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事の始まりは、ごく普通の村に隣接する森にまつわる奇怪な噂からだった。
東の都からかけ離れた大山の麓の農村に、青年炬と妹のトモは住んでいた。
両親は流行り病で急死してしまい、炬とトモの幼い兄妹二人になってしまった。
しかし村民全員は一つの家族のようなもので、兄妹は村人たちに助けられながら生活してきた。
女は村里で農耕をして、男は森で狩猟をする。
豊かではなかったが村人たちは仲良く暮らしていた。
ある日、男たちが狩りをしようといつものように森の中へ入った。
十分ほど歩いて奥へと進んだはずなのに、気がつけば森の入り口に戻ってきていた。
何度試してみても入り口に戻ってきてしまう。
魔物でも住み着いたのではないだろうかと、村人たちは真っ先に身の危険を心配した。
しかし、森の奥へ進めないという以外に被害はなかった。
それでも村人たちは気味悪がり、森での狩りを諦めて、川で魚を取る事で食料は代用した。
この奇妙な森の事はいつの間にか近隣の村や町に広まり、いつしか巻き戻りの森と呼ばれるようになった。
「太陽様、いつも光をありがとうございます。水様、いつも潤いをありがとうございます。風様、いつも息吹をありがとうございます」
トモが畑の前で手を合わせて自然に感謝する。
肩まである淡い黄土色の髪。
今から畑仕事をするので、邪魔にならないよう革紐で一つにまとめている。
琥珀色の瞳は丸く、肌は小麦色に焼けて、何処にでもいる健康的な少女だ。
「なぁ、トモ。ずっと気になってたんだけどさ」
「何?」
トモの兄の炬――今年で十九になる。見た目はすっかり大人だ――がこれから川に魚を取りに行くので、銛と網を持って家から出て来た。
トモの感謝する言葉に、常々疑問に思っていた事があるので聞く。
「どうして大地には感謝しないんだ? 大地がなきゃ、種も苗も植えられないぞ?」
「え……?」
兄に言われた事が一瞬判らず、トモはキョトンとした。
それからポンと手を叩いて納得する。
「本当だ。さすが兄、たまには良い事を言うね」
「褒めてるようで、けなしてるだろ?」
妹の言い方に何だか棘を感じて、そう言い返す。
しかし、トモはもう炬の事など放って置いて、いつもの感謝の言葉に大地への感謝を増やして祈っていた。
「……行って来る」
「大物よろしくー」
良い様に遊ばれている炬。
今日もいつもと同じように軽くへこみながら、村の東を流れている川へと向かった。
トモが言った大物は取れなかったが、二時間ほどの漁で昼と夜のご飯には困らない程度の魚が獲れた。
岸辺で休憩していた炬は、一ヶ月前まで狩りのために駆け回っていた森へ何気なく目をやった。第六感というものを信じるなら、確かに何かが森にいる。
しかし、魔物がいるような悪い感じはせず、むしろ炬には……
「おい、炬。ボーっとするのは良いけど、ダントツで最下位、お前だぞ」
幼馴染のトトイに声をかけられて、我に返った炬はトトイに顔を向けて首を傾げる。
「最下位?」
「忘れたのか? 魚の量が一番少ない奴が夜に森の様子を見てくるって決めただろうが」
「へ?」
魚を捕る前に村の男たちは川辺で集まり、狩場である森の異常が無くなったかどうかを確認しよう、という話になった。
だが、誰が確認に行くのか決まらず、今日の漁の多さで決める事になった。
しかし、その話をしていた時、炬はちゃんと聞いておらずに欠伸をしていた。
「げ……そんな事になってんのかよ」
トトイの話を聞いて、炬は嫌な顔をした。
妹と二人暮らしなので、余分に捕って腐らしてしまうのは魚に申し訳ない。
炬は漁の続きをしようとはしなかった。
「良いのか? お前にもしもの事があったら、トモちゃん一人になっちまうぞ」
「あー、それは確かに嫌だけど……ま、大丈夫だろ」
楽観的な幼馴染に、トトイは呆れながら自分の漁に戻っていった。
トモを一人にする訳にはいかない。
だが、森から落ち着くような、懐かしいような感じがしていた。
むしろ炬は、森の中を見に行ってみたいと思っていた。
「え! 森に様子を見に行く!?」
「あぁ」
「どうしてお兄ちゃんなのよ!?」
「いつかは誰かが確認しなきゃいけないんだ。それならもしも何かあった時でも、機敏に動ける若い奴の方が良いだろう。俺はこの村の中で狩りに一番長けてる。俺が行くのが道理だろ?」
夕飯の途中で森に行く事をトモに告げた。
漁の勝負にわざと負けた事は言わないでおく。
もっともらしい理由を言いながら、ズルズルと味噌汁を飲み干す。
「……帰ってくるよね?」
「当り前だろ。お前残して死んだら、父さんと母さんに怒られるだろうが」
「約束だよ?」
「俺が約束破った事あったか?」
「今日、大物捕ってきてくれなかった」
「それは約束してないからな」
トモは兄に心配かけないようにそんな冗談を言って、炬もそれに応えるように返す。
夕飯を食べ終わると、炬は狩用の短剣を持って家を出た。
すると村人たちが松明を持って炬の家の前いた。やはり皆も心配で見送りにきたようだ。
炬は、村のはずれにある森の入り口で振り返り、ニッと笑った。
「直ぐに帰ってくるさ」
いつものように手を振って、彼は暗い森の中に入って行った。




