第七話 医者の手
朝、身支度をしていると、枕元の光がいつもよりせわしなく瞬いた。
『大変、大変』
「ノア? どうしたの、そんなに慌てて」
『昨日の夜、他の子たちに見つかっちゃった。エリーとお話ししてるの』
「見つかったって……それ、まずいの?」
『すごく羨ましがられた。わたしだけずるいって』
ノアは心底困った様子で、光を小刻みに揺らしている。
「秘密にしてるんじゃなかったの?」
『わたしたちの間だけの話。人間には言わないから大丈夫』
どうやら妖精同士の噂話までは、イアンの言いつけの及ぶ範囲外らしい。江理は思わず笑ってしまった。
『とにかく、しばらくはこっそり会いに来るから。みんなに見つからないように』
そう言って、光は名残惜しそうに窓の外へ溶けていった。
朝食のあと、江理はアイリスと連れ立って村の外れの薬草園へ向かった。
「今日はここの葉を採りましょう。熱を下げるのに使えるので」
アイリスに教わりながら、葉の見分け方を一つずつ覚えていく。似たような形の草でも、香りや裏側の産毛の有無で効能がまるで違うのだと知り、江理は素直に驚いた。
昼過ぎには診療所に戻り、二人で棚の中身を整理する。採ってきた薬草を種類ごとに束ね、乾燥中のものと使えるものとを分けていく、地道な作業だった。
「こうやって並べると、それっぽく見えてきましたね」
「うん、だいぶ診療所らしくなってきた」
そんな穏やかな会話を交わしていた矢先、外から荒い足音と怒鳴るような声が近づいてきた。
「先生! 先生はいるか!」
戸を蹴破るような勢いで飛び込んできたのは、村の若者だった。抱えられているのは、腕から血を流した少年だ。木から落ちた際に、折れた枝で腕を深く裂いたのだという。
「そこの台に寝かせて」
江理の声色が、一瞬で変わった。
傷口を確認する。出血の量、深さ、骨まで達しているかどうか。頭の中で瞬時に優先順位が組み上がっていく。
「アイリス、清潔な布と、一番強い酒。それから、痛み止めになる薬草はある?」
「はい、痺れ草なら……!」
アイリスが棚から取り出したのは、以前教わった、痛みを鈍らせる効能を持つという葉だった。すり潰して傷の周りに塗ると、しばらくして感覚が鈍くなるのだという。
完全に痛みを消せるわけではない。それでも、何もないよりはずっといい。
「少年、これから傷を縫うよ。痛いのは最初だけだから、我慢できる?」
青ざめた顔で頷く少年に、江理は布を嚙ませ、手を強く握らせた。
薬草を塗った箇所に強い酒をかけて消毒し、止血をしながら傷口を洗浄する。針も糸も現代のものとは違うが、手技そのものは体に染み付いている。落ち着いた声で少年に話しかけながら、迷いのない手つきで傷を縫い合わせていった。
周りで見ていた村人たちが、いつの間にか固唾を呑んで見守っている。
「よし、これでもう大丈夫。骨には達してない。数日安静にしていれば、腕も元通り動くよ」
少年の顔から強張りが抜け、付き添いの若者が何度も頭を下げた。
「先生、すごい……こんな、あっという間に」
村人の一人がぽつりと漏らした声に、江理は自分でも意識していなかった緊張が、今さらどっと押し寄せてくるのを感じた。
それでも、傷を診るその瞬間だけは、迷いも不安もなかった。
これだけは、自分にできること。
アイリスが横で、目を輝かせながら江理を見ていた。
「エリーさん、本当にすごいです……」
「これは、専門だから」
照れくさそうに答える江理の頬に、久しぶりに医者としての確かな手応えが戻っていた。
ひと息ついたところで、ようやく余裕が出てきた江理は、少年に向き直った。
「そういえば、名前、まだ聞いてなかったね」
「……トビアスです」
緊張が抜けきらない声で、少年が答える。
「トビアスね。しばらく腕を大事にして。傷が塞がるまで、無理はしないで」
頷く少年を見送りながら、江理はふと思い立った。
「アイリス、今日みたいなこと、記録に残しておいた方がいいかも」
「記録、ですか?」
「誰が、いつ、どんな怪我や病気で、どう治療したか。書き留めておけば、次に似たようなことがあったとき、役に立つと思う」
病院ではカルテとして当たり前にやっていたことだったが、この村ではまだ誰もやっていない。
「いいですね、それ。私が書き方、考えてみます」
アイリスが早速、紙と炭の欠片を手に取り、今日の出来事を書き留め始めた。
「トビアス、腕の裂傷、縫合……これでいいですか?」
「うん、それで大丈夫。あとは経過も、また診たときに書き足していこう」
簡素な帳面が、少しずつ診療所の記憶を積み重ねていく。
それは、この村に根を張っていくための、小さいけれど確かな一歩のように思えた。




