第八十八話 呼ばれた医師
召喚の日、皇宮の一室には、緊張した空気が満ちていた。
「準備は、整いました」
パウラが、床に描かれた魔法陣を見下ろしながら言った。
複雑に入り組んだ文様が、淡い光を帯びている。
「条件は、絞り込んだ通り。産婦人科の専門知識を持ち、今の環境を変えたいと強く願っている人物」
「強く願っている、って条件、大事なの?」
江理が尋ねると、パウラは頷いた。
「召喚は、向こう側の意思とも、少し繋がるものだから。全く望んでいない人を呼ぶより、何かを求めてる人の方が、繋がりやすい」
その言葉に、江理は、自分が呼ばれたときのことを思い出した。
あのとき、果たして自分は、何を求めていたのだろう。
◇
「始めます」
パウラが、両手を魔法陣の中心にかざした。
シリルも、横でその補助に回る。
光が、ゆっくりと強さを増していく。
『かみさま、てつだう!』
ノアとピコが、光の中に飛び込んでいった。
二人の光が、パウラの魔法陣と溶け合うように混ざり合う。
光は、やがて人の形を取り始めた。
「来る……!」
シリルが、緊張した声で叫んだ。
まばゆい光が、部屋いっぱいに広がり、そして、ふっと収まった。
光の消えた場所には、一人の女性が、呆然と立ち尽くしていた。
三十代後半ほどだろうか、白衣に似た服を身にまとい、戸惑った表情で周囲を見回している。
「……ここ、どこですか」
震える声が、静寂を破った。
「大丈夫ですか」
江理は、すぐに駆け寄った。
「私、江理といいます。あなたと同じ、日本から来た人間です」
「日本人……?」
女性の目に、驚きと、わずかな安堵が浮かんだ。
「私は、桜子といいます。産婦人科医です」
その自己紹介に、江理は小さく笑った。
「よかった。本当に、専門の先生が来てくれた」
「どういう、状況なんですか」
桜子は、まだ混乱した様子だった。
「突然、目の前が光って、気づいたら」
「順番に説明します。驚かせてしまって、ごめんなさい」
江理は、できるだけ落ち着いた声で続けた。
「ここは、異世界です。私も、数年前に、同じように呼ばれました」
「異世界……」
桜子は、しばらく、その言葉を噛みしめるように黙っていた。
それから、意外にも、乾いた声で続けた。
「そう、ですか。異世界」
「驚かないんですか」
「驚いてます。でも」
桜子は、周りを見回しながら、ゆっくりと息を吐いた。
「正直、どこでもいいから、あの病院から離れたいって、ずっと思ってたので」
その言葉に、江理は、何かを感じ取った。
この人にも、きっと、ここに来るだけの理由があったのだろう。
「ゆっくりで大丈夫です。少しずつ、説明していきますね」
「お願いします」
桜子は、そう言うと、初めて小さく微笑んだ。
その笑顔には、疲れの色と、わずかな期待が、同時に滲んでいた。




