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異世界転移した女医ですが、帰りたいのは元の世界だけではなくなりました ~辺境の村から始まる異世界診療記~  作者: 滝内亜依
第5章 王太子妃になったら、スランプになっちゃった。

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第七十六話 気づかれない疲れ

 翌朝、江理は診療所の裏手にある、アイリスの薬草園を訪れた。

「エリーさん、おはようございます」

 アイリスが、水やりの手を止めて振り返る。

「おはよう。何を育ててるの?」

「色々ですよ。薬草もあれば、最近は香りのいいものも」

 案内されるまま、江理は畑の間を歩いた。

 見慣れない、白い小さな花をつけた植物が目に留まる。

「これ、なんの花?」

「ああ、それですか」

 アイリスが、嬉しそうに顔をほころばせた。

「王都の商会経由で、マルコさんが珍しい苗を持ってきてくれたんです。ジャスミン、っていうらしくて」

「ジャスミン……」

 その名前に、足が止まった。

「知ってるんですか?」

「うん。日本でも、よく見かけた花」

 江理は、白い花に顔を近づけた。

 甘く、清らかな香りが、鼻を抜けていく。

 その香りに誘われるように、記憶が一気に蘇ってきた。

 夜勤明け、疲れた体でよく立ち寄っていた喫茶店。そこで飲んでいた、ジャスミン茶の香り。

 休みの日には、自分でお茶を淹れることも好きだった。紅茶、緑茶、ハーブティー。棚には、何種類もの茶葉が並んでいた。

 特に気に入っていたのは、ミルクティーだった。濃いめに淹れた紅茶に、温めた牛乳をたっぷり注いで。

 あの頃は、それが数少ない、自分だけのための時間だった。

「エリーさん?」

 アイリスの声に、江理は我に返った。

「ごめん、ちょっと懐かしくなって」

「どんな飲み方をしてたんですか?」

「お茶にして、飲んでた。ジャスミンだけじゃなくて、色々」

 江理は、少し考えてから続けた。

「牛乳を入れて飲むのも、好きだった」

「牛乳を?」

「うん。ミルクティーっていって」

 アイリスが、興味深そうに目を輝かせた。

「それ、今度作ってみたいです。乾燥させた葉を、いただいてもいいですか?」

「もちろん」

 そこで、江理はふと手を止めた。

「あ、でも、花びらだけを使ってね」

「花びらだけ?」

「普通のジャスミン茶は、緑茶と混ぜて作ることが多いの。それだとカフェインが入っちゃうから」

「カフェイン?」

「眠りを妨げたり、体に負担をかけたりする成分。今の私には、ちょっと向かないかな」

 江理は、お腹にそっと手を当てた。

「花びらだけなら、その心配はないよ」

「……あ」

 アイリスが、はっとした顔をした。

「そっか、エリーさんの今の体のこと、考えなきゃいけないんですね」

「うん。だから、こういう判断、意外と大事なの」

 アイリスは、しばらく考え込んでから、目を輝かせた。

「エリーさん、提案があります」

「何?」

「お茶の薬草園を、作りませんか。妊娠中でも、安心して飲めるものだけを集めて」

「お茶の、薬草園?」

「はい。エリーさんの知識を借りながら、安全なものを選んで育てたいです」

 その提案に、江理は少し驚いた。

「それ、いいかもしれない」

「ですよね!」

 久しぶりに、何かに興味を惹かれる感覚があった。

「カモミールは、リラックス効果があったはず。ルイボスも、カフェインなしで飲めるよ」

「メモします!」

 アイリスが、紙を取り出して書き留め始める。

 その日の午後、江理はアイリスと二人、診療所の台所で、湯を沸かした。

「これくらいで、いいかな」

 乾燥させたジャスミンの葉を、江理は少しだけ手に取った。

「多すぎると、香りが強くなりすぎるから」

「エリーさん、詳しいんですね」

「昔、よく飲んでたから」

 茶葉に湯を注ぎ、しばらく待つ。

 立ち上る湯気とともに、あの喫茶店の記憶が、また少しだけ蘇ってきた。

「これに、牛乳を?」

「うん。あったかいのを、少し」

 温めた牛乳を注ぐと、淡い色のお茶が、優しい色合いに変わっていく。

 一口飲んでみると、記憶にあった味とは少し違ったが、それでも十分に、懐かしい香りがした。

「美味しい……」

「よかった」

 江理は、湯気の立つ器を、両手で包んだ。

「なんだか、久しぶりに、ちゃんと休めた気がする」

 その様子を、アイリスはしばらく黙って見ていた。

「エリーさん」

「うん?」

「この前のお話、オジー様にも伝えた方がいいと思います」

 江理は、湯気の向こうでアイリスを見た。

「……まだ、いいかな」

「どうしてですか」

「心配、かけたくないから」

「心配は、もうかけてます」

 アイリスの声は、優しかったが、はっきりしていた。

「エリーさんが隠してることくらい、オジー様だって、きっと気づいてます」

 その指摘に、江理は答えられなかった。

「分かってる。言わなきゃって、何度も思った」

「でも?」

「言葉にした瞬間、本当になっちゃう気がして」

 江理は、湯呑みを見つめたまま続けた。

「まだ自分で何とかできる、って思ってたい。もう少しだけ」

 アイリスは、しばらく江理を見ていたが、それ以上は無理に勧めなかった。

「分かりました。でも」

「うん」

「本当に辛くなったら、一人で抱え込まないでくださいね。私で良ければ、いつでも聞きますから」

「ありがとう」

 江理は、小さく笑った。

 けれど、その笑顔の下で、まだ言葉にできない疲れが、静かに積み重なっていた。

 江理自身も、それにどう向き合えばいいのか、まだ分からないままだった。

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