第七十九話 誰もいない部屋で
数日後、江理はシアンへ戻った。
「おかえりなさい」
出迎えてくれたアメリアの笑顔に、江理も笑顔で応えた。
「ただいま」
けれど、部屋に一人になった瞬間、その明るさが、すっと引いていくのを感じた。
ピーコック村では、村人たちと話し、マイミの力を目の当たりにして、アイリスと新しい庭の構想まで立てた。確かに、元気を取り戻していたはずだった。
それなのに、シアンに戻った途端、また同じ場所に、体ごと引き戻されるような感覚があった。
診療所もない。公務もない。
目の前には、また、何もない一日が広がっている。
――庭の話だって、結局、手を動かすのはアイリスだ。
自分は、思いついただけ。形にするのは、いつも誰か他の人。
そんな考えが、ふと頭をよぎった。
◇
「エリー様、お茶をお持ちしました」
アメリアが、丁寧にそう声をかける。
「ありがとう」
江理は、いつもの声で応えた。
アメリアが部屋を出ていくと、また静けさだけが残った。
窓の外を見る。城下の通りには、相変わらず忙しそうに行き交う人々の姿があった。
その中に、自分の居場所はない。
何度も感じてきたはずの感覚が、今日はいつもより重く、江理の胸にのしかかった。
◇
夕方、オジーが公務から戻ってきた。
「今日は、どうだった」
「大丈夫。いつも通り」
いつもの答えを、いつもの調子で返す。
「そうか」
オジーは、少し江理の顔を見つめてから、公務の続きがあると言って、また部屋を出ていった。
江理は、一人になった部屋で、しばらく動けずにいた。
◇
夜、寝台に横になっても、眠気はやってこなかった。
江理は、そっと寝室を出て、誰もいない居間に座った。
静かな部屋の中、一人になると、昼間抑え込んでいたものが、少しずつにじみ出てくるのが分かった。
――王太子妃なのに。
休ませてもらっているのに。
皆、優しくしてくれているのに。
それなのに、どうして、こんなに苦しいんだろう。
誰かに当たるつもりはない。物に当たるつもりも、ない。
それでも、込み上げてくるものは、止まらなかった。
「……ごめんなさい」
声が、震えた。
「申し訳ない、です」
誰に向けた言葉なのか、自分でもはっきりしなかった。
オジーに。
この国に。
期待してくれている、すべての人に。
声を押し殺しながら、江理は一人、涙を流し続けた。
何も壊していない。誰にもぶつけていない。
ただ、静かに、泣くことしかできなかった。
その時、体の奥に、鈍い違和感が走った。
「……え?」
とっさに、自分の体に手をやる。
何かが、おかしい。
医者としての勘が、静かに警鐘を鳴らす。
けれど、体を起こそうとした瞬間、強い目眩が、江理を襲った。




