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異世界転移した女医ですが、帰りたいのは元の世界だけではなくなりました ~辺境の村から始まる異世界診療記~  作者: 滝内亜依
第5章 王太子妃になったら、スランプになっちゃった。

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第七十二話 穏やかな日々

 結婚してから、ひと月が過ぎた。

 江理の一日は、これまでとそう変わらなかった。

 朝は診療所で患者を診て、昼過ぎからは城で公務の一部に顔を出し、夕方には薬草の記録をまとめる。

「エリー様、今日の分の記録です」

 アメリアが、几帳面な字で書かれた紙を差し出す。

「ありがとう、アメリア」

 マーサの元で学び始めたアメリアは、着実に力をつけていた。薬草の見分け方も、調合の加減も、ここ数ヶ月で見違えるほどだった。

「王太子妃様と呼ばれるの、まだ慣れないでしょう」

 アイリスが、からかうように笑う。

「うん、正直まだ変な感じ」

 江理も、苦笑して答えた。

 周りの呼び方は変わっても、やっていることは、これまでとそう変わらない。

 それが、江理には何より嬉しかった。

 ◇

「エリー! 結婚式、たのしかったねー!」

 窓の外から、光の粒が飛び込んできた。ノアだった。後ろから、ピコやミトたちも続いてくる。

「あの日は、みんなにもお祝いしてもらったね。ありがとう」

『まだ、おいわいたりない!』

 ロトが、腕を組むような仕草をしてみせる。

「まだ何かするつもりなの?」

『ないしょ!』

 妖精たちは、そう言い残すと、診療所の中をひとしきり飛び回ってから、また窓の外へ出ていった。

「相変わらず、賑やかですね」

 アイリスが、その様子を見て笑う。

「うん。でも、あの子たちがいると、なんだか安心する」

 江理は、窓の外を見ながら呟いた。

 召喚されたばかりの頃、初めて姿を見せてくれたのも、妖精たちだった。誰にも見えないものが見える、という孤独を、最初に埋めてくれたのも。

 結婚しても、王太子妃になっても、妖精たちとの関係だけは、あの頃から何も変わっていない。

 それが、江理には妙にありがたかった。

 夕暮れ、診療所の片付けをしていると、ノアがまた一羽、窓辺に戻ってきた。

『エリー、しあわせ?』

 唐突な問いに、江理は手を止めた。

「どうして、そんなこと聞くの?」

『みんなで、しんぱいしてたから』

「心配?」

『いそがしそうだから』

 ノアの光が、少しだけ弱く瞬いた。

 江理は、その光にそっと手を伸ばした。

「大丈夫。忙しいけど、幸せだよ」

『ほんとう?』

「本当」

 その答えに、ノアの光が、ぱっと明るくなった。

『よかったー! じゃあ、また!』

 窓の外へ飛んでいく光を見送りながら、江理は小さく笑った。

 妖精たちにまで気にかけてもらえる自分は、案外、幸せ者なのかもしれない。

 ◇

 夕方、公務を終えたオジーが、診療所に顔を出すことがあった。

「今日は、どうだった」

「腰を痛めたおばあさんと、擦り傷の子どもと、あとは風邪気味の人が二人」

「相変わらず、忙しいな」

「オジーの方が忙しいでしょ」

 二人で軽口を交わしながら、帰り道を歩く。

 城下の通りには、灯りが一つずつ点り始めていた。

「江理」

「うん」

「幸せか」

 唐突な問いに、江理は少し驚いた。

「急にどうしたの」

「いや、聞いてみたくなっただけだ」

 江理は、しばらく考えてから答えた。

「うん。幸せだと思う」

「そうか」

 オジーの表情が、柔らかく緩んだ。

「なら、よかった」

 ◇

 その夜、城の一室で、江理はマーサに呼ばれていた。

「体調は、どうだい」

「変わりないです。忙しいですけど、楽しいです」

「そうかい」

 マーサは、しばらく江理を見つめていた。

「無理はしてないだろうね」

「してません」

「あんたは、無理してないつもりで無理をする質だからね」

 その指摘に、江理は苦笑するしかなかった。

「気をつけます」

「そうしな」

 マーサは、卓の上に置かれた茶を、江理の前へ押し出した。

「これ、飲んどきな。疲れが溜まらないようにする薬草だよ」

「そこまでしてもらわなくても」

「いいから、飲みな」

 有無を言わせぬ調子に、江理は素直に湯呑みを受け取った。

 ほのかに苦く、それでいて後味の良い香りが、口の中に広がる。

「美味しいです」

「だろう。うちの若い頃からの秘伝だよ」

 マーサは、満足げに頷いてから、それ以上は何も言わなかった。

 けれど、その目には、いつもより少しだけ、気にかけるような色があった。

 ◇

 夜、寝台に横になりながら、江理はこれまでの日々を振り返っていた。

 召喚された日から、ここまで、随分と遠くまで来た。

 診療所を始めた頃の不安も、城塞での日々も、皇宮での慌ただしさも、建国の忙しさも、今はどれも、確かな道の一部になっている。

「江理」

 隣で、オジーが小さく声をかけた。

「うん?」

「これからも、よろしく頼む」

「こちらこそ」

 窓の外には、静かな夜が広がっていた。

 この穏やかさが、いつまでも続くように。

 そう願いながら、江理は静かに目を閉じた。

 ◇

 その翌朝、診療所に集まった妖精たちの様子が、いつもと違った。

「今日は、みんな揃ってどうしたの?」

 江理が尋ねると、ノアが不思議そうに首を傾げた。

『エリー、なんかちがう』

「違う?」

『うん。いつもと、におい、ちがう』

 ピコが、江理の周りをぐるりと飛び回る。

『ひかりも、ちょっとちがう』

「光?」

 江理には、自分の体から何か発しているようには思えなかった。

「よく分からないけど、体調は悪くないよ」

『わるいんじゃなくて、ちがうの』

 ノアが、もどかしそうに言葉を探す。

『あたらしい、ひかり?』

 その一言に、江理は動きを止めた。

「新しい、光?」

 診療所の隅で聞いていたアイリスが、目を丸くした。

「エリーさん、それって……」

「ううん、まさか」

 そう答えながらも、江理の胸の奥で、何かが小さく音を立てていた。

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