第三話 湯浴みと打ち明け話
案内された家は、離れとは比べ物にならないほど立派だった。
石造りの土台に、太い梁を組んだ二階建て。玄関を入ってすぐの広間には暖炉があり、壁際の棚には見たこともない陶器や、織物が丁寧に飾られている。
村長というのは、思っていた以上に裕福な立場らしい。
「こっちです」
アイリスに案内されたのは、家の奥にある小さな小屋のような一室だった。中には大きな木の桶があり、既に湯気が立っている。
「うちは湧き水が近くて、火の魔道具もあるので、お湯を沸かすのはそんなに大変じゃないんです」
魔道具、という言葉に江理は一瞬固まったが、詮索するだけの余裕はまだなかった。
差し出された布と、見慣れない香りのする石鹸のようなものを受け取り、一人になった浴室で、江理はゆっくりと湯に浸かった。
熱い湯が、こわばっていた肩や背中に染み渡っていく。
――生き返る。
電気も水道もない世界だと思っていたのに、こんなふうに湯に浸かれるとは。安堵と共に、ようやく涙腺が緩みそうになるのを、江理は奥歯を嚙んでこらえた。
湯浴みを終え、案内されたのはアイリスの部屋の隣にある小さな一室だった。
木のベッドには厚手の織物が重ねられ、窓辺には乾燥させた薬草の束がいくつも吊るされている。壁際の棚には、素朴だが丁寧に彫られた木彫りの小箱や、色とりどりの糸巻きが並んでいた。誰かが日々、手を動かして暮らしている気配が、部屋のあちこちに染みついている。
廊下の向こうから、かすかに誰かの話し声と、食器の触れ合う音が聞こえてきた。イアンだろうか、それとも他の使用人だろうか。夕食の支度でもしているのかもしれない。
電気も水道もないのに、この家には確かな生活の匂いがあった。それは、江理が思っていた「不便な異世界」とは、少し違う手触りをしていた。
借りた簡素な部屋着に袖を通し、髪を布で拭いていると、アイリスが温かい飲み物を運んできた。
「これ、うちで採れる葉のお茶です。体が温まりますよ」
湯気の立つ器を受け取り、口をつける。甘くはないが、ほのかに草の香りがして、思ったより飲みやすかった。
しばらく無言で茶をすすっていたが、やがてアイリスが遠慮がちに口を開いた。
「あの、聞いてもいいですか。エリーさんって、本当はどこから……?」
どう答えるべきか、江理は一瞬迷った。曖昧にごまかすことも、できたはずだった。
けれど、湯上がりの緩んだ体と、目の前の飾らない眼差しを見ていると、なぜか隠す気になれなかった。
「信じてもらえないかもしれないけど」
そう前置きして、江理はぽつぽつと話し始めた。
現代の日本という国で、病院に勤める医者だったこと。夜勤明けにベッドに倒れ込んで、次に目を覚ましたらこの世界にいたこと。
話しているうちに、自分でも不思議なくらい、心が落ち着いていくのが分かった。誰かに聞いてもらえる、というだけで、こんなにも違う。
「……そう、なんですね」
アイリスは驚いた様子を見せながらも、疑う素振りは一切なかった。
「シリルさんが召喚に慣れてないっていう噂は本当だったんですね。ごめんなさい、巻き込んじゃって」
「アイリスさんが謝ることじゃないですよ」
そう言いながらも、江理の中には引っかかるものがあった。
「あの、シリルさんって、村の人じゃないんですよね? 本当は、誰を呼ぶつもりだったんですか」
「詳しくは知らないんです。父が個人的に頼んだ人みたいで」
アイリスは少し困ったように眉を寄せた。
「ただ、噂では、帝国に伝わる古い術式を使ったとかで……本当は、もっと違う人を呼ぶはずだった、って聞きました」
「違う人……」
「はい。詳しいことは、シリルさん本人に聞かないと分からないんですけど。でも」
アイリスは茶器を両手で包み、少しだけ声を落とした。
「私は、エリーさんが来てくれて良かったと思ってます。誰が来るはずだったかは知らないけど、村には今、お医者様が必要だったので」
その言葉に、江理は何と返せばいいか分からず、ただ小さく頷いた。
誰かの代わりに、ここにいる。
その事実は、まだ江理の中でうまく飲み込めていなかった。けれど、目の前で自分を見つめているアイリスの顔に噓は見えず、この村に流れ着いたことそのものを、すぐに否定する気にはなれなかった。
「シリルさんとは、また会えますか?」
「たぶん。また来ることもあると思います。何か聞きたいことがあれば、私からも伝えておきますね」
「……ありがとうございます」
江理は思わず笑ってしまった。この村に来て、初めての、素直な笑いだった。
その夜、あてがわれた部屋のベッドに横になり、江理は一日の出来事を思い返していた。
ふと、枕元の小さな灯りが揺れた。
視線を向けると、拳ほどの大きさの、ぼんやりと光る影が、宙に浮いていた。
緑がかった、淡い光をまとった何か。
人の形をしているようにも、羽虫のようにも見える。それが、こちらをじっと見ている――ような気がした。
「――っ!」
悲鳴を呑み込み、江理は反射的に布団を引き寄せた。
お化け。そうとしか思えなかった。電気も水道もない世界に来て、次はお化けまで出るのか。
鼓動が耳の奥で鳴っている。目を離せないまま、江理は光から少しでも距離を取ろうと、ベッドの隅に体を押しつけた。
その時、コンコン、と軽いノックがして、返事も待たずに扉が開いた。
「エリーさん、お湯のお代わりいります――」
顔を出したアイリスが、部屋を見回し、それからきょとんとした顔をした。
「あれ? もう出ちゃった」
「……え?」
布団を握りしめたまま、江理はアイリスを見た。今の、光のことを言っているのだろうか。
「今の、見えたんですか」
「……え?」
アイリスの表情が、一瞬だけ固まった。
その顔を見て、江理は確信した。
――今のは、見間違いなんかじゃない。




