第八十九話 はぐれ者の医師
召喚から数日、桜子は皇宮の一室で、少しずつこの世界に慣れ始めていた。
「驚きました。本当に、魔法で傷が治るんですね」
レイモンドの治療を見学しながら、桜子が感心したように呟く。
「うん。最初は、私もびっくりした」
懐かしそうに、江理が笑った。
「でも、根本は一緒だよ。原因を見極めて、適切に対処する。それだけ」
「それだけ、って言えるのが、江理さんらしいですね」
桜子は、そう言って、小さく笑った。
◇
その夜、二人は、後宮の庭を見下ろすバルコニーで、茶を飲んでいた。
「桜子さんは、どうして産婦人科医に?」
江理がそう尋ねると、桜子は、しばらく夜空を見上げていた。
「実家が、医者の家系だったんです」
「お医者様の家系」
「父も、祖父も、医者。生まれたときから、医者になることが決まってるような家でした」
どこか諦めにも似た響きが、桜子の声にあった。
「決められた人生が、嫌だったんです。それでも、医者になること自体は、嫌いじゃなかった」
「それで、産婦人科を?」
「はい。人の役に立てる分野がいいと思って。女性の体って、まだまだ分かってないことが多くて、我慢させられてることも多い。そこに、意味を感じたんです」
その言葉に、江理は、聞き取りから鎮痛剤までの道のりを思い出した。
この人も、きっと、同じ場所に行き着いていたのだと。
「でも」
桜子は、少し間を置いてから続けた。
「配属された病院が、大きすぎたんです。優秀な医師がたくさんいて、皆、自分のやり方を持ってた」
「桜子さんは」
「私は、ちょっと、やり方が違ったみたいで」
苦笑する様子で、桜子が答えた。
「患者さんの話を、とことん聞きたいタイプだったんです。でも、大病院だと、一人にかけられる時間が限られてて。効率重視のやり方に、どうしても馴染めなかった」
「それで?」
「気づいたら、『はぐれ者』って呼ばれてました」
その響きに、自嘲めいたものが混じっていた。
「腕は認められてたんです。でも、浮いてた。輪に入れない、って感じで」
その言葉に、胸が締め付けられる。
「辛かった?」
「辛かったです。でも」
桜子は、夜空を見上げたまま、続けた。
「召喚されたとき、真っ先に思ったのが、『これで、あの場所に戻らなくていい』だったんです」
「それは」
「薄情だと思いますか」
「ううん」
首を振った。
「分かる気がする」
「江理さんも?」
「私は、日本に大切な人がいたから、少し違うかもしれないけど。それでも、ここに来て、新しい居場所ができたのは、本当だから」
少し驚いたような顔を、桜子がした。
「江理さんも、最初は、戸惑いましたか」
「うん、すごく」
笑った。
「でも、今は、ここにいる人たちが、私のことを必要としてくれてる。それが、嬉しいの」
桜子は、しばらく黙っていた。
それから、静かに呟いた。
「私も、そう思える場所を、見つけられるでしょうか」
「きっと、見つかるよ」
まっすぐ、桜子を見た。
「ここには、婦人科医を、ずっと待ってた人たちがいる。桜子さんの腕を、本当に必要としてる人たちが」
その言葉に、桜子の目に、かすかな光が宿った。
「頑張って、みます」
「うん。一緒に頑張ろう」
夜空の下、二人は、しばらく無言で星を眺めていた。
新しい医師の物語が、静かに始まろうとしていた。




