第七十八話 アイリスの庭園
オジーがピーコック村に顔を出したのは、数日後のことだった。
「元気そうだな」
「うん、少しね」
江理は、素直にそう答えた。
アイリスと話したことで、気持ちは以前より軽くなっていた。けれど、まだ何かが、胸の奥に残ったままだった。
◇
その夜、村はずれの小さな東屋で、二人は並んで座っていた。
「オジー」
「うん?」
「私、最近、変なこと考えるの」
「どんな?」
江理は、少し迷ってから続けた。
「王族と庶民って、やっぱり違うんだなって」
こちらを見る気配が、オジーからした。
「普通の妊婦さんは、普通に働いてる。無理しない範囲で、畑に出たり、店番したり。でも私は、王太子妃だからって、全部取り上げられた」
「江理」
「悪いのは誰でもないって、分かってる。みんな、私のことを思ってくれてるのも」
江理は、膝の上で手を握った。
「それでも、自分だけ、違う世界に来てしまったみたいな気がして」
しばらく、何も返ってこなかった。
「そんなことはない」
やがて、はっきりとした声で言った。
「身分が違っても、江理が江理であることは変わらない」
「でも」
「俺たちは、生まれた場所も立場も違う。それは、否定しない」
江理の手に、そっと自分の手を重ねる。
「でも、みんなの暮らしを良くしたいって思う気持ちは、江理も俺も、変わらないと思う」
その言葉に、江理は顔を上げた。
「……うん」
「江理が王太子妃になったからって、その気持ちまで取り上げられたわけじゃない。ただ、動き方を、少し変えればいいだけだ」
その言葉が、江理の中に、静かに染み込んでいった。
◇
翌朝、江理はアイリスの薬草園を再び訪れた。
「エリーさん、おはようございます」
「おはよう。昨日、考えたことがあるんだけど」
「何ですか?」
「このお茶の薬草園、もっと大きくできないかな」
江理は、思いついたことを、順番に話し始めた。
「庭を眺めながら、お茶を飲める場所。身分に関係なく、誰でも入れる喫茶店」
「それ……」
目を、アイリスが輝かせる。
「素敵です。でも、庭師を呼んだり、場所を整えたりするのは、大変そうですね」
「最初から、立派にしなくていいと思う」
江理は、続けた。
「少しずつでいい。まずは、この薬草園を広げるところから」
「少しずつ、ですか」
「うん。庭師さんも、一人からで十分。育てながら、形にしていけばいい」
しばらく考えてから、アイリスが頷いた。
「やってみます。エリーさんも、一緒に考えてくれますか」
「もちろん」
江理は、久しぶりに、自分の中で何かが動き出す感覚を覚えた。
診療所には戻れない。公務にも出られない。
それでも、こうして何かを育てることなら、今の自分にもできる。
「名前、どうする?」
「名前?」
「この庭の」
江理がそう言うと、アイリスは少し照れたように笑った。
「エリーさんが、決めてください」
「じゃあ」
江理は、少し考えてから答えた。
「『アイリス』は、どうかな。あなたが育てた庭だから」
「私の名前を?」
「うん。だめ?」
「……いえ」
じんわりと、アイリスの目に涙が浮かぶ。
「嬉しいです」
二人は、まだ何もない土の広がる薬草園を、しばらく見つめていた。
そこに、いつか咲くはずの庭を、二人とも思い描いていた。




