第六十二話 マイミの過去
「……その名前、知ってる」
いつもより低く、静かな声だった。
「レビ・バール。私を、この世界に呼んだ人」
何も言わず、続きを待つ。
「今から話すこと、誰かに聞かれたくないんだけど、いい?」
「うん」
診療所の扉に、鍵をかけた。
しばらく自分の手を見つめてから、マイミが口を開いた。
「私を呼んだのは、レビさんっていう召喚士。でも、その人に頼んだのは、別の人だった」
「辺境伯……じゃないんだよね」
「うん。辺境伯様は、たぶん何も知らない」
静かに、マイミが続ける。
「私を呼んだのは、辺境伯領内に住む、下位の貴族。エイモス・クレイグっていう人」
「エイモス」
「最初は、ただの実験だったんだと思う。異世界人には、特別な力が宿ることがあるって、噂を聞いてたみたい。何人か、召喚を試させてたらしくて」
「何人か?」
「うん。詳しくは分からない。でも、私の前にも、後にも、他の誰かがいたはず」
言葉が、出てこなかった。
「私が呼ばれたとき、エイモスは、すぐに気づいたんだと思う。私が、ただの人間じゃないって」
「……女神級の力」
「そう。それが分かった瞬間、扱いが変わった」
その声は淡々としていて、それがかえって重く響いた。
「最初は、丁重だったの。綺麗な服を着せられて、部屋も用意されて。でも、だんだん、力を使えって言われるようになった」
「力って」
「治せとか、祝福しろとか、もっと出せとか」
小さく、マイミが息を吐く。
「そのうち、エイモスが言い出したの。息子の、カイルの正妃にするって」
「正妃……」
「力も、血筋も、家に取り込むつもりだったんだと思う。断ったら、屋敷から出してもらえなくなった」
「レビさんは」
「呼んでくれた人。あの日から、一度も会ってない」
その言い方に、江理は察した。
「……殺されたの?」
「たぶん。証拠を消すために」
静かに、マイミが頷いた。
「私、それを聞いたとき、初めて本当に怖くなった。呼んでくれた人さえ、消されるんだって」
部屋に、しばらく沈黙が落ちた。
「でも、逃げられたんだよね」
江理がそう言うと、マイミの表情が、少しだけ緩んだ。
「アメリアさんが、助けてくれた」
「アメリアさん?」
「エイモスの奥さん」
遠くを見るような目で、マイミが言う。
「最初は、逆らえない人だった。でも、私がどんどん追い詰められていくのを見て、耐えられなくなったんだと思う。ある晩、こっそり呼び出されて」
「――ここから、お逃げなさい」
その言葉を、マイミはそのまま口にした。
「逃げる道と、お金と、着替えをくれた。皇宮へ行くかどうかは、自分で決めなさいって」
「皇宮には、行かなかったんだね」
「行けなかった」
首を、マイミが振った。
「貴族に捕まって、次は皇帝を頼れって言われても、無理だった。権力を持ってる人は、みんな同じに見えたから」
「それで、帝都で」
「身分も、名前も隠して、踊り子になった」
そこで初めて、マイミが少し笑った。
「エイトに出会うまで、誰にも本当のこと、話してなかった」
「エイトさんには」
「あの人は、何も聞かなかったから」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
「私が誰でも、何を持ってても、関係なかった。ただの踊り子だと思って、それでも好きになってくれた」
「だから、信じられたんだね」
「うん」
マイミが頷く。
「江理ちゃんにも、いつか話さなきゃって思ってた。同じ、呼ばれた側だから」
「話してくれて、ありがとう」
静かに、そう伝えた。
「アメリアさんは、今」
「分からない。あれから、一度も」
マイミの声に、初めて迷いが滲んだ。
「もし生きてるなら……会いたい。でも、どんな顔をしていいか、分からない」
窓の外は、もう暗い。
マイミの手を、そっと握った。
「今度、一緒に探してみよう」
「……うん」
小さな声が、静かな部屋に落ちた。




