第六話 四人の食卓
この家に来て、何日が経っただろう。
毎晩アイリスと差し向かいで食べていた夕食だったが、その日は勝手が違った。
「今夜は、父も交えて四人で食べないかって。ハンナも一緒に」
アイリスにそう告げられたのは、診療所にする予定のアトリエを外から眺めていた昼下がりのことだった。
「ハンナさん?」
「うちの家事を手伝ってくれてる人です。会うの、初めてでしたっけ」
言われてみれば、朝晩の食事や洗濯物は誰かが整えてくれていたが、その姿をきちんと見た覚えがなかった。台所の奥で立ち働く気配だけを感じていたような気がする。
夕刻、広間の食卓には、いつもより一品多い料理が並んでいた。
イアンの隣に座ったのは、四十絡みの、落ち着いた雰囲気の女性だった。
「初めまして。ハンナと申します。至らないところもあるかと思いますが」
深々と頭を下げるその所作には、使用人というより、長くこの家を支えてきた者の落ち着きがあった。
「前村江理です。こちらこそ、お世話になってます」
席に着くと、イアンが上機嫌に杯を掲げた。
「今日はせっかくだから、四人でゆっくり食べよう。堅苦しいのは抜きにして」
その言葉通り、食卓は思いのほか和やかだった。ハンナが取り分けてくれる料理は、味付けも手際も、家庭の食卓そのものだった。
談笑の合間、ふとイアンがナイフとフォークを置く手を止めて言った。
「そういえば、シリル殿から先日、便りが届いてね」
「シリルさんから?」
江理もフォークを置いた。あの召喚士とは、あの日以来会っていない。
「王国の仕事の合間に、また村へ顔を出したいそうだ。月に一度くらいのペースで、な」
「王国の方は、それでよろしいんですか」
江理が尋ねると、イアンは少し声を落として笑った。
「表向きはね。内緒で、ちょっとした小遣い稼ぎがてら、というところだろう。あの人も、律儀なところがあるから」
アイリスが横から口を挟む。
「シリルさん、意外と気にしてるみたいですよ。エリーさんのこと」
「私の?」
「本来呼ぶはずだった人じゃなかった、って件、ずっと引っかかってるみたいで」
その話題に、食卓の空気が少しだけ静かになった。けれど、暗くなる前に、ハンナがさりげなく話を変えた。
「それより、明日はアトリエの片付けをなさるんですよね。何か手伝えることがあれば」
「あ、はい。棚の整理とか、まだこれからで……」
自然な流れで話が切り替わったところで、アイリスがふと思い出したように口を挟んだ。
「あ、そういえばお父様。エリーさん、妖精が見えるみたいですよ」
「なんだって?」
イアンがナイフとフォークを止め、目を丸くした。
「本当か、それは」
「はい。あの、声も聞こえるみたいで……」
江理が戸惑いながら答えると、イアンは驚きを隠しきれない様子で身を乗り出した。
「そうか、そうか。いやしかし、それは大したものだ」
嬉しそうに何度も頷いていたイアンだったが、ふいにその表情が曇った。
「……いや、待て」
「お父様?」
「見える者は、王宮が放っておかない。エリー殿を村に迎えて間もないのに、王宮に召し上げられてしまっては、村としても困る」
その言葉に、和やかだった食卓が、少しだけ緊張を帯びた。
「この話は、外では決してしないように。村の者にも、シリル殿にも」
イアンは真剣な顔で、アイリスとハンナを順に見た。
「うちの家族の中だけの話にしておこう。エリー殿を守るためにも」
「……はい」
アイリスとハンナが揃って頷くのを見て、江理は胸の奥が温かくなるのを感じた。
誰かに大事にされている。まだこの世界に来て日も浅いのに、そう思わせてくれる人たちが、目の前にいる。
食事が進む中、江理はふと気づいた。イアンがハンナに料理を取り分けてもらうとき、いつもより少しだけ目元が緩んでいる気がする。ハンナの方も、イアンの杯が空くたびに、聞かれる前から酒を注ぎ足していた。
二人の間にある空気を、うまく言葉にはできなかったが、なんとなく、家族というものの温度に近い何かを感じた。
窓の外はすっかり暗くなっていたが、蝋燭の灯りに囲まれた食卓は、これまでで一番、居心地が良かった。
夕食の片付けが終わり、部屋に戻った江理は、寝支度をしながらぼんやりと今夜のことを思い返していた。
枕元の灯りが、ふっと揺れる。
『さっきの話、聞こえてたよ』
ノアの声だった。
「聞いてたの、あの話」
『うん。村長さん、いい人だね。あなたのこと、ちゃんと考えてくれてる』
「……そうだね」
江理は少し照れくさくなって、布団に潜り込んだ。
『でも、安心して。わたしたちも、あなたのこと、王宮になんて教えないから』
「え?」
『だって、あなたが王宮に行っちゃったら、わたし、つまらないもの』
悪びれもせず言い切るその声に、江理は思わず笑ってしまった。
「ノアも、秘密を守ってくれるんだ」
『もちろん。わたしたちの女王様のことだもの』
軽い調子でそう言うと、光はくるりと一回転して、いつものように部屋の隅へと薄れていった。
一人になった部屋で、江理はもう一度、今日一日のことを胸の中で数え上げた。
ハンナという新しい家族。イアンの気遣い。アイリスの信頼。そしてノアの、気ままだけれど確かな味方の言葉。
増えていくものの多さに、江理は少しだけ、目頭が熱くなった。




