第四十六話 三年分の答え
ルイスの診療記録が届いたのは、会議が始まって数日後のことだった。
「幼少期の高熱の記録、見つかりました」
レイモンドが、古い紙の束を卓に置く。
江理は一枚ずつ目を通していった。
六歳の頃、十日近く高熱が続いたという記録がある。原因は不明のまま、自然に熱は引いたと書かれていた。
「これだけですか」
「当時の記録は、これで全てです」
その一文を、何度も読み返す。
――高熱が長引いた。原因不明。
可能性はいくつか考えられるが、これだけでは何も断定できない。
「殿下は、その後の体調に、何か変わったことはありませんでしたか」
「特には」
少し考えてから、ルイスが答える。
「強いて言えば、その頃から、汗をかきにくくなったような」
「汗?」
「暑い日でも、あまり汗をかかない。母上に、変わっていると言われたことがあります」
江理はその情報を書き留めた。
高熱との関連があるのか、それとも全く別のことなのか。今ある情報だけでは分からない。まして、それを現在の不妊と結びつけるだけの根拠はなかった。
「殿下」
「はい」
「今日は、もう少し違うことを聞かせてください」
「違うこと?」
「サラ様と、いつ、どのくらいの頻度で夫婦の時間を過ごされていますか」
部屋の空気が、少し固まった。
レイモンドが咳払いをする。
「エリー殿」
「大事なことなので」
江理は表情を変えなかった。
「はっきり言いますね。子どもができるかどうかを考えるなら、女性の体だけを診ていても分かりません。男性の体のことも、夫婦がいつ、どのくらい一緒に過ごしているのかも、両方考える必要があります」
「それは……」
少し言いにくそうに、ルイスが口を開く。
「決まった夜がある。公務の都合で、月に数えるほどしか」
「その夜は、いつ決めていますか」
「特に決まりはない。互いの都合が合う夜に」
「サラ様の月のものについて、意識されたことはありますか」
「いや」
江理は、卓に広げたサラの記録へ目を落とした。
「サラ様には、ここ数か月、月のものが始まった日や体調の変化を記録してもらっていました」
「それで、何か分かったのですか」
「まだ、はっきりとは」
江理はそう前置きした。
「女性の体には、ひと月の中でも、子どもができやすい時期と、そうでない時期があります」
「そんなことが、分かるのですか」
「ある程度は。ただ、サラ様は周期にばらつきがあります。ですから、月のものの日付だけを見て、この日だと正確に決めることはできません」
「では、分からないのですか」
「これから記録を続けながら、体調の変化も一緒に見ていけば、ある程度の目安はつけられると思います」
ルイスは、卓の上に置かれた記録を見つめた。
「……三年間」
呆然とした声で、ルイスが呟く。
「私たちは、そんなことも知らずに三年間……」
「殿下」
江理は静かに遮った。
「これが原因だと決まったわけではありません」
ルイスが顔を上げる。
「三年間、お子様ができなかった理由は、今の私にも分かりません。他に理由があるかもしれませんし、いくつものことが重なっている可能性もあります」
「……そうですか」
「でも、一つだけ言えることがあります」
「何でしょう」
「サラ様だけの問題として考えるべきではありません」
ルイスは黙った。
「お子様を望むなら、殿下にも一緒に取り組んでいただく必要があります」
「私にも」
「はい」
江理は頷いた。
「サラ様だけが薬を飲んで、サラ様だけが体を調べられて、結果が出なければまた別の薬を試す。それでは駄目です」
レイモンドが、わずかに目を伏せた。
これまで皇宮で行われてきた治療を責めたいわけではない。
知られていなかったことを、知らなかっただけなのだ。
「これからは、お二人で考えてください」
しばらくして、ルイスが深く息を吐いた。
「……サラに、ずいぶん長い間、一人で背負わせていたのですね」
江理は何も答えなかった。
それは、ルイス自身が考えるべきことだと思った。
「教えていただいて、感謝します」
「まだ始まったばかりです」
「ああ」
ルイスは、サラの記録をもう一度見た。
「今度は、私も一緒に考えます」
その言葉に、江理は静かに頷いた。
◇
その晩、サラが再び江理の部屋を訪れた。
「殿下から、伺いました」
「はい」
サラは椅子に腰を下ろしたまま、しばらく自分の手を見つめていた。
「私、ずっと自分の体が悪いんだと思っていました」
江理は黙って続きを待った。
「薬を飲んでも子どもができない。診てもらっても、また次の薬を出される。それでも駄目なら、私の体に何か問題があるんだって」
「サラ様」
「三年間、ずっと」
その声が震えていた。
江理はゆっくりと首を振った。
「まだ、原因が分かったわけではありません」
サラが顔を上げる。
「でも、サラ様だけの問題として考えることではありません。女性だけに原因があるとは限りませんし、男性側に理由があることもあります。二人とも健康なのに、なかなか授からないことだってあります」
「でも、私は……」
「サラ様が悪かったわけではありません」
江理は、はっきりと言った。
「少なくとも、自分を責め続ける必要はありません」
サラの目から、涙がこぼれた。
「……そんなことを言われたのは、初めてです」
江理は何も言わず、そばに置いてあった布を差し出した。
「まだ、結果は分かりません」
「はい」
「だから、絶対に大丈夫だとは言えません。でも、これからできることはあります」
サラは涙を拭いながら、何度も頷いた。
「殿下も、一緒に考えると仰っていました」
「……ルイス様が?」
「はい」
サラは目を伏せた。
その表情に浮かんだものは、もう悲しみだけではなかった。
その晩、一人になった江理は、二人の記録をもう一度見返した。
三年という月日は、もう戻らない。
そして、まだ答えが見つかったわけでもない。
それでも、三年間一人で背負っていたものを、これからは二人で背負うことができる。
何も分からないまま待つのとは、きっと違う。
それだけでも、少し前へ進んだのだと思う。
窓の外には、帝都ローズの夜が広がっている。




