第六十四話 灯り
馬車が動き出しても、アメリアはずっと外の景色を見ていた。
「怖くないですか」
江理が声をかけると、アメリアは小さく首を振った。
「怖いというより……不思議な気分です。あの屋敷を出るのが、何年ぶりか」
「そんなに?」
「五年、いえ、もっとかもしれません」
その言葉に、江理は言葉を失いかけた。
マイミが、静かに口を挟んだ。
「これから、ゆっくり慣れていけばいいですよ」
「ゆっくり……。そんなふうに言ってもらえるのは、久しぶりです」
アメリアは、膝の上で手を握った。
「あの屋敷では、いつも急かされてばかりでした。もっと早く、もっと確実に、もっと」
そこで言葉を止め、小さく笑った。
「すみません、昔の話です」
「昔の話、これから少しずつ聞かせてください」
江理がそう言うと、アメリアは驚いたような顔をした。
「聞いても、いいのですか」
「はい。話したくなったら、いつでも」
馬車の中に、柔らかい沈黙が満ちた。
◇
シアンに着くと、門の前でオジーが待っていた。
「マイミ、無事に戻ったか」
「ただいま。この人が、アメリアさん」
紹介されたアメリアは、慌てて頭を下げようとした。
「そんな、畏まらなくていいですよ」
オジーがそう言うと、アメリアはますます恐縮した様子になった。
「殿下に、そのような」
「殿下って柄でもないので、普通にしてください」
軽い調子で返すオジーに、江理の頬が緩んだ。
その日の夕方、シアンの広間で、簡単な顔合わせの席が設けられた。
ライリー、マーサ、ミラ、オジー。それに、江理とマイミ。
「よく来た」
ライリーが、静かにそう言った。
「行き先のことは、まだ決めていないと聞いている。ここに、いる間は、好きに過ごしてくれ」
「ありがとうございます」
深く頭を下げるアメリアに、マーサが近づいた。
「あんたの手、見せてみな」
「……はい」
差し出された手を、マーサはしげしげと眺めた。指先、爪の形、皮膚の荒れ具合。
「これは、薬草を扱う手だね。しかも、随分長く」
「夫の屋敷で、薬の管理を任されておりました。効能を調べたり、保存の仕方を考えたり」
「独学かい」
「はい。専門に習ったわけでは」
「独学で、これだけの手になるもんかね」
マーサは、感心したように呟いた。
「素質、ありそうだよ」
「……私に、そんな」
アメリアは、戸惑ったように目を伏せた。
「今すぐ決めなくていい」
マーサの声は、思いのほか穏やかだった。
「まずは、ゆっくり休みな。落ち着いて、それでも何かやりたくなったら、うちに来な。逃げやしないよ」
その言葉に、アメリアの肩から、わずかに力が抜けたように見えた。
「……はい」
「急かされるのは、もう十分だろう」
マーサは、それだけ言うと、話を切り上げるように立ち上がった。
「それに、ここには他にも、薬草を扱う仲間がいる。一人でやるわけじゃない」
その言葉に、アメリアの表情が、少しだけ和らいだ。
「……ありがとうございます」
深く、頭を下げる。
その様子を見ていた江理とマイミは、顔を見合わせて小さく笑った。
「よかった」
マイミが、ぽつりと呟く。
「本当に、よかった」
その声には、安堵と、もう一つ、別の感情が滲んでいるように聞こえた。
過去を閉じ込めたまま生きてきた人が、ここでようやく、新しい一歩を踏み出そうとしていた。
窓の外では、シアンの夜が、静かに更けていく。
明日から、アメリアは、すぐに仲間になるわけではない。
それでも、いつか自分の足で戻ってこられる場所が、ここにできた。
そのことが、江理には、何よりも嬉しかった。




