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異世界転移した女医ですが、帰りたいのは元の世界だけではなくなりました ~辺境の村から始まる異世界診療記~  作者: 滝内亜依
第5章 王太子妃になったら、スランプになっちゃった。

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第七十五話 何もしない日々

 ピーコック村に着くと、真っ先に駆け寄ってきたのはアイリスだった。

「エリーさん! 急にどうしたんですか」

「ちょっと、こっちの空気が吸いたくなって」

 半分本当の答えに、アイリスは特に疑うこともなく笑った。

「久しぶりですね。ゆっくりしていってください」

 その言葉に、江理は少しだけ、肩の力が抜けるのを感じた。

 ◇

 村を歩くと、あちこちから声がかかった。

「エリー先生じゃないか!」

 パン屋のオーウェンが、粉だらけの手を振ってくる。

「お久しぶりです」

「王太子妃様になっても、変わらないねえ」

 からかうような口調に、江理はつい笑ってしまった。

「井戸の水、前より楽に汲めるようになったんですよ」

 通りかかったマーゴが、嬉しそうに教えてくれる。

「シアンから技師が来て、みんなで直してくれて」

「王都になってから、色々変わりましたよね」

 アイリスが、隣で補足する。

「道も広がって、荷馬車も通りやすくなりました。診療所に来る人も、前より楽に来られるようになったって」

「トビアスなんて、すっかり街の案内役気取りですよ」

 その名前に、江理は懐かしさを覚えた。

「トビアス、元気にしてる?」

「元気も元気、毎日大忙しです」

 ちょうどそこへ、少し背が伸びたトビアスが駆けてきた。

「エリー先生! 帰ってきたんだ!」

「うん、少しだけね」

「今度、新しい水路も見せてよ。俺、案内できるから」

 得意げなその顔に、江理は自然と笑みがこぼれた。

 この村が、少しずつ、けれど確かに変わっている。

 自分たちがやってきたことが、こうして誰かの毎日を楽にしていることを、改めて実感した。

 少し先の家の前では、グレースが日向で編み物をしていた。

「エリー先生、久しぶりだねえ」

「グレースさん、お元気そうで」

「おかげさまで、腰の調子もいいよ。この前教わった体操、ちゃんと続けてる」

 そう言って、グレースは軽く肩を回してみせた。

「立派な王太子妃様になっても、ちゃんと顔を出してくれるんだね」

「私は、変わってませんよ」

「そうかい。それが一番だね」

 その一言が、思っていたより深く、江理の胸に染みた。

 ◇

 その日の午後、二人は診療所の裏で、お茶を飲んでいた。

「これ、新しく仕入れた茶葉なんです。マルコさんの商会から」

「美味しい」

 江理は、素直にそう言った。

 シアンで飲む茶とは、少し違う味だった。飾らない、いつもの味。

「エリーさん、なんだか、少し痩せました?」

 アイリスが、心配そうに江理の顔を覗き込む。

「そう、かな」

「無理してませんか」

「してないよ」

 いつもの答えを口にしかけて、江理は、ふと言葉を止めた。

 アイリスは、じっとこちらを見ていた。急かすでもなく、ただ、待っている目だった。

 その静けさに、江理は、何かが緩むのを感じた。

「……実は」

「はい」

「何もしないでいるのが、こんなに辛いなんて、思わなかった」

 言葉にした瞬間、胸の奥が、じわりと熱くなった。

「皆、休めって、優しく言ってくれる。分かってる、皆が私のことを思ってくれてるのも。でも」

「でも?」

「何もしてない自分が、価値のない人間みたいに感じちゃって」

 一度出てしまうと、言葉は止まらなかった。

「診療所に行っても、することがない。公務にも呼ばれない。誰かの役に立ってる実感が、どこにもなくて」

「エリーさん……」

「こんなこと、言っちゃいけないと思ってた。せっかく、皆が気遣ってくれてるのに」

 江理は、俯いたまま続けた。

「言えなかった。誰にも」

 アイリスは、しばらく何も言わなかった。

 それから、江理の手を、そっと握った。

「言ってくれて、ありがとうございます」

「え?」

「ずっと、様子がおかしいと思ってました。でも、聞いていいのか、分からなくて」

 アイリスの目には、涙が浮かんでいた。

「エリーさんが、そんなに辛い思いをしてたなんて」

「辛いっていうか」

「辛かったんですよ、それは」

 きっぱりと、アイリスが言った。

「休むことは、悪いことじゃありません。でも、休むことしかできない状態が、エリーさんには辛かった。それは、我慢しなくていいことです」

 その言葉に、江理の目にも、涙がにじんだ。

「私、どうすればいいんだろう」

「一緒に、考えましょう」

 アイリスは、江理の手を、もう一度強く握った。

「エリーさんが、一人で抱え込まなくていいように」

 ◇

 夕方、診療所の窓から、光の粒が飛び込んできた。

『エリー! ひさしぶり!』

 ノアだった。後ろから、ピコやミトたちも続く。

「みんな、久しぶり」

 妖精たちは、江理の周りを、嬉しそうに飛び回った。

『げんき、なさそう』

 ロトが、じっと江理を見て言う。

「……そう見える?」

『うん。でも、さっきより、すこしいい』

 その一言に、江理は小さく笑った。

 アイリスと話したことで、確かに何かが、少しだけ軽くなっていた。

 村の人たちの声、妖精たちの気配、アイリスの手の温もり。

 完全に消えたわけではない、けれど、確かに一つ、支えが増えていた。

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