第九十六話 すがりたくても
あの夜から、数日が過ぎた。
仁との間に、以前のような自然な会話が戻ってこなかった。
「おはようございます」
「おはようございます」
挨拶を交わすだけの朝が続いた。
桜子は、自分の中にある感情を、うまく言葉にできずにいた。
◇
「桜子先生、最近、元気ないですね」
診察の合間、セレネ付きの侍女が、心配そうに声をかけてきた。
「そう、見えますか」
「はい。レイモンド先生のことですか」
その問いに、桜子は、思わず苦笑した。
「噂、広まるの早いですね」
「お二人のこと、皆、気にかけてますから」
侍女は、優しくそう言うと、静かに去っていった。
桜子は、一人になった部屋で、小さく息を吐いた。
◇
その夜、桜子は、もう一度、仁の部屋を訪ねた。
「仁さん」
「サクラコ殿」
「ちゃんと、話したいです」
桜子は、まっすぐそう告げた。
「あの夜は、中途半端なままでした」
静かに頷き、仁が椅子を勧めた。
「仁さんの気持ち、分かったつもりでいました。でも、本当に分かってたのか、自信がなくて」
「サクラコ殿」
「最後まで、聞いてください」
桜子は、一度深呼吸をした。
「行かないでって、言いたいんです。本当は」
その一言に、仁の表情が、わずかに動いた。
「でも、それを言うのは、違う気がして」
「違う、とは」
「仁さんが、何十年も抱えてきた想いを、私のわがままで押し込めるのは、嫌なんです」
桜子は、膝の上で、手を強く握った。
「家族のことを、確かめたいっていう気持ち、分かります。もし私が同じ立場だったら、きっと同じように思う」
「サクラコ殿……」
「だから、見苦しく、すがったりはしません」
その声は、少し震えていたが、芯の通った強さがあった。
「でも、寂しいとは、思っていいですよね。それくらいは、許してもらえますか」
仁の口から、すぐには言葉が出なかった。
「もちろんです。寂しいと思うことを、許すも許さないも、ありません」
「よかった」
桜子は、小さく笑った。笑顔の端に、涙が滲んでいた。
「仁さんは、本当に、帰ると決めたんですか」
「まだ、完全には」
正直に、答える。
「あなたと話して、余計に迷っています」
「迷ってる、んですか」
「はい。帰りたい気持ちは、本物です。でも、ここを離れることも、サクラコ殿と離れることも、簡単には決められない」
その言葉に、桜子は、少しだけ救われた気がした。
「迷っていいと思います。簡単に決められることじゃ、ないですから」
「ありがとう、ございます」
仁は、深く頭を下げた。
二人の間に、先日とは違う、穏やかな沈黙が流れた。
答えは、まだ出ていない。
それでも、互いの気持ちを、ようやくきちんと分かち合えた気がした。




