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異世界転移した女医ですが、帰りたいのは元の世界だけではなくなりました ~辺境の村から始まる異世界診療記~  作者: 滝内亜依
第5章 王太子妃になったら、スランプになっちゃった。

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第七十四話 休んでください

「先生」

 妊娠を報告した翌日、ライリーが改まった様子で江理を呼んだ。

「今日から、しばらく休んでくれ」

「……え?」

 突然の言葉に、江理は聞き返した。

「診療所も、公務も、しばらく控えろ。体を第一に考えるべきだ」

「でも、まだ普通に動けますし」

「今は、な」

 ライリーの声には、迷いがなかった。

「先のことを考えろ。無理をして、何かあってからでは遅い」

「私も、賛成だ」

 オジーが、横から口を挟んだ。

「江理には、無理させたくない。ゆっくり休んでほしい」

 その言葉に、悪意は一つもなかった。

 むしろ、江理を大切に思うからこその言葉だと、頭では分かっていた。

「……分かりました」

 江理は、そう答えるしかなかった。

 ◇

 その日から、江理の役割は、急に減った。

 診療所には、代わりにエイトとマイミ、テオが交代で入るようになった。公務も、大部分をライリーやマーサが引き受けた。

「エリーさんは、ゆっくりしててください」

 アイリスが、笑顔でそう言う。

「私たちで、ちゃんと回しますから」

「うん、ありがとう」

 口ではそう答えながら、江理の胸の奥には、小さな違和感があった。

 診療所の前を通りかかっても、扉を開ける理由がない。

 公務の会議があっても、呼ばれない。

 これまで、当たり前のようにあった自分の役割が、するりと手からこぼれ落ちていくような感覚だった。

 ◇

 翌朝、目が覚めても、することがなかった。

 これまでは、目を開けた瞬間から、頭の中に一日の予定が浮かんでいた。診療所で誰を診るか、公務で何を話し合うか、薬草の在庫はどれくらい残っているか。

 今は、何も浮かばない。

「起きたか」

 隣で、オジーが目を覚ます。

「うん」

「今日は、どうする?」

「……分からない」

 正直にそう答えると、オジーは少し困ったような顔をした。

「無理に何かする必要はないぞ」

「うん。分かってる」

 分かっている。頭では、ちゃんと分かっている。

 それでも、体は、何かをしないと落ち着かなかった。

 ◇

 朝食のあと、江理は診療所の前を通りかかった。

 中からは、患者と話すエイトの声が聞こえてくる。

 扉に手をかけかけて、江理は思いとどまった。

 入っても、することがない。それどころか、余計な心配をかけてしまうかもしれない。

 結局、江理はそのまま城へ引き返した。

「エリー様、こちらへどうぞ」

 部屋では、アメリアが、丁寧に椅子を勧めてくれる。

「今日は、何をなさいますか」

「……特に、何も」

 その答えに、アメリアは少し戸惑った様子を見せた。

 部屋には、静けさだけが残った。窓の外を見ると、城下の通りには、忙しそうに行き交う人々の姿があった。

 その中に、自分の居場所はない。

 そんな考えが、ふと頭をよぎった。

 ◇

 昼過ぎ、マーサが様子を見に顔を出した。

「体調は、どうだい」

「変わりないです。むしろ、暇すぎて」

 江理が苦笑すると、マーサは少し眉を上げた。

「暇なのは、悪いことじゃないだろう」

「そうなんですけど」

 江理は、言葉を選びながら続けた。

「私、これまでずっと、何かに追われてる感じで生きてきたので。急に何もなくなると、逆に落ち着かないというか」

「贅沢な悩みだね」

 マーサは、そう言いながらも、どこか気にかけるような目をしていた。

 マイミも、入れ替わりに顔を出した。

「江理ちゃん、調子は?」

「うん、変わりない」

「無理してない?」

「してない」

 即答すると、マイミは少しだけ眉を寄せたが、それ以上は聞かなかった。

 足音が遠ざかっていくのを聞きながら、江理は、自分が今、何を求めているのか、うまく言葉にできずにいた。

 誰かに心配されたいわけではない。

 ただ、何かの役に立っている実感が、欲しかった。

 それが、今の自分には、どこにもなかった。

 ◇

 夜、寝台の中で、江理はオジーに聞いた。

「私、本当に、何もしなくていいのかな」

「今は、それでいい」

「でも」

「江理」

 オジーは、静かに続けた。

「今は、体を守ることが、一番大事な仕事だ。それも、立派な役割だと思う」

 その言葉は、間違っていなかった。

 頭では、江理もそう分かっていた。

 それでも、何かが、胸の奥にわだかまったまま消えなかった。

「うん。分かってる」

 江理は、そう答えて、目を閉じた。

 部屋の隅に置かれた、診療記録の束が目に入る。

 これまで書き溜めてきた、患者たちの記録。誰の、いつの、どんな症状。自分の字で書かれたそれらは、確かに、これまでの自分の証だった。

 けれど、今の自分に、続きを書き足す資格はない。

 窓の外は、静かな夜が広がっていた。

 その静けさが、今の江理には、少しだけ重く感じられた。

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