第九十三話 もう一つの秘密
その知らせが届いたのは、穏やかな午後のことだった。
「パウラから、文が」
シリルが、息を切らせて執務室へ駆け込んできた。
「送還術、ついに、人を対象にできる段階まで来たそうです」
その場にいた者たちの間に、ざわめきが広がった。
「本当か」
江理の体が、卓の上に乗り出した。
「はい。まだ確実とは言えないそうですが、物を送る実験は、何度も成功を重ねてきたと」
「すごいじゃないですか」
アイリスが、目を輝かせる。
「江理さんが作った法律のおかげで、こうして技術も育ってるんですね」
「大袈裟だよ」
そう返しながらも、江理の胸には、確かな感慨があった。
あの法律は、召喚を縛るためだけのものではなかった。
安全な召喚、そして、安全な帰還。その両方を、少しずつ形にしてきたのだと、改めて実感した。
資料を整理する手を、レイモンドが止める。
その様子に、桜子は気づいた。
いつもなら、こうした話題には冷静に反応する人だった。それなのに、今は、顔から血の気が引いているように見えた。
「レイモンド先生?」
「……ああ、失礼」
小さく、咳払いをする。
「良い知らせだと思います。誰かが、帰れる道が開けるのは」
その声は、どこか硬かった。
◇
その夜、桜子は、レイモンドの部屋を訪ねた。
「先生、さっきの話」
「何でしょう」
「何か、様子が変でした」
しばらく、何も返ってこなかった。
「お気になさらず」
「気になります」
まっすぐ、レイモンドを見る。
「私たち、想いを伝え合った仲じゃないですか。隠し事があるなら、聞かせてください」
その言葉に、レイモンドは、長い沈黙のあと、静かに口を開いた。
「サクラコ殿。一つ、お話ししなければならないことがあります」
「はい」
「私は……本当は、レイモンドという名前ではありません」
その一言に、桜子は、息を呑んだ。
「本名は、京野仁といいます。私も、あなたと同じ、日本から来た人間です」
「……え?」
桜子の口から、すぐには言葉が出てこなかった。
「ずっと、黙っていたんですか」
「はい。何十年も」
静かに、頷いた。
「召喚されたとき、既に『レイモンド』という名を与えられていました。亡くなった、ある方の名前です」
「亡くなった、方の」
「詳しい事情は、改めてお話しします。ただ、今日まで、誰にも本当のことを明かせないまま生きてきました」
その声には、長い年月の重みが滲んでいた。
何から聞けばいいのか、分からなくなる。
「どうして、今になって」
「送還術の話を聞いて」
ゆっくりと、息を吐く。
「私にも、帰る道が、本当にあるかもしれないと思ったんです」
その言葉に、桜子の胸が、ぎゅっと締め付けられた。
「帰りたい、んですか」
「分かりません。でも、考えずにはいられなくなりました」
桜子の目を、まっすぐ見た。
「あなたに、黙っていたくなかった。それだけは、伝えておきたくて」
「どうして、今まで誰にも」
「話す理由が、なかったんです」
静かに、答える。
「エイトにも、何十年も黙っていました。話したところで、誰かが得をするわけでもない。それに、異世界から来たと知られれば、どう扱われるか分からない。昔は、今よりずっと、その手の話が物騒でしたから」
その言葉に、桜子は、辺境伯領で起きたマイミの過去を思い出した。
この世界は、異世界人にとって、必ずしも安全な場所ではなかった。
「怖かった、んですね」
「そうかもしれません」
小さく笑う。自嘲めいた、乾いた笑みだった。
「気がつけば、『レイモンド』として生きることの方が、慣れてしまって」
「仁さん、とは」
桜子が、その名を呼んでみる。
レイモンドの目が、わずかに見開かれた。
「……久しぶりに、呼ばれました。その名で」
「違和感、ありますか」
「いえ」
首を振った。
「むしろ、懐かしいです。忘れかけていた自分を、思い出させてもらえた気がします」
その声には、どこか安堵の響きがあった。
それでも、桜子の胸の奥から湧き上がる不安は、どうにも飲み込みきれなかった。
「帰りたい、って気持ちは」
「まだ、自分でも分かりません」
正直に、そう答える。
「ただ、道があるかもしれないと知って、心が揺れているのは、事実です」
その言葉が、桜子には、これから訪れる何かの予兆のように感じられた。
窓の外では、夜がゆっくりと更けていく。
二人の間に、これまでとは違う種類の静けさが、横たわっていた。




