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異世界転移した女医ですが、帰りたいのは元の世界だけではなくなりました ~辺境の村から始まる異世界診療記~  作者: 滝内亜依
第1章 辺境の村ピーコックで、初めての医者になっちゃった。

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第五話 診療所のはじまり

 翌朝、江理が診療できる場所について相談すると、アイリスは「ちょうどいい場所があります」と言った。

 案内されたのは、村はずれにある古いアトリエだった。

 石造りの小さな建物で、大きな窓から光がよく入る。もとは亡き先代の趣味の工房だったらしく、壁際には使われなくなった織機や、色の抜けた絵筆が無造作に立てかけられていた。

「父の、というより、祖父の代のものらしいです。もう何年も物置みたいになってて」

 アイリスがそう言いながら、埃を被った作業台の上を布で拭う。

 二人で棚を動かし、床を掃き、使えそうな家具を選り分けていく作業は、思っていたよりずっと骨が折れた。それでも、何もない部屋が少しずつ「診療所らしく」形を変えていくのを見るのは、不思議と楽しかった。

「ここに診察用の台を置いて、こっちの棚には薬草を」

「じゃあ、こっちの窓際は、包帯とか布を干す場所にしましょうか」

 二人であれこれ言いながら配置を決めていく。江理の現代医療の知識と、アイリスの薬草の知識が、自然と噛み合っていくのが分かった。

 一段落したところで、アイリスがふと手を止めた。

「そういえば、看板、どうします?」

「看板?」

「これだと、診療所だって分からないと思うので」

 言われてみればその通りだった。入口の扉には、何の印もない。

「村の人に分かりやすい名前がいいですよね。……『エリー先生の診療所』とか」

「それは、さすがに恥ずかしいような」

 江理が苦笑すると、アイリスもくすくす笑いながら別の案を出す。

「じゃあ、『ピーコック診療所』は? 村の名前をそのまま使う感じで」

「それなら、私も気恥ずかしくないかも」

 二人で顔を見合わせて頷き、その場で決まった。

 次に話し合ったのは、診療費のことだった。

「これ、結構大事な話だと思うんですけど」

 アイリスが真面目な顔で切り出した。

「村には、あまりお金を持ってない人も多いので。高くすると、来られなくなる人が出てしまいます」

「そうだよね……。でも、無料にするのも、続けていくのは難しいと思う」

 江理は医者として働いていた頃を思い出しながら、考えを巡らせた。

「診察は、できる範囲で決まった額をいただく。でも、お金がない人は、野菜や卵とか、家にあるもので払ってもらう形はどう?」

「物々交換みたいな?」

「うん。村の人にとっても、負担が少ないと思うし」

 アイリスは少し驚いた顔をしてから、嬉しそうに頷いた。

「いいと思います。それに、そういう診療所の方が、村の人も気軽に来やすいですし」

 二人で相談しながら決めた診療費の目安を、アイリスが紙にまとめていく。

 窓の外は、いつの間にか夕暮れに近づいていた。まだ患者の一人も来ていないのに、この部屋にはもう、確かに何かが始まっている気配があった。

「明日、『ピーコック診療所』の看板、作りましょうか」

「うん。楽しみだね」

 江理は素直にそう思っている自分に、少し驚いていた。

 看板を立てて数日、思っていたより早く、最初の患者が訪れた。

 畑仕事の途中で足首をひねったという中年の男性だった。腫れと熱感を確認し、湿布代わりの布を巻き、しばらく安静にするよう伝える。ここまでは、勝手知ったる範囲だった。

 問題は、その次に来た高齢の女性だった。

「なんだか、胃のあたりが重くてねえ。食欲もないし、めまいもするんだよ」

 江理は症状がいつから続いているのか、食事との関係はあるのか、吐き気や腹痛はないかと、一つずつ尋ねていった。

 だが、女性の話はあちこちに飛び、「若い頃からずっとこうだ」とも「最近ひどくなった」とも言う。

「熱は……測る道具、ないんだった」

 思わず呟いた独り言に、女性が不思議そうな顔をする。江理は取り繕うように笑って、手のひらを額に当てた。

 胃の不快感、食欲不振、めまい。

 考えられる原因はいくつもある。だが、血圧計も聴診器もない。血液検査も画像検査もできない。この世界でどんな病気が一般的なのかさえ、江理にはまだ分かっていなかった。

 知識がないのではない。

 知っているのに、それを確かめる手段がない。

 そのことが、江理には何よりもどかしかった。

「エリーさん、これ」

 見かねたアイリスが、乾燥させた葉を数枚差し出した。

「胃の調子が悪いときに、うちでよく飲むお茶です。効くかは分からないですけど」

「……ありがとう」

 原因を絞り込めない以上、下手な治療はできない。江理はひとまず無理をせず休むよう伝え、アイリスの茶を勧めるにとどめた。

 女性が帰ったあと、江理は椅子に沈み込んだ。

「なんにも、分かってあげられなかった」

 医者としての無力さを、こんな形で突きつけられるとは思わなかった。

「大丈夫ですよ。今日ので、分かったこともあるじゃないですか」

 アイリスの言葉に、江理は顔を上げた。

「この村の人たちの体調の話し方とか、癖とか。それも、少しずつ覚えていけばいいんだと思います」

 その言葉に、江理はゆっくりと頷いた。

 できないことだらけの一日だったが、それでも、明日もまた誰かが来る。そう思うと、不思議と足が竦むより先に、次への意欲が湧いてくる自分がいた。

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