第七十四話 休んでください
「先生」
妊娠を報告した翌日、ライリーが改まった様子で江理を呼んだ。
「今日から、しばらく休んでくれ」
「……え?」
突然の言葉に、江理は聞き返した。
「診療所も、公務も、しばらく控えろ。体を第一に考えるべきだ」
「でも、まだ普通に動けますし」
「今は、な」
ライリーの声には、迷いがなかった。
「先のことを考えろ。無理をして、何かあってからでは遅い」
「私も、賛成だ」
オジーが、横から口を挟んだ。
「江理には、無理させたくない。ゆっくり休んでほしい」
その言葉に、悪意は一つもなかった。
むしろ、江理を大切に思うからこその言葉だと、頭では分かっていた。
「……分かりました」
江理は、そう答えるしかなかった。
◇
その日から、江理の役割は、急に減った。
診療所には、代わりにエイトとマイミ、テオが交代で入るようになった。公務も、大部分をライリーやマーサが引き受けた。
「エリーさんは、ゆっくりしててください」
アイリスが、笑顔でそう言う。
「私たちで、ちゃんと回しますから」
「うん、ありがとう」
口ではそう答えながら、江理の胸の奥には、小さな違和感があった。
診療所の前を通りかかっても、扉を開ける理由がない。
公務の会議があっても、呼ばれない。
これまで、当たり前のようにあった自分の役割が、するりと手からこぼれ落ちていくような感覚だった。
◇
翌朝、目が覚めても、することがなかった。
これまでは、目を開けた瞬間から、頭の中に一日の予定が浮かんでいた。診療所で誰を診るか、公務で何を話し合うか、薬草の在庫はどれくらい残っているか。
今は、何も浮かばない。
「起きたか」
隣で、オジーが目を覚ます。
「うん」
「今日は、どうする?」
「……分からない」
正直にそう答えると、オジーは少し困ったような顔をした。
「無理に何かする必要はないぞ」
「うん。分かってる」
分かっている。頭では、ちゃんと分かっている。
それでも、体は、何かをしないと落ち着かなかった。
◇
朝食のあと、江理は診療所の前を通りかかった。
中からは、患者と話すエイトの声が聞こえてくる。
扉に手をかけかけて、江理は思いとどまった。
入っても、することがない。それどころか、余計な心配をかけてしまうかもしれない。
結局、江理はそのまま城へ引き返した。
「エリー様、こちらへどうぞ」
部屋では、アメリアが、丁寧に椅子を勧めてくれる。
「今日は、何をなさいますか」
「……特に、何も」
その答えに、アメリアは少し戸惑った様子を見せた。
部屋には、静けさだけが残った。窓の外を見ると、城下の通りには、忙しそうに行き交う人々の姿があった。
その中に、自分の居場所はない。
そんな考えが、ふと頭をよぎった。
◇
昼過ぎ、マーサが様子を見に顔を出した。
「体調は、どうだい」
「変わりないです。むしろ、暇すぎて」
江理が苦笑すると、マーサは少し眉を上げた。
「暇なのは、悪いことじゃないだろう」
「そうなんですけど」
江理は、言葉を選びながら続けた。
「私、これまでずっと、何かに追われてる感じで生きてきたので。急に何もなくなると、逆に落ち着かないというか」
「贅沢な悩みだね」
マーサは、そう言いながらも、どこか気にかけるような目をしていた。
マイミも、入れ替わりに顔を出した。
「江理ちゃん、調子は?」
「うん、変わりない」
「無理してない?」
「してない」
即答すると、マイミは少しだけ眉を寄せたが、それ以上は聞かなかった。
足音が遠ざかっていくのを聞きながら、江理は、自分が今、何を求めているのか、うまく言葉にできずにいた。
誰かに心配されたいわけではない。
ただ、何かの役に立っている実感が、欲しかった。
それが、今の自分には、どこにもなかった。
◇
夜、寝台の中で、江理はオジーに聞いた。
「私、本当に、何もしなくていいのかな」
「今は、それでいい」
「でも」
「江理」
オジーは、静かに続けた。
「今は、体を守ることが、一番大事な仕事だ。それも、立派な役割だと思う」
その言葉は、間違っていなかった。
頭では、江理もそう分かっていた。
それでも、何かが、胸の奥にわだかまったまま消えなかった。
「うん。分かってる」
江理は、そう答えて、目を閉じた。
部屋の隅に置かれた、診療記録の束が目に入る。
これまで書き溜めてきた、患者たちの記録。誰の、いつの、どんな症状。自分の字で書かれたそれらは、確かに、これまでの自分の証だった。
けれど、今の自分に、続きを書き足す資格はない。
窓の外は、静かな夜が広がっていた。
その静けさが、今の江理には、少しだけ重く感じられた。




