第七十六話 気づかれない疲れ
翌朝、江理は診療所の裏手にある、アイリスの薬草園を訪れた。
「エリーさん、おはようございます」
アイリスが、水やりの手を止めて振り返る。
「おはよう。何を育ててるの?」
「色々ですよ。薬草もあれば、最近は香りのいいものも」
案内されるまま、江理は畑の間を歩いた。
見慣れない、白い小さな花をつけた植物が目に留まる。
「これ、なんの花?」
「ああ、それですか」
アイリスが、嬉しそうに顔をほころばせた。
「王都の商会経由で、マルコさんが珍しい苗を持ってきてくれたんです。ジャスミン、っていうらしくて」
「ジャスミン……」
その名前に、足が止まった。
「知ってるんですか?」
「うん。日本でも、よく見かけた花」
江理は、白い花に顔を近づけた。
甘く、清らかな香りが、鼻を抜けていく。
その香りに誘われるように、記憶が一気に蘇ってきた。
夜勤明け、疲れた体でよく立ち寄っていた喫茶店。そこで飲んでいた、ジャスミン茶の香り。
休みの日には、自分でお茶を淹れることも好きだった。紅茶、緑茶、ハーブティー。棚には、何種類もの茶葉が並んでいた。
特に気に入っていたのは、ミルクティーだった。濃いめに淹れた紅茶に、温めた牛乳をたっぷり注いで。
あの頃は、それが数少ない、自分だけのための時間だった。
「エリーさん?」
アイリスの声に、江理は我に返った。
「ごめん、ちょっと懐かしくなって」
「どんな飲み方をしてたんですか?」
「お茶にして、飲んでた。ジャスミンだけじゃなくて、色々」
江理は、少し考えてから続けた。
「牛乳を入れて飲むのも、好きだった」
「牛乳を?」
「うん。ミルクティーっていって」
アイリスが、興味深そうに目を輝かせた。
「それ、今度作ってみたいです。乾燥させた葉を、いただいてもいいですか?」
「もちろん」
そこで、江理はふと手を止めた。
「あ、でも、花びらだけを使ってね」
「花びらだけ?」
「普通のジャスミン茶は、緑茶と混ぜて作ることが多いの。それだとカフェインが入っちゃうから」
「カフェイン?」
「眠りを妨げたり、体に負担をかけたりする成分。今の私には、ちょっと向かないかな」
江理は、お腹にそっと手を当てた。
「花びらだけなら、その心配はないよ」
「……あ」
アイリスが、はっとした顔をした。
「そっか、エリーさんの今の体のこと、考えなきゃいけないんですね」
「うん。だから、こういう判断、意外と大事なの」
アイリスは、しばらく考え込んでから、目を輝かせた。
「エリーさん、提案があります」
「何?」
「お茶の薬草園を、作りませんか。妊娠中でも、安心して飲めるものだけを集めて」
「お茶の、薬草園?」
「はい。エリーさんの知識を借りながら、安全なものを選んで育てたいです」
その提案に、江理は少し驚いた。
「それ、いいかもしれない」
「ですよね!」
久しぶりに、何かに興味を惹かれる感覚があった。
「カモミールは、リラックス効果があったはず。ルイボスも、カフェインなしで飲めるよ」
「メモします!」
アイリスが、紙を取り出して書き留め始める。
その日の午後、江理はアイリスと二人、診療所の台所で、湯を沸かした。
「これくらいで、いいかな」
乾燥させたジャスミンの葉を、江理は少しだけ手に取った。
「多すぎると、香りが強くなりすぎるから」
「エリーさん、詳しいんですね」
「昔、よく飲んでたから」
茶葉に湯を注ぎ、しばらく待つ。
立ち上る湯気とともに、あの喫茶店の記憶が、また少しだけ蘇ってきた。
「これに、牛乳を?」
「うん。あったかいのを、少し」
温めた牛乳を注ぐと、淡い色のお茶が、優しい色合いに変わっていく。
一口飲んでみると、記憶にあった味とは少し違ったが、それでも十分に、懐かしい香りがした。
「美味しい……」
「よかった」
江理は、湯気の立つ器を、両手で包んだ。
「なんだか、久しぶりに、ちゃんと休めた気がする」
その様子を、アイリスはしばらく黙って見ていた。
「エリーさん」
「うん?」
「この前のお話、オジー様にも伝えた方がいいと思います」
江理は、湯気の向こうでアイリスを見た。
「……まだ、いいかな」
「どうしてですか」
「心配、かけたくないから」
「心配は、もうかけてます」
アイリスの声は、優しかったが、はっきりしていた。
「エリーさんが隠してることくらい、オジー様だって、きっと気づいてます」
その指摘に、江理は答えられなかった。
「分かってる。言わなきゃって、何度も思った」
「でも?」
「言葉にした瞬間、本当になっちゃう気がして」
江理は、湯呑みを見つめたまま続けた。
「まだ自分で何とかできる、って思ってたい。もう少しだけ」
アイリスは、しばらく江理を見ていたが、それ以上は無理に勧めなかった。
「分かりました。でも」
「うん」
「本当に辛くなったら、一人で抱え込まないでくださいね。私で良ければ、いつでも聞きますから」
「ありがとう」
江理は、小さく笑った。
けれど、その笑顔の下で、まだ言葉にできない疲れが、静かに積み重なっていた。
江理自身も、それにどう向き合えばいいのか、まだ分からないままだった。




