第九十七話 選べない想い
数日後、仁は、改めて桜子の前に立った。
「決めました」
その一言に、桜子は、覚悟を決めて頷いた。
「聞かせてください」
「帰ります。日本へ」
予感していたはずの言葉だったが、それでも、桜子の胸は、鈍く痛んだ。
「理由を、聞いてもいいですか」
「あなたと話して、分かったことがあります」
静かに、語り始める。
「私がここに残りたい理由は、あなたです。それは、紛れもない本心です。でも、日本に帰りたい理由は、家族です。何も言わずに消えた自分を、ずっと悔やんできました」
「……それは」
「天秤にかけるようなものじゃないと、気づいたんです」
まっすぐ、桜子を見た。
「あなたへの想いが軽いから、帰るわけじゃない。家族への悔いを抱えたまま、ここで幸せになることが、私にはできそうにないんです」
その言葉に、桜子は、静かに涙をこぼした。
「分かりました」
「サクラコ殿」
「悲しいです。本当に、悲しい」
桜子は、涙を拭いながら、まっすぐ仁を見た。
「でも、仁さんの気持ちも、ちゃんと分かります。私だって、同じ立場なら、確かめずにはいられない」
「一緒には、来てくれないんですね」
仁が、静かに尋ねた。
「はい」
桜子は、きっぱりと答えた。
「私、ここに居場所を見つけたんです。はぐれ者だった私を、必要としてくれる人たちがいる。それを、手放したくありません」
「それが、あなたの答えですか」
「はい」
桜子は、深く息を吸った。
「仁さんがいなくなっても、私は、ここで生きていきます。寂しいけど、それが、私の選んだ道だから」
安堵と哀しみが、仁の目に同時に浮かんだ。
「あなたらしい、答えですね」
「仁さんも、仁さんらしい選択をしてください」
桜子は、小さく微笑んだ。
「家族に会って、ちゃんと謝ってください。そして、できることなら、幸せに生きてください」
「サクラコ殿にも、幸せになってほしい」
「なります」
桜子は、きっぱりと言った。
「一人でも、ちゃんと」
二人は、しばらく、無言で見つめ合っていた。
別れは、まだ確定していない。けれど、その輪郭は、もう、はっきりと見え始めていた。
「最後まで、桜子先生として、傍にいてくれますか」
仁が、そう尋ねた。
「もちろんです」
桜子は、涙を拭いながら、精一杯の笑顔を浮かべた。
「出発の日まで、ちゃんと、見届けます」
窓の外には、穏やかな午後の光が、静かに差し込んでいた。
選べない想いを抱えたまま、二人は、それぞれの答えに向かって、歩き始めていた。




