7 母親
ご不快な表現があります、ご注意下さい。
学校が終わりレイナが久しぶりに安アパートに戻ると珍しいことに普段仕事に出かけている母親が家にいた。
レイナは木造の家に泊まるようになると極力母親に出会わないように安アパートに戻っていた。
ゴミの散らかった部屋を掃除して台所で放置されている皿を洗い、置かれたままの服を洗濯して干す。
机に置いてある僅かばかりのお金を手に入れて学校からの書類を置いておく。
しかし、その日は電気も付けない薄暗い部屋で母親は酒瓶を片手に机に突っ伏していた。
レイナはぎくりと身体を強張らせて足を止めたが母親はレイナの存在に気が付き顔を上げた。
長く振り乱れた髪の間から見えた目は暗く濁っているように見えた。
「……ねえ、あんたバイトで稼いだお金があるでしょ。ちょっとは親に感謝して家に入れなさいよ」
話し掛けた言葉は親として最低な言葉だった。
子供が苦労して手に入れた報酬を親が掠め取る。子供の労働の喜びを失わせるひどい言葉だ。
レイナが二の句が継げないでいると、母親は不服に思ったのか更に憤る。
「ちょっと! 聞いてるの!! 返事ぐらいしなさい。全くなんて子なのかしら。
私が一人で苦労してあんたを育てたのよ。
あんたがいなければ、私はもっとマシな暮らしをしていたわ。
こんな所で苦労する必要もなかったのよ」
「……何で必要なの」
「生活に困っているからに決まってるでしょ! それも分からないの!」
大声でヒステリーを起こしている母親にレイナの心境は冷えていく。
過去にも母親がヒステリーを起こすことはあった。
幼いレイナはただ嵐が収まるまで怯えてじっと我慢するしかなかったが、今は冷静に母親の姿を見つめることが出来た。
それは酷く醜く不快で哀れな女の姿だった。
レイナは氷のように無表情になり、低い声で母親を詰問した。
「中学に入って私はほとんど家に帰っていない。お金も使ってないから生活が苦しいのはお母さんのせいだよね。何に使ったの?」
娘の冷静な返しと今まで見たことのない表情に母親は狼狽えた。
「い、今までも苦しかったからお金を借りてたのよ。それの返済が大変だから、あなたの助けも必要なの」
「私のバイト代なんてたかが知れているでしょ。それが必要なぐらい借金してるの?」
「と、取り敢えず必要なの。今月分でもいいからお金を貸してくれない?」
切羽詰まった様子の母親に訝しんでいると、ドンッとドアを蹴る音と共に男の怒鳴り声が響いた。
「おぉい、三田! 借りた金返さんかワレェ! ぶち殺すぞ!!」
「ひやぁっ」
男の恫喝に母親は悲鳴を上げて机の下に逃げ込んだ。
どうやら母親がお金を借りているのはやくざの闇金のようだった。
机の下から出てこない母親にレイナはため息を付き、男に殴られ続けているドアを開けて対峙した。
突然開いたドアと中からあらわれた中学生の少女に男は驚いた。
「なんじゃ、ワレェ、三田の娘か。母親はどうした」
「母はいません、お帰り下さい」
「そんな訳ないだろが店にはいなかった、逃げたかあの女。
だが、期日は今日までだ。きっちり払うまでは帰らん。三田が払わんのなら、お前が代わりに金を払え。でーじょうぶだぁ、手段は幾らでもある」
こんな少女に男はどんなことをさせるつもりなのか。軽薄に笑う男にレイナは眉を顰めた。
話は聞こえているだろうに机の下から出てこようとせず、娘を矢面に立てている母親にも幻滅していた。
レイナが返済金額を聞くと少なくない金額を提示されたが、夏休み中に貯めたお金にぎりぎり足りていたので、カバンから取り出し男に渡した。
