第二話 何にもない
結局、その日は村はずれの小屋を借りることになった。
案内してくれたのは、イアンの使用人だという初老の女性だった。名乗ってはくれたが、緊張のあまり半分も頭に入ってこなかった。
一人になった部屋で、江理は改めて周りを見回す。
木の壁、木の床、木の天井。窓には板戸が一枚あるだけで、ガラスはない。灯りは、机の上に置かれた小さな蝋燭一本。
――え、これだけ?
スイッチを探して壁を見たが、当然ない。コンセントもない。水道の蛇口すら見当たらず、代わりに部屋の隅に木の桶と水差しが置いてあった。
医者としての職業病で、まず環境の衛生状態を確認してしまう。
(手洗い場、ないんだ……。滅菌なんて概念、この世界にあるのかな)
ベッドに横たわり、藁の匂いのするマットレスの上で、江理はしばらく天井を見上げていた。
スマートフォンはある。バッグの中、白衣のポケットに入れっぱなしだったものが、召喚の際に一緒についてきたらしい。
電源を入れてみる。バッテリーは残り六十三パーセント。圏外。当然だ。
「……ないない尽くしじゃない」
思わず声に出た。電気もない。水道もない。電波もない。コンビニなんて概念からして存在しないだろう。
昨日まで、蛇口をひねれば清潔な水が出て、スイッチひとつで灯りがつく世界にいた。それが当たり前すぎて、意識したこともなかった。
なくなって初めて、その有り難みに気づくとは、よく言ったものだと思う。
(いや、贅沢言ってる場合じゃないのは分かってる。分かってるけど)
小さくため息をつく。
窓の外では、夕暮れの村がぽつぽつと灯りを灯し始めていた。蝋燭や、松明のような炎の色。電灯の白い光とは違う、揺らぐオレンジ色の灯りが、家々の窓から漏れている。
思っていたより、静かで、温かい光景だった。
少しだけ、気持ちが緩む。
――でも、これでどうやって診療するの。
医者としての自分がまた顔を出す。消毒液もない。滅菌された器具もない。麻酔も、抗生剤も、レントゲンも、何もない。
これで「優れた医者が必要」なんて言われても、できることなんて限られている。
途方に暮れて、江理はもう一度ベッドに沈み込んだ。
そのとき、コンコン、と控えめなノックの音が響いた。
三度目のノックの後、返事を待たずに声がした。
「あのっ、入ってもいいですか?」
弾むような若い声だった。江理はベッドから身を起こし、居住まいを正す。
「……どうぞ」
板戸がきしみながら開き、燭台を手にした娘が顔をのぞかせた。年の頃は二十歳前後だろうか。栗色の髪を後ろで結い、頬のあたりから、薬草らしい青々しい香りがふわりと漂ってきた。
「はじめまして。イアンの娘で、アイリスといいます」
軽く頭を下げると、娘は迷いのない足取りで部屋に入ってきた。手にした燭台をそっと机に置き、江理の顔をのぞきこむようにして眉を下げる。
「大変でしたよね、急に知らない場所に連れてこられて。父から聞きました、お医者様なんですよね」
率直な物言いに、身構えていた気持ちが少しだけほどけるのが分かった。
「……はい。前村……エリ・マエムラといいます」
「エリーさんって呼んでもいいですか? 父から聞いた発音、合ってますかね」
くすっと笑うアイリスの表情には、警戒も遠慮もなかった。初対面の相手に向けるにしては、ずいぶんまっすぐな目だった。
「今夜はもう休んでくださいって、本当は父が言うはずだったんですけど。私、我慢できなくて」
「え?」
「だって、こんな何もない部屋に女の人ひとりで置いておくなんて、心配じゃないですか」
その言葉に、江理は目の奥が少し熱くなるのを感じた。見知らぬ世界に放り出された心細さを、誰かがちゃんと分かってくれている。それだけで、こんなにも違う。
「お腹すいてますよね。パンと干し肉と……あ、これ、傷薬です。うちの畑の薬草で作ったんです」
机に並べられた食べ物を見て、江理はようやく自分が空腹だったことに気づいた。
「あの、ありがとうございます。何から何まで」
「いいんです、私が勝手にやってることなので」
アイリスは悪びれる様子もなく笑うと、ふと部屋を見回して、少し眉を下げた。
「父ったら、わざわざこの離れを用意したみたいですけど……正直、夜は冷えますし、一人だと心細いですよね」
「え、でも、村長さんがせっかく」
「気持ちはありがたいんですけどね」
アイリスは苦笑して、悪戯っぽく片目をつむった。
「うちの家に、部屋がもう一つ空いてるんです。私の部屋の隣。よかったら、今夜からそちらへどうぞ」
「アイリスさんの家に、ですか?」
「はい。それに」
アイリスは声を少し落とし、内緒話でもするように続けた。
「そっちにはお風呂もあるんです。今日は疲れたでしょうし、湯を沸かしておきますね」
「お風呂……」
思わず声が裏返った。蝋燭一本のこの離れに案内された時点で、湯浴みなど望んでいなかった。それだけに、思いがけない申し出だった。
「贅沢だと思われるかもしれませんけど、うちは代々、湯を大事にする家なので。汗も汚れも、流せるうちに流しておかないと、体に障りますから」
その言葉には、村長の娘としての余裕とは別の、生活に根ざした実感がこもっていた。江理は素直に頷いた。
「……お言葉に甘えます」
アイリスが置いた燭台の炎が、ふっと揺れた。
風もないのに。
視界の端、炎のそばを小さな緑がかった光がすっと横切った気がした。まばたきをする間に、光はもう消えていた。
見間違いだろうか。江理は目をこすったが、アイリスは気づいた様子もなく、荷物をまとめて立ち上がっている。
「じゃあ、荷物をまとめて、うちへ案内しますね」
その屈託のない後ろ姿に、江理はさっきの光のことを頭の隅に追いやった。
――気のせい。そう、気のせいのはず。




