第四話 妖精
朝、鎧戸の隙間から差し込む光で目が覚めた。
昨夜の記憶が蘇り、江理はまず枕元を確かめた。何もない。ただの木の壁と、燃え尽きた蝋燭があるだけだった。
――やっぱり、夢だったのかな。
そう思いかけたところへ、アイリスが顔を出した。
「おはようございます。よく眠れました?」
「あ、はい……あの」
江理は少し迷ってから、思い切って切り出した。
「昨夜の、光のことなんですけど」
「ああ」
アイリスは特に驚いた様子もなく、朝食の載った盆を机に置いた。
「妖精、だと思います。この辺りでは、たまにいるんです」
「妖精……」
昔話の中でしか聞いたことのない言葉が、あっさりと日常の会話に紛れ込んできたことに、江理は戸惑った。
「本当にいるんですか」
「いる、とは言われてます。ただ、見える人は少ないんです」
アイリスはパンをちぎりながら、なんでもないことのように続けた。
「私は気配が分かる程度で、姿までは見えません。うちの村でも、はっきり見えるっていう人には、もう何年も会ってないです」
「見えたら、どうなるんですか」
「そういう人は、大体、帝国に登録されますね」
「え?」
「妖精や精霊が見える、声が聞こえる。そういう人はだいたい、何か特別な力の兆しがあるとされてて。帝国が人材として召し上げるんです」
アイリスはお茶を一口飲んでから、付け加えた。
「すごい才能扱いなので、報酬もかなりいいらしいですよ。だから見える人のほとんどは、自分から望んで皇宮に上がっていくって聞きます」
軽い調子で語られたその話に、江理の背筋がかすかに冷えた。
見えることが、特別なことになる世界。しかも、それが「大事にされる」という形で、自分の意思とは関係なく扱われるかもしれないという含みを持って。
「エリーさんも、その口かもしれませんね」
からかうように笑うアイリスに、江理はうまく笑い返せなかった。
その夜、部屋に一人になったとき、また灯りが揺れた。
今度は、はっきりと見えた。
拳ほどの光の中に、小さな人影のようなものが浮かんでいる。緑がかった光をまとい、透き通った羽のようなものを持つ、指ほどの大きさの存在だった。
江理は息を止め、それを見つめた。相手も、じっとこちらを見返している。
「……あなた、何なの」
声に出すつもりはなかったのに、口からこぼれていた。
すると、頭の中に直接、小さな声が響いた。
『やっと、聞こえた』
女の子のような、鈴を転がすような声だった。
「え……?」
『ずっと呼んでたの。あなただけ、返事してくれない』
その言葉に、江理は言葉を失った。呼ばれていた。ずっと。誰にも見えない、聞こえないはずの相手に。
「わたし、あなたの声、今まで聞こえてなかった」
『知ってる。でも、今夜は聞こえた』
光がふわりと揺れ、少しだけ近づいてくる。
『あなた、この村に来たばかりでしょう。何か困ってる?』
その問いかけに、江理はふっと肩の力が抜けるのを感じた。
お化けだと思って怯えていた昨夜とは違う、確かに意思を持った相手との、初めての会話だった。
「……困ってること、山ほどあるかも」
思わず笑いが漏れた。異世界に来て初めて、誰かに愚痴をこぼせそうな気がした。
『何でも言って。あなたの言うことなら、なんでも聞く』
「そんな、大げさな」
『大げさじゃないよ。見える人、聞こえる人なんて、何百年に一人だもの。わたしたちにとっては、女王様みたいなものなんだから』
光は嬉しそうに、江理の周りをくるりと一周した。
『わたしたち、人間のこと好きなの。畑を見たり、赤ちゃんの世話を手伝ったり、迷子の案内をしたり。でも、こっちの声、聞いてもらえないと、何をしても伝わらないでしょう』
得意げに並べ立てるその様子は、お化けというより、懐いた小動物に近かった。
「あなた、名前は?」
尋ねると、光は一瞬、照れたように瞬いた。
『名前……ちゃんと呼ばれたの、久しぶり。ノア』
「ノア」
その名を、江理は口の中で小さく繰り返した。
『ねえ、明日、他のみんなも連れてきていい? みんな、あなたに会いたがると思う』
「他のみんな?」
『この辺りにいる子たち。わたしだけじゃないから』
弾んだ声で言ったかと思うと、ふいに声のトーンが変わった。
『……ううん、やっぱりやめとこうかな』
「え、どうして」
『だって、みんな来たら、あなたのこと、独り占めできなくなるでしょう』
悪びれもせず言い切られて、江理は思わず噴き出した。
異世界に来て、初めての、心の底からの笑いだった。
知らない世界で、帰る方法すら分からない。
それでも今夜、江理には一人――いや、一匹と呼んだら怒られそうな、小さな話し相手ができた。




