第七十二話 穏やかな日々
結婚してから、ひと月が過ぎた。
江理の一日は、これまでとそう変わらなかった。
朝は診療所で患者を診て、昼過ぎからは城で公務の一部に顔を出し、夕方には薬草の記録をまとめる。
「エリー様、今日の分の記録です」
アメリアが、几帳面な字で書かれた紙を差し出す。
「ありがとう、アメリア」
マーサの元で学び始めたアメリアは、着実に力をつけていた。薬草の見分け方も、調合の加減も、ここ数ヶ月で見違えるほどだった。
「王太子妃様と呼ばれるの、まだ慣れないでしょう」
アイリスが、からかうように笑う。
「うん、正直まだ変な感じ」
江理も、苦笑して答えた。
周りの呼び方は変わっても、やっていることは、これまでとそう変わらない。
それが、江理には何より嬉しかった。
◇
「エリー! 結婚式、たのしかったねー!」
窓の外から、光の粒が飛び込んできた。ノアだった。後ろから、ピコやミトたちも続いてくる。
「あの日は、みんなにもお祝いしてもらったね。ありがとう」
『まだ、おいわいたりない!』
ロトが、腕を組むような仕草をしてみせる。
「まだ何かするつもりなの?」
『ないしょ!』
妖精たちは、そう言い残すと、診療所の中をひとしきり飛び回ってから、また窓の外へ出ていった。
「相変わらず、賑やかですね」
アイリスが、その様子を見て笑う。
「うん。でも、あの子たちがいると、なんだか安心する」
江理は、窓の外を見ながら呟いた。
召喚されたばかりの頃、初めて姿を見せてくれたのも、妖精たちだった。誰にも見えないものが見える、という孤独を、最初に埋めてくれたのも。
結婚しても、王太子妃になっても、妖精たちとの関係だけは、あの頃から何も変わっていない。
それが、江理には妙にありがたかった。
夕暮れ、診療所の片付けをしていると、ノアがまた一羽、窓辺に戻ってきた。
『エリー、しあわせ?』
唐突な問いに、江理は手を止めた。
「どうして、そんなこと聞くの?」
『みんなで、しんぱいしてたから』
「心配?」
『いそがしそうだから』
ノアの光が、少しだけ弱く瞬いた。
江理は、その光にそっと手を伸ばした。
「大丈夫。忙しいけど、幸せだよ」
『ほんとう?』
「本当」
その答えに、ノアの光が、ぱっと明るくなった。
『よかったー! じゃあ、また!』
窓の外へ飛んでいく光を見送りながら、江理は小さく笑った。
妖精たちにまで気にかけてもらえる自分は、案外、幸せ者なのかもしれない。
◇
夕方、公務を終えたオジーが、診療所に顔を出すことがあった。
「今日は、どうだった」
「腰を痛めたおばあさんと、擦り傷の子どもと、あとは風邪気味の人が二人」
「相変わらず、忙しいな」
「オジーの方が忙しいでしょ」
二人で軽口を交わしながら、帰り道を歩く。
城下の通りには、灯りが一つずつ点り始めていた。
「江理」
「うん」
「幸せか」
唐突な問いに、江理は少し驚いた。
「急にどうしたの」
「いや、聞いてみたくなっただけだ」
江理は、しばらく考えてから答えた。
「うん。幸せだと思う」
「そうか」
オジーの表情が、柔らかく緩んだ。
「なら、よかった」
◇
その夜、城の一室で、江理はマーサに呼ばれていた。
「体調は、どうだい」
「変わりないです。忙しいですけど、楽しいです」
「そうかい」
マーサは、しばらく江理を見つめていた。
「無理はしてないだろうね」
「してません」
「あんたは、無理してないつもりで無理をする質だからね」
その指摘に、江理は苦笑するしかなかった。
「気をつけます」
「そうしな」
マーサは、卓の上に置かれた茶を、江理の前へ押し出した。
「これ、飲んどきな。疲れが溜まらないようにする薬草だよ」
「そこまでしてもらわなくても」
「いいから、飲みな」
有無を言わせぬ調子に、江理は素直に湯呑みを受け取った。
ほのかに苦く、それでいて後味の良い香りが、口の中に広がる。
「美味しいです」
「だろう。うちの若い頃からの秘伝だよ」
マーサは、満足げに頷いてから、それ以上は何も言わなかった。
けれど、その目には、いつもより少しだけ、気にかけるような色があった。
◇
夜、寝台に横になりながら、江理はこれまでの日々を振り返っていた。
召喚された日から、ここまで、随分と遠くまで来た。
診療所を始めた頃の不安も、城塞での日々も、皇宮での慌ただしさも、建国の忙しさも、今はどれも、確かな道の一部になっている。
「江理」
隣で、オジーが小さく声をかけた。
「うん?」
「これからも、よろしく頼む」
「こちらこそ」
窓の外には、静かな夜が広がっていた。
この穏やかさが、いつまでも続くように。
そう願いながら、江理は静かに目を閉じた。
◇
その翌朝、診療所に集まった妖精たちの様子が、いつもと違った。
「今日は、みんな揃ってどうしたの?」
江理が尋ねると、ノアが不思議そうに首を傾げた。
『エリー、なんかちがう』
「違う?」
『うん。いつもと、におい、ちがう』
ピコが、江理の周りをぐるりと飛び回る。
『ひかりも、ちょっとちがう』
「光?」
江理には、自分の体から何か発しているようには思えなかった。
「よく分からないけど、体調は悪くないよ」
『わるいんじゃなくて、ちがうの』
ノアが、もどかしそうに言葉を探す。
『あたらしい、ひかり?』
その一言に、江理は動きを止めた。
「新しい、光?」
診療所の隅で聞いていたアイリスが、目を丸くした。
「エリーさん、それって……」
「ううん、まさか」
そう答えながらも、江理の胸の奥で、何かが小さく音を立てていた。




