第九十話 頼られる医師
桜子がローズに来て、最初に任されたのは、サラの診察だった。
「お加減は、いかがですか」
桜子が穏やかに尋ねると、サラは少し緊張した面持ちで答えた。
「このところ、お腹の張りが気になって」
「少し、診せていただきますね」
桜子は、丁寧に触診を進めた。
「これは……」
「何か、問題が?」
「いいえ、心配いりません。普段より少し動かれる時間が多かったのでは?」
「……はい。最近、少し外を歩くようにしていて」
「それ自体は、良いことです。ただ、今の時期は、座って休む時間ももう少し増やした方がいいかもしれません」
桜子は、具体的な目安を、分かりやすく説明していった。
「ありがとうございます。江理先生たちにも、お世話になりましたが」
「江理さんから、よく話を伺っています。本当に、丁寧に診てこられたんですね」
「はい。だからこそ、安心していられました」
サラの表情が、穏やかに緩んだ。
「あの、もう一つ伺ってもいいですか」
「はい、何でも」
「産後、しばらくしても、体調が戻りきらないことがあると聞いたのですが」
「ありますね。無理に急がなくて大丈夫ですよ」
桜子は、具体的な体の変化や、注意すべき兆候を、一つずつ丁寧に説明した。
「もし気になる症状が出たら、遠慮なく呼んでください。小さなことでも構いません」
「分かりました。ありがとうございます、サクラコ先生」
サラは、初めてその呼び方で桜子を呼んだ。
その響きに、桜子は、少しくすぐったいような気持ちになった。
◇
別の日には、まだ年若い側妃の診察もあった。
「恥ずかしながら、こういうこと、誰にも相談できなくて」
俯きがちに話す側妃に、桜子は静かに頷いた。
「大丈夫ですよ。恥ずかしいことじゃありません」
「本当に、ですか」
「はい。体のことで悩むのは、当たり前のことです」
桜子は、時間をかけて話を聞き、丁寧に説明を重ねた。
「こんなに、ちゃんと聞いてもらえたの、初めてです」
その一言に、桜子の胸が、じんわりと温かくなった。
大病院にいた頃は、一人の患者にこれほど時間をかけることは、許されなかった。
ここでは、それができる。
それが、桜子にとって、何より嬉しいことだった。
◇
その後も、桜子は、後宮の女性たちを、一人ずつ丁寧に診ていった。
「月のものが、以前より重くて」
「産んでから、どうにも体調が優れなくて」
これまで、江理やマイミが聞き取ってきた悩みの数々に、桜子は専門医としての知見を加えていった。
「これは、こういう傾向のものですね。対処法は、いくつかあります」
的確な診断と、分かりやすい説明。
その評判は、瞬く間に後宮に広がっていった。
「サクラコ先生に診ていただくと、本当に安心する」
「悩みを、ちゃんと分かってくれる」
そんな声が、あちこちから聞こえるようになった。
◇
セレネも、桜子の診察を受けた一人だった。
「サクラコ殿。あなたの診立て、見事でした」
「恐縮です」
「これまで、婦人科系のことは、江理殿たちの善意に頼る形でした。専門の方に、きちんと診ていただけるのは、何よりありがたいことです」
セレネは、静かに続けた。
「できることなら、このままずっと、ここにいていただきたいくらいです」
その言葉に、桜子は、少し驚いた。
「そう言っていただけるのは、光栄です」
「お世辞ではありませんよ」
セレネの口調は、穏やかだったが、確かな本音が滲んでいた。
◇
夜、桜子は、自室でその日のことを振り返っていた。
大病院にいた頃、自分の診断が、ここまで誰かの安心に繋がった実感は、あまりなかった。
ここでは、一人ひとりの顔が見える。感謝の言葉も、まっすぐ届く。
それが、桜子には、何より新鮮だった。
「はぐれ者だった私が、こんなに必要とされるなんて」
誰に言うでもなく、そう呟く。
机の上には、その日診た患者たちの記録が、きちんと並んでいた。
一人ひとりの名前、症状、伝えた助言。大病院にいた頃は、書く時間すら惜しんでいたものだった。
ここでは、その一枚一枚に、確かな意味がある気がした。
記録をめくりながら、桜子は、ふと今日の側妃の言葉を思い出した。
「こんなに、ちゃんと聞いてもらえたの、初めてです」
その一言が、今も胸の中で、温かく響いていた。
窓の外には、ローズの夜景が、静かに広がっていた。
この場所に、自分の居場所ができつつあることを、桜子は、確かに感じ始めていた。




