第八十四話 静かな時間
あの夜から、少しずつ、時間が動き始めていた。
まだ、以前のようには笑えない。それでも、食事を一口でも多く口にできるようになり、窓の外を見る時間も、少しずつ増えていた。
「エリー様、お加減は」
アメリアが、静かに尋ねる。
「少しずつ、いいです」
その答えに、嘘はなかった。
◇
机の引き出しにしまったままだった、アイリスからの手紙。
江理は、ある朝、ようやくそれを開く気になった。
便箋には、丁寧な字で、こう書かれていた。
「エリーさんのことを、ずっと考えています。無理に元気になってほしいとは思いません。ただ、庭は、エリーさんが戻ってくるのを待っています。いつでも、好きな時に来てください」
短い文章だった。
それでも、何度も読み返すうちに、江理の目から、静かに涙がこぼれた。
悲しみの涙ではなかった。
ただ、自分を待っていてくれる場所があることが、今は何より、心に染みた。
◇
数日後、江理はオジーと共に、ピーコック村を訪れた。
「大丈夫か」
「うん。少し、庭が見たくて」
馬車を降りると、アイリスが真っ先に駆け寄ってきた。
「エリーさん」
その声には、気遣いと、確かな喜びが混じっていた。
「来てくれて、嬉しいです」
「手紙、ありがとう。何度も読んだ」
「よかった」
アイリスは、江理の手を取ると、薬草園の方へ案内した。
そこには、以前よりも、少しだけ緑が増えていた。
「あれから、少しずつ増やしてます」
カモミールの白い花、ルイボスの苗、そしてジャスミンの木。
まだ小さな庭だったが、確かに形を帯び始めていた。
「綺麗……」
江理は、しばらくその場に立ち尽くした。
「まだまだ、これからです」
アイリスが、嬉しそうに言う。
「エリーさんが、戻ってくるまでにって、少しずつ進めてました」
「私のために?」
「それだけじゃないです。でも、エリーさんのためにも、頑張りました」
その言葉に、江理は胸が温かくなった。
◇
庭の隅にある、小さなベンチに腰掛ける。
「少し、座っててもいい?」
「もちろんです」
アイリスは、そう言うと、少し離れた場所で水やりを続けた。
江理は、庭を眺めながら、ゆっくりと息を吸った。
花の香り、土の匂い、風の音。
何も求められない、ただそこにいるだけの時間。
それが、今の江理には、何よりの薬だった。
しばらくして、オジーが隣に腰を下ろした。
「どうだ」
「……いい時間」
「そうか」
二人は、しばらく無言で、庭を眺めていた。
まだ、完全に癒えたわけではない。
それでも、静かに流れていくこの時間が、少しずつ、江理の中の何かを修復していくようだった。
風が、ジャスミンの香りを運んでくる。
その香りに、江理は、小さく微笑んだ。




