第八十二話 それから
どれくらい時間が経ったのか、江理には分からなかった。
目を開けると、寝台の上だった。
体の奥に、鈍い痛みが残っている。
そして、もう一つ。
さっきまで感じていたはずの、あの気配が、どこにもなかった。
「……江理殿」
エイトの声が、静かに聞こえた。
江理は、ゆっくりと目を向けた。
エイトの表情は、いつも通り穏やかだった。その奥に、何かを堪えているのが見てとれた。
「お伝えしなければなりません」
「……はい」
「子は、助かりませんでした」
その一言が、部屋の空気を、静かに止めた。
江理は、しばらく、言葉の意味を理解できなかった。
理解した瞬間、何かが、胸の奥で崩れ落ちる音がした。
「……そう、ですか」
声が、自分のものとは思えないほど、平坦だった。
「申し訳ありません」
江理の手を握ったまま、マイミが俯く。
「全力を尽くしましたが」
「分かってます」
江理は、そう答えた。
医者として、何度も伝えてきた言葉だった。全力を尽くしても、助けられない命がある。
それを、今度は、自分が言われる側になった。
実感が、まだ追いついてこなかった。
◇
部屋の外で待っていたオジーに、エイトが結果を伝えた。
江理には、その様子を見ることはできなかった。けれど、扉越しに、何かが崩れ落ちるような、低い声が聞こえた。
しばらくして、扉が開き、オジーが入ってきた。
顔は青白く、目が赤くなっている。
「江理」
「……ごめん」
江理は、それだけを口にした。
「なんで、江理が謝るんだ」
震える声で、オジーが言う。
「謝ることじゃない」
「でも」
「江理のせいじゃない。誰のせいでもない」
江理の手を、オジーがそっと取った。
「分かってる。頭では、分かってる」
江理は、天井を見つめたまま、静かに続けた。
「でも、何か、違うやり方があったんじゃないかって、考えちゃう」
もっと早く休んでいれば。
もっと早く、誰かに本音を話していれば。
もっと、自分を大事にできていれば。
無数の「もし」が、頭の中を巡っていた。
何も、オジーは言わなかった。
ただ、江理の手を、強く握り続けた。
その沈黙が、言葉よりも雄弁に、江理のそばにいることを伝えていた。
◇
夜が更けても、江理の涙は止まらなかった。
声を上げることも、取り乱すこともなく、ただ静かに、涙だけがこぼれ落ちていった。
何かを失った、という事実だけが、重く、確かに、そこにあった。




