5
グワァァァン!!
耳をつんざく、人でも獣でもない鳴き声。
炬は目を見開いて体を硬直させた。
次の瞬間には急いで家の戸を開け、外を見渡した。
が、何も見えない。
だが、川の方で暴れている音だけは聞こえてきた。
「何でこんな時に魔物が現れるんだよっ」
理不尽な怒りを覚えて、炬が小さく呟いた。
空気が生暖かく、水気を含んだ土のような匂いが充満していく。
先程まで晴れていたのに、雲行きは一気に怪しくなっていった。
「くそっ。雨かよ」
更なる悪条件に炬は苦虫を潰したかのような表情をした。
狩りの弓を持って炬が家を出ようとした時、
グワァァァン!!
まだ遠かった鳴き声が間近で響き、森からその姿を現した。
子供が描く古典的なお化けを実体化したような、三メートルほどある黒い半透明の体。
真っ白な能面の顔。
だが、目だけは血走って怒りの感情を露にしているので、そのギャップに不気味さを覚える。
「最悪だ……」
絶望した声で炬は呟いた。
何故なら、あの魔物には物理的な攻撃が当たらないからだ。
追い払うにしても、倒すにしても攻撃が当たらないとどうにも出来ない。
そうなると人間たちは手が出せず、この魔物が去るまでただ見ているしかなかった。
「災妖か」
後ろから外の様子を見て、男が聞きなれない単語を口にした。
「サイヨウ? あの魔物の名前か?」
「魔物って……お前なぁ」
炬の台詞に男は呆れたような表情をする。
目の前の魔物は魔物の中で特に厄介な奴である。
しかし、神は力があるのでそういう反応になるのかもしれない、と炬は思った。
それより今はどうやり過ごそうかと思考しだす。
と、そこで妹の姿をしている男にもう一度目を向ける。
「あんた、どうにかできないか?」
「は?」
「俺たちにはどうにもできない。けど、神様のあんたなら倒すなり、追い払うなりできないのかって聞いてるんだ」
「あー。まぁ、できるが……」
歯切れの悪い言い方をする男だが、炬にはそれだけで十分だった。
「じゃあ――」
「駄目だ」
「何で!」
頼もうとするより先に遮って断られ、噛み付くように男を見る。
親の敵でも見るような炬の表情を見やってから、男は軽く溜め息を吐く。
そして胸に手を当て、
「村の平和」
「は……?」
ポツリと呟かれた一言。
何の脈絡もない一言に炬は反応できない。
「妹の願いは村の平和。あらゆる害からこの村が守られるように。だからここで俺様が災妖を倒せばこのシンタイは俺様の物になっちまうんだよ」
初めて知ったトモの願いに、炬は驚いた。
しっかりしていてもまだまだ子供だと思っていた妹の一番の願いが自分自身の事ではなく、村の事だとは健気としか言いようがない。
炬が呆然としている間に、災妖という魔物は村を襲い始める。
襲うといっても暴れるわけではなく、ノソノソとナメクジが這うかのような足取りで歩いているだけだ。
しかし、災妖の周りでは竜巻のような風が起こっていて、家や畑を壊し崩している。
村人たちは何も抵抗できないと判っているので、巻き込まれないように避難していた。
「くそっ……」
妹は大切だが、村も大切だ。
天秤にかけても、どちらにも傾かない葛藤に悩んでいると、ポツポツと水滴が空から落ちてきた。
その量は毎秒増えていき、あっという間に本降りになってしまった。
災妖の竜巻と相俟って、嵐のような状況になってしまった。
「……助けて、くれ……」
「……良いのか?」
「トモは大事だ……けど、このまま放っておいて村が潰れたら、トモが悲しむ」
トモから男が離れた後、村の惨状や村人たちの死を見たらトモはどう思うかと想像したら……。
「判った」
短く返事をすると、男は炬の横を通り過ぎて嵐の中へ足を踏み出す。
小さな体に容赦なく雨粒が打ち付けて、髪や衣服を濡らしていった。
そんな後姿を見て、炬は目を瞑って心の中で妹に何かを言おうとした。
だが何も言葉が出てこなかった。
瞼を開けて前を見ると小さな少女は何処にもおらず、黒い翼が目に入った。
雨で濡れた翼は艶やかで、思わず魅入ってしまう。
「来い、薙堊」
低い声で発せられた言葉。
我に返った炬が翼から目を上げると、黒髪で長身の男がいた。
誰、なんて聞かなくても判る。
男の手には見覚えのある物が握られていた。
巨大な包丁のような刃が取っ手で二つ、繋がれている武器。
一昨日の夜に炬を襲った物。そして、先程の言葉はこの武器を呼んだのだ。
「今、助けてやるよ」
小さく呟かれた言葉は炬の耳に届いたが、この時は特に何も思わなかった。
ただ自分たちを助けてくれるのだと。
災妖が歩みを進めると少しずつ村は破壊されていく。
男はその艶やかな翼を軽く羽ばたかせて、距離を詰める。
普通の鳥ならこの荒れ狂う風の中ではまともに飛ぶ事はできないだろう。
それ故に男が普通の存在ではないと再確認させられた。
グワァァァン!!
災妖は目の前に現れた男に威嚇するよう雄叫びを上げた。
そして竜巻の一つが大蛇のようにうねり、男を飲み込もうと襲い掛かる。
男が薙堊を横に振るうと、竜巻は一瞬で消えてしまった。
「お前じゃ、無理だ」
竜巻を消されて怒ったのか、再び雄叫びを上げる災妖を男は哀れむように見つめた。
雄叫びに合わせて風は激しく荒れ狂い、雨脚はますます激しくなっていく。
そんな事はお構いなしに男と災妖は向かい合う。
先に動いたのは男だ。
もう少し相手をしても良かったが、既に村の端にあった家や畑が潰れおり、シンタイの願いに反してしまうので早々に終わらせる必要があった。
キィィィィ!!
今までの雄叫びとは違い、悲鳴のような叫び声が響く。
炬は何が起こっているのか気になったが、激しい風と雨で外の光景は何も見えない。
男の攻撃が災妖に直撃したのだろうと想像するしかなかった。
動きが鈍く、風が通用しない災妖に勝機がないのは一目瞭然。
薙堊の刃を直接受けて、災妖は叫び声を上げて身を捩る。
半透明だった体は更に薄くなり、血走った目から力が抜けていった。
周りの風も弱まっていく。
「……ゆっくり眠れ」
災妖の体が傾いていく。
そして巨体が村に横たわる前に災妖は空気に溶けるよう消えてしまった。
後に残ったのは、大雨と爽やかな風。
風が雨雲を押し流していき、土砂降りだったのが嘘のように太陽が顔を出して村を照らす。
額や頬に張り付く濡れた髪を掻き上げると、男はある事に気付いて軽く笑う。
「……ははっ」
魔物を倒してもらい、村の被害が最小限に留めてもらった事を感謝すべきだ。
「…………」
しかし、炬は複雑な表情をして遠くにいる男の背中を見つめていた。
いつもなら甚大な被害を受ける魔物の襲来が今回は少しの被害で済んだ。
これは森の神の加護だと村人たちは思い、更に神を称えた。




