第九十二話 近づく二人
桜子が帝都ローズに来て、半月が過ぎた頃だった。
「サクラコ殿、この症状についてなのですが」
レイモンドが、資料を片手に、桜子の元を訪れる。
二人のやり取りは、最初は、ただの医師同士のものだった。
それが、少しずつ変わり始めたのは、いつ頃からだったか。
「サクラコ殿は、お疲れではありませんか」
夜遅く、資料を整理していた桜子に、レイモンドが声をかけた。
「大丈夫です。もう少しで、終わるので」
「無理はなさらぬように」
レイモンドが、そっと茶を差し出す。
「レイモンド先生、よく気がつきますね」
「職業柄、でしょうか」
その答えに、桜子は、少しだけ違う何かを感じた。
◇
ある日、後宮の庭で、二人は偶然顔を合わせた。
「サクラコ殿も、散歩を」
「はい。考え事をしたくて」
「ご一緒しても?」
「はい、ぜひ」
二人は、しばらく無言で、庭を歩いた。
「日本が、恋しくなることは?」
レイモンドが、ふと尋ねた。
「正直、あまり。むしろ、こちらの方が、息がしやすいです」
「レイモンド先生は、どうですか。故郷が、恋しくなったり」
「もう長く、ここで生きていますから。今さら、ですな」
さらりと返したその言葉に、桜子は、それ以上何も感じなかった。
「サクラコ殿と話していると、不思議と心が和みます」
その一言に、桜子の頬が少し熱くなった。
「私もです」
そう答えてから、桜子は自分の胸がいつもより速く打っていることに気づいた。
医師として尊敬している。それだけだと思っていた。
けれど、こうして二人で歩く時間を楽しみにしている自分がいる。
夕暮れの光が、庭の花々を淡く照らしていた。
それからも、二人が共に過ごす時間は少しずつ増えていった。
診療の合間に交わす短い会話。意見が食い違えば、互いに理由を説明し、納得するまで話し合った。夜更けまで仕事が続いた日は、どちらからともなく茶を淹れた。
気がつけば桜子は、一日の終わりにレイモンドと話す時間を待つようになっていた。
ある夜、月明かりの下で後宮の庭を歩きながら、桜子はふと思っていたことを口にした。
「私、ここでの暮らしに、すっかり馴染んでるんだなって。それが誰のおかげか考えたら」
少しだけ迷ってから、続ける。
「レイモンド先生の存在が、大きいなって思いました」
レイモンドの足が止まった。
「サクラコ殿。失礼を承知で伺います。その言葉は……どういう意味で受け取ればよろしいのでしょう」
桜子も立ち止まった。
ここまで言って、誤魔化す必要もない。
「好きです。レイモンド先生のこと」
レイモンドが息を呑んだ。
「私のような、年の離れた者をですか」
「年なんて関係ないです」
桜子はきっぱりと言った。
「一緒にいて落ち着ける。医者として尊敬できる。それに、気がついたら先生と話す時間を楽しみにしてる。それが私の答えです」
しばらく、レイモンドは何も言わなかった。
やがて、ためらうように手を伸ばし、桜子の手を取った。
「私も、同じ気持ちです」
触れた手が、わずかに震えていた。
いつも穏やかで、何があっても動じないように見える人が、自分の前では緊張している。
そのことが、桜子には少し嬉しかった。
けれど、レイモンドの表情に一瞬だけ影が差した。
「ただ、私は……」
「何か、ありますか」
レイモンドは何かを言いかけ、やがて首を振った。
「……いえ。今はただ、あなたの気持ちを嬉しく思います」
桜子はそれ以上聞かなかった。
握られた手を、今度は自分からそっと握り返した。
◇
二人の関係は、それから、ごく自然に、周りにも知られるようになっていった。
「サクラコ先生とレイモンド先生、最近、よく一緒にいらっしゃいますね」
侍女たちの間でも、そんな話が囁かれるようになった。
そんな噂を聞いても、桜子もレイモンドも、特に隠そうとはしなかった。
「私たちのこと、噂になってますね」
桜子がそう言うと、レイモンドは、穏やかに笑った。
「構いませんよ。隠すようなことでは、ありませんから」
夜ごと交わす言葉、互いを気遣う眼差し、そのすべてが、心が通い合っている何よりの証だった。
◇
その噂は、やがてピーコックにいる江理の耳にも届いた。
「桜子さんと、レイモンド先生が?」
手紙を読んでいた江理の口から、驚きの声が漏れた。
「おめでたい話じゃないですか」
隣で聞いていたアイリスが、嬉しそうに微笑む。
江理は、桜子の顔を思い浮かべた。
はぐれ者と呼ばれ、どこか諦めたような目をしていた桜子が、今は誰かと心を通わせている。
その変化が、江理には、自分のことのように嬉しかった。
「今度、帝都ローズに行ったら、冷やかしてこようかな」
「それは、サクラコさんに嫌がられそうです」
アイリスの一言に、江理は声を上げて笑った。
◇
桜子は、この穏やかな時間が、ずっと続くと信じていた。




