第四十八話 誰でも診られる場所
「先生、こちらをご覧ください」
マルコが広げたのは、一枚の図面だった。
商会の店から少し離れた場所に、細長い建物が描かれている。
「王都の外れに、使われていない倉庫がございます。元は薬草の保管庫だったので、造りもしっかりしています」
「ここを、病院に?」
「はい。改装すれば、十分な広さが確保できます」
江理は、図面に描かれた間取りを、一つずつ目で追った。
診察室がいくつか。処置をする部屋。薬を保管する棚。そして、待合のための広い空間。
「入り口が、二つあるんですね」
「ええ。お気づきになりましたか」
マルコが頷いた。
「一つは、位の高い方向けの入り口。もう一つは、市井の方向けです」
「別々にする必要、ありますか?」
江理が問うと、マルコは少し困った顔をした。
「本音を申し上げますと、貴族の方々の中には、庶民と同じ入り口を嫌がる方も少なくありません。先生のお考えとは、また別の現実がございます」
「……そうですか」
江理は、しばらく考えた。
理想だけでは、物事は動かない。それは、この世界に来てから、何度も学んだことだった。
「分かりました。入り口は、二つのままで」
「よろしいのですか」
「ただし」
江理は、図面の中央を指した。
「中に入ったら、同じ医師が、同じように診ます。順番も、症状の重さで決めます。位で決めません」
マルコの表情が、少し緩んだ。
「先生らしいご判断です」
「それと、診察室は、いくつかに分けたいです」
「分ける、と申しますと」
「外科と、内科と……婦人科も、別にしたいです」
「婦人科、ですか」
マルコが、少し意外そうな顔をした。
「はい。色々な事情で、言いにくいことも多いので」
江理は、後宮での日々を思い出しながら言った。
「診察室が分かれているだけで、来やすさが違うと思うんです」
「なるほど。それは、私には気づけない視点でした」
「あと、皮膚科も」
「皮膚の?」
「火傷や、発疹や、かぶれ。この世界に来てから、そういう患者さんが結構多いので」
江理は、城塞での火傷の治療を思い出した。
「専門にできる人がいれば、それだけ早く、的確に診られます」
マルコは、図面の余白に、その言葉を書き加えていった。
「それと、人手が足りません」
江理は、現実的な問題に話を移した。
「私一人じゃ、無理です。エイトさんとマイミさんに頼めれば心強いですが、二人ともピーコック村の診療所があります」
「そこも、考えてございます」
マルコが、別の紙を取り出した。
「王都で、医術を学びたいという若者を集めています。レイモンド殿にもご相談し、宮廷医の見習いだった者の中から、志のある者を紹介いただきました」
「育てる、ということですか」
「はい。すぐには一人前になりませんが、時間をかければ」
江理は、その紙に並んだ名前を見た。
知らない名前ばかりだった。それでも、これから知っていく名前になるのだと思うと、不思議な気持ちになった。
「テオ君みたいな人たちが、増えるんですね」
「ええ。まさに、そのような」
二人はしばらく、図面を挟んで話し込んだ。
薬草の仕入れ先。運営の資金。診察の記録をどう残すか。
考えることは、山ほどあった。それでも、一つずつ形になっていく感覚は、悪いものではなかった。
話が一段落した頃、扉が叩かれた。
「エリー様」
リーゼルだった。その顔が、いつもより明るい。
「サラ様より、言付けを預かってまいりました」
「サラ様が?」
「はい。レイモンド先生に診ていただいたところ、ご懐妊が確かなものになったと」
勢いよく、立ち上がっていた。
「本当ですか」
「はい。サラ様が、真っ先にエリー様へお伝えしたいと」
江理は、その場にしばらく立ち尽くした。
三年間、誰にも分かってもらえなかった悩み。それが、今日、確かな喜びに変わった。
「よかった」
声に出すと、じんわりと、胸の奥が熱くなった。
マルコが、静かに微笑んでいる。
「先生」
「はい」
「この病院にも、いずれこういう日が、何度も来るのでしょうね」
「そうだといいです」
江理は、図面にもう一度目を落とした。
まだ、何も建っていない。ただの、紙の上の線でしかない。
それでも、そこには確かに、これから生まれる場所の輪郭があった。
窓の外では、王都の空が、夕暮れに染まり始めていた。
マルコを見送ったあと、江理は一人、窓辺に立った。
思えば、遠くまで来たものだった。
異世界に落ちてきた日、目指していたのは、ただ日本へ帰ることだけだった。
それが今は、王都の空の下で、まだ建ってもいない病院の図面を眺めている。
ピーコック村の診療所。城塞のアトリエ。そして、この王都に生まれようとしている、新しい場所。
帰りたい場所は、数えるたびに増えていく。
いつか本当に帰れる日が来たら、今度はここへも、また戻ってこよう。
江理は、そう静かに思った。
図面を丁寧に畳み、明日また続きを話そうと、心の中で決めた。




