさいね、殺風景な部屋で」
「いえ、そんな。それより広いですね。誰かと暮らしてらっしゃるんですか?」
何の気なしに尋ねたのだが、愛猫さんはキッとこちらをすかさず睨んできた。
「それ、嫌味?」
「へ? い、いえ、これだけ広いなら一人ではなく、誰かご家族とお暮らしであらせられるのかと……」
思わず変な敬語になってしまうが、それを気に留めることなく愛猫さんは目の険を潜ませた。
「そう……家に私以外の人が来たのは1年ぶりよ。母親が来て以来ね」
「なるほど。そう言えば愛猫さんってごけ――」
スッと殺気に満ちた目が向けられた。
こちらとしては女装したまま、性別を偽ったまま女性の家に足を踏み入れて、尚且つそれを明かさないままこれから一時的とは言え寝泊まりするのであれば、彼氏さんとかがいるなら帰るべきだよな。うん、一応確認すべきか。
からの『ご結婚されてないんですね。彼氏さんとかはいらっしゃらないんですか?』と、俺なりの配慮から口にしかけたのだが、たったの二文字で口を噤まされた。『ごけ』である。ご結婚の『ごけっ』までならまだしも、『っ』の前に睨まれた。よっぽど思うところがあるんだろう。最早彼氏の有無すら軽々には尋ねられない雰囲気が形成されてしまった。
とは言えこれだけ広々とした家に住んでいるのに客人は1年前に訪れた母親が最後ってことは、まぁそういうことだろう。
などと勝手に納得していたら。
「とりあえずお風呂に入った方が良いんじゃない? もう夜も遅いし。私もさっさと眠っちゃいたいから。あ、何なら一緒に入る?」
「へぁっ?」
「ふふ、冗談よ。鳩が豆鉄砲喰らったような顔しちゃって」
いや、そんな生易しいものではなく、気持ち的にはカラシニコフの銃口を向けられたような心境だったんだが。愛猫さんと一緒に風呂なんて入ればもうそれは地獄への片道切符だ。一応展開を妄想してみるか……。
「こうやって誰かとお風呂に入るなんて久しぶりだわ」
脱衣所で衣擦れの音を背後に聞きながら、俺は張り裂けそうなほどの心臓の高鳴りを感じていた。
「そうなんですか……? どなたかと以前にお風呂を共にされたことがあるんですか?」
「それぐらいあるわよー。と言っても友達と旅行した時ぐらいだけど。というかどうしてそんな露骨にそっぽを向いてるの?」
「そ、それは、色々と事情があって――」
どぎまぎする俺の肩へ愛猫さんは手をかけると。
「そんな固まってないで、ほら、太田さんも脱ぎなさい」
「そ、そんな」
「ほらほらー。脱いで脱いで―」
「あーれー」
「よいではないかよいではないかー……って、あれ?」
「あれ……?」
「……股間、何それ。隆起してない?」
「りゅ、隆起? し、してないですよ!」
「ふふふ、もう。太田さんは太田さんじゃなくって太田『君』だったのね。まったく、辛抱溜まらんって感じじゃない。それならほら、行きましょう。一緒に。向かう先は勿論――」
手を引かれ、そうして辿り着くは――。
「――警察署へね」
「うわあああああああ!」
「ど、どうしたの太田さん!?」
絶望の未来が見えて絶叫したところ、現実の愛猫さんに声をかけられて何とか平常心を保つ。
「だ、大丈夫です、はい。いたって平常です。なので近づかないでください、ええ」
「……よく分からないけど、とりあえず先にお風呂に入れば? 私はご飯食べてるから。バスルームはこの部屋を出てすぐ左手にあるわ」
そう言って愛猫さんはソファーに腰かけると、手に提げていたコンビニのビニール袋からたぬきうどんを取り出してテーブルに乗せていた。
「そうですね、では、お言葉に甘えて」
「あ、着替えがないわよね。後で脱衣所に置いとくわ。着たことないのがいくつかあるし」
「そんな。お気遣いなく」
「いいのよ、そんなのは当たり前だから。それと太田さんの服は脱衣所にある洗濯機に直接入れてもらって構わないから。後で私のとまとめて洗濯しておくわ」
「……そんな……本当に、お気遣いなく……」
「それとバスルームにあるクレンジングオイルも気兼ねなく使ってね。メイクしたまま寝てもスッキリしないからね」
「……」
退路なんてもう、ねえのか……?




