第一話 召喚
当直の合間、仮眠室のベッドに倒れ込んだところまでは覚えている。
次に前村江理が目を開けたとき、天井の蛍光灯は消えていた。
代わりにあったのは、木の梁がむき出しになった低い天井と、埃っぽい藁の匂いだった。
仰向けのまま、しばらく動けなかった。
――寝過ごした。それにしても、やけに天井が近い。
状況を把握しようと、ゆっくり首を巡らせる。こういうとき、パニックになるより先に体が勝手に「観察」を始めるのは、医者という仕事の癖のようなものだった。バイタルを確認する要領で、まず自分の呼吸、視界、四肢の感覚を順に確かめる。異常なし。次に、周囲。
板張りの床には、白い粉のようなもので描かれた円と、見覚えのない文字の連なり。
その円を囲むようにして、初老の男が二人。片方はふくよかな体格に人の好さそうな丸顔、もう片方は痩せぎすで、灰色のローブを羽織っていた。
ローブの男の方が、額の汗を拭いながら、安堵とも疲労ともつかない息を吐く。
「……成功、ですね。イアン殿」
「ああ、シリル殿のおかげだ。本当に助かった」
丸顔の男――イアンと呼ばれた方が、深々と頭を下げた。
江理はゆっくりと上体を起こし、二人を交互に見た。
着ているものが違う。自分は夜勤のスクラブのままだというのに、彼らは時代劇にでも出てきそうな、詰め襟の上着と長いローブ姿だった。
寝起きの頭でも、これだけは分かる。
――ここ、病院じゃない。
「あの、すみません」
努めて平静な声を出したつもりだったが、我ながら少し上ずっていた。
「ここは、どこですか」
イアンと呼ばれた男は、江理の顔を見ると、堪えきれないというように表情を緩めた。
「ああ、本当に来てくださった……。ここはピーコック村、私はこの村の村長です」
「ピーコック村……?」
聞き覚えのない地名だった。もちろん、日本のどこかとも思えない。
――待って。何を言っているんだろう、この人。
頭のどこかで、まだ状況を否定したがっている自分がいる。疲労でおかしな夢でも見ているんじゃないか、これは何かのドッキリなんじゃないか。都合のいい可能性を、片っ端から探してしまう。
でも、藁の匂いも、床に描かれた円も、目の前の二人の姿も、夢にしてはあまりに鮮明だった。
江理は視線を落とし、もう一度床の円を見た。白い粉で描かれた模様、その中央に自分がいる。
――何かの儀式?
いや、まさか。
「すみません、状況が全く飲み込めていません。私は今夜、当直の合間に仮眠を取っていたはずなんですが」
「ああ、それは……」
イアンが言い淀むと、隣のシリルが一歩進み出た。
「私が、召喚術を使いました。イアン殿からの依頼で」
「しょ、召喚?」
江理はその言葉を、そのまま口の中で繰り返した。実感が伴わない。
「なぜ、私を」
自分でも青ざめて、手に汗を握っているのは何となく分かる。
「本来お呼びするはずだった方とは、違ったのです。申し訳ありません」
シリルは目を伏せた。取り繕う様子もなく、素直な物言いだった。
「詳しい事情は、追ってご説明します。ただ――」
「ただ?」
「この村には今、優れた医者が必要なのです」
イアンが、シリルの言葉を引き取るようにして続けた。
「病人が、何人も。まともに診られる者がおらず……。どうか、力を貸していただけないでしょうか」
深々と頭を下げるイアン。
(いや、待って。冗談じゃない)
さっきまで普通に当直してたのに。家族にも「また明日」って言ったのに。それが今、知らない世界で、知らないおじさんに土下座級の勢いで頭を下げられている。
状況、飲み込むだけで精一杯なんですけど。
頭の中は「帰りたい」の二文字で埋め尽くされている。なのに、目の前でずっと頭を下げ続けられると、さすがに「知りません」で立ち去るのも気が引けてしまう。
医者という生き物は、困った人を見ると反射的に構ってしまう性質があるらしい。江理自身、割と嫌いじゃないその性質を、今このタイミングで発揮されても困る。
「……少し、考えさせてください」
絞り出した声は、我ながら煮え切らなかった。
もっとはっきり言えたらいいのに。でも今の江理には、それが精一杯だった。
「……もちろんです。急かして、申し訳ありませんでした」
イアンが引き下がってくれたことに、内心ほっとする。
江理は視線を落とし、もう一度、床に残る白い粉の円を見つめた。
(これから、どうしよう……)




