第七十五話 何もしない日々
ピーコック村に着くと、真っ先に駆け寄ってきたのはアイリスだった。
「エリーさん! 急にどうしたんですか」
「ちょっと、こっちの空気が吸いたくなって」
半分本当の答えに、アイリスは特に疑うこともなく笑った。
「久しぶりですね。ゆっくりしていってください」
その言葉に、江理は少しだけ、肩の力が抜けるのを感じた。
◇
村を歩くと、あちこちから声がかかった。
「エリー先生じゃないか!」
パン屋のオーウェンが、粉だらけの手を振ってくる。
「お久しぶりです」
「王太子妃様になっても、変わらないねえ」
からかうような口調に、江理はつい笑ってしまった。
「井戸の水、前より楽に汲めるようになったんですよ」
通りかかったマーゴが、嬉しそうに教えてくれる。
「シアンから技師が来て、みんなで直してくれて」
「王都になってから、色々変わりましたよね」
アイリスが、隣で補足する。
「道も広がって、荷馬車も通りやすくなりました。診療所に来る人も、前より楽に来られるようになったって」
「トビアスなんて、すっかり街の案内役気取りですよ」
その名前に、江理は懐かしさを覚えた。
「トビアス、元気にしてる?」
「元気も元気、毎日大忙しです」
ちょうどそこへ、少し背が伸びたトビアスが駆けてきた。
「エリー先生! 帰ってきたんだ!」
「うん、少しだけね」
「今度、新しい水路も見せてよ。俺、案内できるから」
得意げなその顔に、江理は自然と笑みがこぼれた。
この村が、少しずつ、けれど確かに変わっている。
自分たちがやってきたことが、こうして誰かの毎日を楽にしていることを、改めて実感した。
少し先の家の前では、グレースが日向で編み物をしていた。
「エリー先生、久しぶりだねえ」
「グレースさん、お元気そうで」
「おかげさまで、腰の調子もいいよ。この前教わった体操、ちゃんと続けてる」
そう言って、グレースは軽く肩を回してみせた。
「立派な王太子妃様になっても、ちゃんと顔を出してくれるんだね」
「私は、変わってませんよ」
「そうかい。それが一番だね」
その一言が、思っていたより深く、江理の胸に染みた。
◇
その日の午後、二人は診療所の裏で、お茶を飲んでいた。
「これ、新しく仕入れた茶葉なんです。マルコさんの商会から」
「美味しい」
江理は、素直にそう言った。
シアンで飲む茶とは、少し違う味だった。飾らない、いつもの味。
「エリーさん、なんだか、少し痩せました?」
アイリスが、心配そうに江理の顔を覗き込む。
「そう、かな」
「無理してませんか」
「してないよ」
いつもの答えを口にしかけて、江理は、ふと言葉を止めた。
アイリスは、じっとこちらを見ていた。急かすでもなく、ただ、待っている目だった。
その静けさに、江理は、何かが緩むのを感じた。
「……実は」
「はい」
「何もしないでいるのが、こんなに辛いなんて、思わなかった」
言葉にした瞬間、胸の奥が、じわりと熱くなった。
「皆、休めって、優しく言ってくれる。分かってる、皆が私のことを思ってくれてるのも。でも」
「でも?」
「何もしてない自分が、価値のない人間みたいに感じちゃって」
一度出てしまうと、言葉は止まらなかった。
「診療所に行っても、することがない。公務にも呼ばれない。誰かの役に立ってる実感が、どこにもなくて」
「エリーさん……」
「こんなこと、言っちゃいけないと思ってた。せっかく、皆が気遣ってくれてるのに」
江理は、俯いたまま続けた。
「言えなかった。誰にも」
アイリスは、しばらく何も言わなかった。
それから、江理の手を、そっと握った。
「言ってくれて、ありがとうございます」
「え?」
「ずっと、様子がおかしいと思ってました。でも、聞いていいのか、分からなくて」
アイリスの目には、涙が浮かんでいた。
「エリーさんが、そんなに辛い思いをしてたなんて」
「辛いっていうか」
「辛かったんですよ、それは」
きっぱりと、アイリスが言った。
「休むことは、悪いことじゃありません。でも、休むことしかできない状態が、エリーさんには辛かった。それは、我慢しなくていいことです」
その言葉に、江理の目にも、涙がにじんだ。
「私、どうすればいいんだろう」
「一緒に、考えましょう」
アイリスは、江理の手を、もう一度強く握った。
「エリーさんが、一人で抱え込まなくていいように」
◇
夕方、診療所の窓から、光の粒が飛び込んできた。
『エリー! ひさしぶり!』
ノアだった。後ろから、ピコやミトたちも続く。
「みんな、久しぶり」
妖精たちは、江理の周りを、嬉しそうに飛び回った。
『げんき、なさそう』
ロトが、じっと江理を見て言う。
「……そう見える?」
『うん。でも、さっきより、すこしいい』
その一言に、江理は小さく笑った。
アイリスと話したことで、確かに何かが、少しだけ軽くなっていた。
村の人たちの声、妖精たちの気配、アイリスの手の温もり。
完全に消えたわけではない、けれど、確かに一つ、支えが増えていた。




