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暗くて見え辛かった視界も、慣れと月の明かりでほとんど見渡せるようになった。
しかし、何が起こるか判らない。
炬は慎重に足を進める。
暫く歩いてみるが、毎日来ていた森と変わりなかった。
「異変は無くなったのか?」
入り口に戻る気配がまったくないので安心してそう口にした時、炬の目の前に見慣れない物が現れた。
それは新しくはないが、朽ち果てそうなほど古くもない。
百七十センチほどある炬の胸ぐらいの高さで、素材は石。
灯籠に似た形をした、祠だった。
幼少時から炬はこの森で駆け回っていたが、祠など一度だって見た事がなかった。
炬は不気味に思いながらも、それに近付いていった。
祠と言えば、神を祀るための物だから恐れる事はない。
しかし、森に異変が起こり、見知らぬ祠が現れた、というこの状況下では尊べそうにはない。
そもそも見た事もない神を敬うなど炬には考えられなかったし、村人たちも神より自然を敬っている。
ゆっくりと歩を進める。
聞こえるのは、草を踏む音と炬の殺した息遣いのみ。
「……魔物の罠……なんて、な」
誰に問う訳でもなく口にした言葉は現実味があって、祠に伸ばした己の手の動きが鈍った。
恐々と触れてみると冷たく、でこぼこした感触が伝わる。
炬の知る石と変わりはなかった。
祠の周りを一周してみると、側面の一つに錆びたカギ型の取っ手が二つ付いていた。
つまり開ける事が出来るのだろう。
炬は取っ手に指をかけて、引く。
「……あれ?」
覚悟を決めて取っ手を引っ張ったが、開かなかった。
今度はもう少し力を入れて引っ張った。
それでもビクともしない。
力一杯引っ張ろうとした時、風を切るような音がして反射的に祠から離れた。
トッ
祠を挟んだ向こう側から、人間が木から降りた時のような着地音。
いや、それよりももっと軽やか音がした。
魔物か。
緊張した表情でそちらに顔を向け――
ズ、ドォン……
炬が音の正体を目にするより早く、巨体が倒れる音が響く。
祠の後方にあった直径二メートはあるだろう大樹が切られて、地面に倒れた。
そう判ったのは、倒れた余韻が終わった時だった。
混乱した頭では、何がどうなってこのような状況になったのか判らなかった。
ただ呆然としていた炬は、自分の頬に暖かさを感じて手を伸ばした。
汗かと思った液体の臭いが急に鼻を突いた。
狩りの時にいつも嗅ぎ慣れた鉄の臭い。
目の前で倒れている大樹を切り倒したのは、常人では考えられないほどの鋭利な刃物。
あの一瞬で祠から離れなければ、今頃は首と胴体が別々になっていただろう。
ゾッと背筋に悪寒が走る。
自分の意思とは関係なく、炬はゆっくりと着地音がした方へと顔を向けた。
平穏な村で暮らしてきた彼とは限りなく関係ない、あらゆる生き物を一瞬で殺す事ができる刃物……武器と表現すべき物が地面に刺さっていた。
一七〇センチの炬より頭一つ分高い、それ。
月の光を受けて、黒い刀身が艶を帯びたように輝いていた。
混乱と恐怖で支配された彼の頭では血に濡れた輝きにしか見えず、更に恐怖を掻き立てた。
何の気配もない。
祠と武器だけが異様な存在感を放っており、その威圧で押し潰されるのではないかと錯覚するほどだ。
「……っ……」
炬は頭が真っ白になっていった。
その後の事は何も覚えていない。
ただ、夜だというのに鳥の羽ばたきが聞こえたような……
上もなければ、下もない。
右もなければ、左もない。
あるのは真っ暗な空間と生まれたばかりの自我。
ここは何処なのか?
自分は誰なのか?
さっぱり判らず、暗い空間を見つめていた。
眠りから覚める感覚とは全然違って、体はだるく思考も上手く働かない。
感じるのは冷たい感触と微かな重み。
とにかく目を開けなければ何も判らない。
重く開かない瞼を無理矢理上げた。
「…………」
木で出来た天井が目に入った。
首を動かして横にしてみると、泣き腫らした瞼を閉じて寄り添うように眠っている少女。
やっと記憶という機能が働いて炬は全てを思い出した。
「ト……モ……?」
酷く喉が渇いて声が出にくい。
ズルリ、と額から何かが落ちた。
目を向けると白いタオルだった。
しばらく見つめて、濡れタオルが額に置かれていたのだと判った。
自分は風邪でもひいて、ぶっ倒れたのだろうか?
しかし、それぐらいでトモが泣く訳がない。
「ん……おにぃ……ちゃん?」
兄が起きた気配を察したのか、トモは目を覚ます。
腫らした瞼の奥から赤くなった目が覗いた。
寝ぼけ半分、泣き疲れ半分で少しボーっとした状態で兄を見つめていたが、ハッと我に返ると横になっている炬に抱きつく。
「良かった……良かったよぉ……」
トモの目からまた新たな涙が溢れて、炬の服を濡らした。
炬は妹には弱いが、村では屈指の勇猛果敢な若者である。
狩りにしても、村を襲おうとした魔物を退治するにしても、率先して行動してきた。
そんな彼が気絶して帰ってきた。
どんな恐ろしい化け物が住み着いてしまったのかと村人たちが恐怖してもおかしくない。
トトイの話によると、森に入っていった炬が一向に戻ってこない様子に異変がなくなったと村人たちは歓喜していた。
しかし、一刻経っても彼が帰ってこない事に村人たちは別の不安を覚えた。
何人かの若者が炬を探しに森に入ろうとした時、ガサガサと大きな音がした。
若者たちが緊張した面持ちで音のした所を窺った。
すると頬を怪我し、血の気が引けて青白い顔をした炬が倒れていた。
その事を聞いた炬は、正体が判らない祠より、まだ魔物の方がマシだなと思っていた。
そうこうしていると夜になって、村長や村の有力者たちが炬の家を訪ねてきた。
「昨日の今日で、お主の体調も悪かろうが、昨夜の出来事を話してくれんかの? 事と場合によっては一刻も早く、この村から離れなければいけんからのう」
「……俺も良く判ってないんですけど……。森の中を進んで行っても、言われているような異変はなく――」
森の中での出来事をできる限り言葉にして、炬は村人たちに説明した。
「む~……どういう事じゃろうか?」
聞き終わって、村長が一番最初に口を開いたが村人たちの心中を言葉にしただけだった。
それから「祠を壊してみては」「被害が出ないうちに村を出よう」と意見が交わされたが、答えは出なかった。
「ん~……皆、何やってるの?」
今まで寝ていたトモが、村人たちが集まっているのに気付いて起きてきた。
まだ眠いのか、目を擦りながら兄の隣に座る。
「森の事、話してたんだよ」
頭を撫でて簡単に説明すると、トモは夢現な表情をして、
「あのね、さっきお母さんの夢見たの」
この状況でそんな話を始めるのは場違いだろう、と全員が思った。
しかし、その続きに全員が驚かされてしまう。
「それで思い出したんだけど、お母さんがこの森には神様がいるって言ってた。ずっと留守にしてるけど良い神様の家だよって、昔教えてくれたの」
村人たちも、炬さえもそんな話は初耳だった。
「……それが本当なら、その神様の家に無断で入って狩りをしてたから、怒って異変が起きてるのか?」
そうだとすれば辻褄が合う。
昨夜の炬の件に関しては、神が己の領域を荒らした事に怒っていると少し主張したのかもしれない。
そうだとすれば村人たちがすべき事は一つだけ。




