第五十九話 領地を回るオジー
馬車の窓から、見慣れない畑が流れていく。
「今日は、アガットの視察だ」
地図を膝の上で広げながら、ライリーが言った。
「作物の育ちが悪いという報告が来ている。理由を見てこい」
「一人で、ですか」
その声に、緊張が滲んでいた。
「俺も同行する。だが、話を聞くのはお前だ」
江理は、その様子を診療所の帰りに聞いただけだった。実際にその場に立ち会ったわけではない。
後になって、オジーの口から、あるいはライリーからの伝聞で、少しずつその日の出来事を知ることになる。
◇
「作物が育たないのは、水が足りないからです」
アガット村の農夫は、疲れた顔でそう言った。
「では、井戸を増やせば」
そう答えると、農夫が首を振った。
「井戸の話じゃありません。用水路です。去年の嵐で崩れたきり、直っていない」
「……分かりました。すぐに手配します」
その場で、モリスに指示を出そうとする。
「待て」
静かに、ライリーが止めた。
「お前は今、何を約束した」
「用水路の修復を」
「誰が、どの予算で、いつまでにやる」
オジーは、言葉に詰まった。
「……決めていません」
「決めずに約束するな」
静かな声だったが、容赦はなかった。
「お前の一言は、もう子供の戯言じゃない。国の言葉だ。守れない約束をすれば、次からお前の言葉は誰も信じなくなる」
周りにいた村人たちの前で、何も言い返せなかった。
馬車に戻ってからも、オジーはしばらく黙り込んでいた。
「……悪かった」
ようやく口を開いたのは、村を出てしばらくしてからだった。
「分かればいい」
それ以上、追及はなかった。
「では、明日もう一度アガットへ行け。今度は、予算と期日を決めてから約束しろ」
「もう一度、行くんですか」
「逃げるのか」
「……行きます」
その返事に、迷いはなかった。
◇
その夜、シアンの一室で、オジーは机に向かって何かを書きつけていた。
「まだ起きてたの?」
様子を見に来た江理が声をかけると、オジーは顔も上げずに答えた。
「明日、もう一度アガットへ行く」
「聞いたよ、今日のこと」
「……父上から?」
「うん」
少し気まずそうに、ペンを置く。
「情けないところ、見られたな」
「そう思う?」
「思うだろ、普通」
江理は、机の上に広げられた紙を覗き込んだ。
用水路の修復にかかる日数、必要な人手、予算の見積もり。子供の字ではない、真剣な字が並んでいた。
「情けないとは思わないよ」
「なんで」
「間違えたあと、ちゃんと直そうとしてる。それは、情けないことじゃないと思う」
しばらく、オジーは黙って江理を見ていた。
「……江理って、たまに、そういうこと言うよな」
「そういうことって?」
「別に」
オジーは、また紙に目を落とした。
「明日は、ちゃんとやる」
「うん」
江理は、部屋の隅にある椅子に腰を下ろした。
「私も、ここにいていい?」
「……何で」
「見てるだけ。邪魔はしない」
少し困ったような顔をしたが、追い出しはしなかった。
しばらく、ペンの音だけが部屋に響いた。
予算の見積もりを見直し、線を引いては書き直す。時折、地図を広げて距離を測る。
子供のような仕草はどこにもなかった。
「これ、明日また父上に確認してもらうんだ」
ふと、オジーが呟いた。
「一人で決めていいわけじゃないから」
「ちゃんと分かってるんだね」
「昨日、あれだけ言われれば分かる」
苦笑いを浮かべたその顔は、いつもの子供っぽさと、それでも少し違って見えた。
部屋を出る間際、江理は振り返った。
机に向かうオジーの背中は、いつもより少しだけ大きく見えた。




