第四十七話 商会の店
あの晩から、三週間ほどが経った朝のことだった。
「エリー先生」
リーゼルに案内されて入ってきたサラは、どこか落ち着かない様子だった。
「どうされました?」
「あの……月のものが、まだ来ていないんです」
江理はサラの記録を開いた。
「予定より、どのくらい遅れていますか」
「十日ほどです」
「他に、何か変わったことは?」
「少し、匂いに敏感になった気がします。それと、朝になると気持ちが悪くなることがあって」
江理は記録へ目を落とした。
月経の遅れ。匂いへの過敏。朝の吐き気。
妊娠初期に見られることのある症状ではある。
だが、それだけで決めつけることはできない。
「妊娠している可能性はあります」
サラが息を呑んだ。
「本当ですか」
「ただ、まだ分かりません。サラ様はもともと周期にばらつきがありますし、月のものが遅れる理由は妊娠だけではありません」
「……はい」
「一度、レイモンド先生にも診ていただきましょう。それから、しばらく体調と月のものの記録を続けてください」
サラはゆっくりと頷いた。
「期待しても、いいのでしょうか」
江理はすぐには答えなかった。
三年間待ち続けてきた人に、軽々しく期待を持たせることはできない。
「可能性はあります」
それだけを、はっきりと伝えた。
サラの目に涙が浮かんだ。
「それだけでも、十分です」
両手で、江理の手を握る。
「あなたに出会えて、本当によかった」
「まだ結果は分かりません」
「はい。それでも」
サラは涙を拭った。
「三年間、何も分からないまま待っていました。でも今は、少なくとも前に進んでいる気がするんです」
江理は静かに頷いた。
今度こそ、そうであってほしい。
けれど、それを口にすることはしなかった。
◇
その日の午後、江理はリーゼルとともに、帝都ローズの商業区へ向かった。
護衛が数名つくことになったが、皇宮の外を歩けるようになっただけでも、随分と気持ちが違う。
目的の店は、大通りの一角にあった。
看板には、見覚えのある紋章が掲げられている。ピーコックブルーをあしらった、シンプルな意匠だった。
「ここ、なんですか?」
「マルコ様の商会でございます」
扉を開けると、中は想像していたよりも広かった。
棚には、江理が考案した医療用品が並んでいる。
三角巾、包帯、消毒に使う器具。
それぞれのそばには、使い方を説明する紙まで添えられていた。
さらに奥には、実際に使い方を試せる場所が設けられている。腕を吊る方法を教えるための台や、包帯の巻き方を練習するための人形まであった。
その隣には薬草茶を出す小さな一角があり、別の棚には香りのよい入浴剤が並んでいる。
「これ……」
江理は店内を見渡した。
いつかマルコと話したことがある。
医療用品をただ売るだけではなく、見て、触れて、使い方まで知ることのできる場所。
あの時はまだ、話の一つにすぎなかった。
それが今、目の前に形になっている。
「エリー先生!」
奥から、聞き覚えのある声がした。
「マルコさん」
久しぶりに会うマルコは、以前より少しふくよかになっていた。
「帝都にいらっしゃると聞いて、いつかお会いできればと思っていました」
江理は、もう一度店内を見渡した。
「これ、あの時に話していた……」
「ええ。先生のお考えを、形にしてみました」
マルコは誇らしげに店内を見る。
「三角巾の実演は、特に評判がいいんです。医療用品だけを並べた店では入りにくいという、先生のお話も参考にしました」
「薬草茶と、入浴剤もあるんですね」
「そちらは、アイリス様のお知恵を大いにお借りしました」
江理は棚に並んだ入浴剤の一つを手に取った。
どこか覚えのある香りがする。
「これ……」
「お気づきになりましたか」
マルコが笑う。
「以前、アイリス様が先生のために作られたものを元にしています。作り方を教えていただいて、数を作れるようにしました」
「そうだったんですね」
「今では、貴族のご婦人方にも評判ですよ」
自分がこの世界へ来たばかりの頃、アイリスが作ってくれたもの。
それが今では、遠く離れた帝都の店に並んでいる。
不思議な気持ちだった。
「先生」
マルコの声が、少し改まった。
「実は、もう一つご相談したいことがあります」
「なんですか?」
「この店を始めてから、医療用品を求めて来る方々の話を聞く機会が増えました」
江理は黙って続きを待った。
「怪我をしても、どこへ行けばよいのか分からない者。医師に診てもらうだけの金がない者。薬だけを買って、自分で何とかしようとする者もいます」
江理の表情が変わった。
「そこで考えたのです」
マルコは言った。
「この店をきっかけに、帝都にも、身分や財産にかかわらず治療を受けられる場所を作れないかと」
江理はマルコを見つめた。
「それ……」
「先生も、同じことを?」
「はい」
答えは、すぐに出た。
「ずっと考えていました」
村では、小さな診療所から始めた。
城塞でも、敵味方を分けずに負傷者を診た。
皇宮では、王族の治療にも関わった。
けれど、医療を必要としているのは、そのどこにも属さない人たちも同じだった。
「詳しい話を、聞かせてもらえますか」
「もちろんです」
マルコに案内され、店の奥へ向かう。
商品の並んだ棚の間を歩きながら、江理はもう一度店内を見渡した。
一つの考えが誰かに渡り、その人の手で形になり、さらに別の誰かへ届いていく。
あの小さな村で始めたことが、いつの間にか帝都ローズまで来ていた。
この店の先に、次は何が生まれるのだろう。
窓から差し込む午後の光が、棚に並んだ品々を静かに照らしていた。