男は物怖じもせずに対応したレイナに感心しながらも容赦なくお金を毟り取ると周囲の住人に聞こえるほどの大声で叫んで帰った。
「おぉおいぃ、三田ぁあ! 娘が今月分の金を払ったから今日は帰るが、来月分が払えなかったら母娘共々風呂に沈めるぞ!! 来月が楽しみだなあぁ」
近所に聞かせるためだけに叫ぶ男は人の不幸が心底楽しく、意地が悪かった。
男が去った後も母親は机の下で頭を抱えてぶつぶつと呟いて出てくる様子はない。
レイナは母親を放って置いて、黒猫とウーサのいる木造の家に帰ることにした。
母親は安アパートの薄暗い部屋で頭を抱えて自分の不幸を嘆いていた。
「私が悪い訳じゃないの、騙されたの、こんなに借りるつもりはなかったの。あの時の彼がお金が欲しいって、私も遊ぶお金が欲しくて、こんなに一人で子供育てて、働いて、ちょっとぐらいご褒美があったっていいじゃない。
なんで、なんでこんな事になってるの、私頑張ってたじゃない。
なんでこんなに不幸で可哀そうなの。あの子がいけないの? あの子を産んだから彼が離れて、私が一人寂しく苦労しているんだわ。
あの子がいなければもって素敵な彼を見つけて幸せな暮らしが出来たはずだわ。
あの子がいけない、あの子がいけない。あの子は必要ないわ……」
暗闇の中からは呪詛が聞こえ続けていた。
* * *
木造の家に帰って来たレイナだったがその表情は硬い。
折角貯めたお金が一瞬で消えてしまったこと、母親にあらためて幻滅したこと、男への不快感、借金による将来の危機感が募っていた。
母親が来月のお金を返せなければレイナにも影響が出てくるだろう。
これをなんとか回避しなければならない。
こんな時にレイナが頼れる者は黒猫を措いていなかった。
レイナの事情を聞いた黒猫は髭を扱きながら唸った。
「むむむっ、難しい問題だね。やくざからの借金は厄介だなぁ。
返済の延長は受け入れてくれそうにないし、来月の返済の目途は立っていない。後は知り合いにお金を借りるか夜逃げぐらいかなぁ」
しかし、やくざと関わり合いになりたい人などいない。
あれだけ男が家の前で怒鳴っていたら周囲の住人は大体の経緯を察知して避けるだろう。噂がどこまで拡がるか分からない。
夜逃げは最終手段と言えるが母親にそんな度胸があるとは思えない。それにやくざの方が詳しく対策しているだろう。
やくざにお金を借りたと言う時点で詰みなのだ。彼らの土俵で足掻いても常識も法もなく、金と暴力で成り立っているレイナの理解を超えた世界なのだ。
ならば、やくざの土俵に立たなければいい。
レイナたちにはレイナたちの土俵があるではないか。
やくざたちをレイナたちの土俵に上げて立ち回れば、レイナたちは優勢へと転じるだろう。
レイナは戦うことを決めた。戦うことで手に入れた新たな力は彼女の人生を好転へと変えた出来事だったからだ。
人生とは戦いだ。勝っても、負けたとしても構わないが、戦わずして唯々諾々と敗北を享受して生きるのは許せない。それぐらいなら負けて死んだ方がマシだ。
レイナは黒猫にやくざの偵察を頼んだ。
黒猫はやくざとの抗争を忌避していたが他の穏便な手段が思いつかず、偵察しながら模索することにした。
男に顔を知られている中学生のレイナやうさぎのウーサがやくざの事務所をうろうろしていたらすぐに怪しまれるだろうが、野良猫にしか見えない黒猫なら素知らぬ振りでやくざの動向を探ることができるだろう。
タイムリミットは来月の返済期日の約一か月間。
レイナはダンジョンの魔物ではなく初めて人間と対峙することになった。
次話、残酷な表現があります。ご注意ください。




