第四十五話 新しい国の話
「エリー殿にも、同席してもらいたい」
皇帝からそう告げられたのは、指輪の一件から数日後のことだった。
「私が、ですか」
「そうだ。此度の話が動くきっかけとなった一人でもある」
何の話なのか、その時の江理にはまだ分からなかった。
通されたのは、これまでの謁見の間とは違う、落ち着いた部屋だった。
丸い卓を囲んで、アーサー皇帝、マーサ、ライリー、オジーがすでに座っている。
卓上には、大きな地図が広げられていた。
江理も席を勧められ、その端に腰を下ろす。
地図には、これまで見たことのないほど広い範囲が描かれていた。村や街の名らしい文字がいくつも並び、その中央より東寄りに、大きく印のつけられた場所がある。
「これは……?」
「ルベライト帝国の地図だ」
アーサーが答えた。
「ルベライト……帝国」
江理は、その名を小さく繰り返した。
考えてみれば、この世界へ来てから、自分がいる国の名前すらきちんと聞いたことがなかった。
「では、ここは?」
大きな印を指す。
「帝都ローズだ。今、我々がいる場所だ」
「ローズ……」
ようやく、自分が今どこにいるのかを知った。
ピーコック村から始まり、城塞へ行き、ガルド卿に連れ去られて皇宮まで来た。
けれど江理にとって、この世界はずっと、出会った人と目の前の場所だけでつながっていた。
それが初めて、一枚の地図の上に置かれていく。
「では、続けよう」
皇帝が口を開いた。
「先日の非礼、改めて詫びる。此度は、以前よりライリー殿と話していた件について、改めて話をしたい」
ライリーが静かに頷いた。
「以前より、と仰いますと」
江理が尋ねると、ライリーが答えた。
「陛下から、前々に打診されていた話だ。俺たちが新しい国を興すという」
「……新しい、国?」
江理は耳を疑った。
アーサーは卓上の地図へ目を落とした。
「現在のルベライト帝国を、東西二つに分ける」
「え?」
江理も地図を見る。
アーサーの指が、広大な帝国の中央付近をゆっくりと縦断した。
「東はこれまで通り、ルベライト帝国として残す。そして西を帝国から分離し、新たな王国とする」
江理はしばらく、その地図を見つめた。
どこか遠くに、新しい土地を得て国を作るという話ではない。
今ある帝国そのものを、二つの国に分けるというのだ。
「……そんなことが、できるんですか」
「容易ではない」
アーサーは答えた。
「だからこそ、これまで何度も話し合ってきた」
ライリーが腕を組んだまま、地図を見ている。
「俺は断ってきた」
「どうしてですか」
「国を持つつもりなどなかったからだ」
短い答えだった。
アーサーがその言葉を引き取った。
「だが、今のままではいずれ、ライリー殿たちの存在が、この帝国に再び争いを生む可能性がある」
「争い……」
「王位の正統性の問題だ」
皇帝は隠さずに言った。
「ライリー殿は、かつてこの国を治めていた王家の血を引いている。本来ならば、私より王位に近い立場にあった」
言葉が出てこなかった。
旧王家。
継承を巡る争い。
マーサ。
公爵の城。
城塞。
そして、オジーから渡された指輪。
これまで江理が見聞きしてきたものが、少しずつ一本の線につながっていく。
――この人たち。
やっぱり、山賊なんかじゃなかった。
「……そう、だったんですか」
小さく漏れた声に、誰も驚かなかった。
「先生」
オジーが江理を見る。
「黙ってて、悪かった」
「ううん」
江理は首を振った。
「知らなかったのは、私だけだったんですね」
「先生には、言えなかった」
ライリーが答えた。
「知れば、余計なものを背負わせることになる」
「余計なもの?」
「旧王家の事情だ」
アーサーが続けた。
「これは、我々の父親たちの代から続いている問題でもある」
江理は黙って聞いていた。
「だが、先日のガルドの一件で、今の状態を続けることにも限界があると分かった」
アーサーの指が、地図の一点を示す。
「ライリー殿たちが暮らす城塞を、帝国内に存在する正体の定まらぬ武装勢力として扱う者がいる限り、同じことが繰り返される可能性がある」
江理は、ガルド卿の裁きの日にライリーが言った言葉を思い出した。
――いつまでも、このままではいられない。
あの言葉は、このことだったのだ。
「それで……」
江理はライリーを見る。
「新しい国を作るんですか」
「ああ」
ライリーは迷わなかった。
「今度は受ける」
マーサが静かに息を吐いた。
アーサーは何も言わず、ライリーの次の言葉を待っている。
「俺自身が王になることに、興味はない」
ライリーの視線が、隣に座るオジーへ向いた。
「だが、こいつがいずれ継ぐ国なら、作る意味はある」
「俺が?」
オジーが目を見開いた。
「まだ十七だ。今すぐお前に国を背負わせるつもりはない」
ライリーは続けた。
「最初は俺が王として立つ。国を整えて、お前が背負えるようになるまで繋ぐ」
「父さん……」
「その先は、お前が決めろ」
オジーはすぐには答えなかった。
江理も、思わずその横顔を見つめていた。
十七歳。
いつも真っ直ぐで、時々危なっかしくて、思ったことをそのまま口にする青年。
そのオジーが、いずれ一つの国を背負う。
まだ、うまく結びつかなかった。
「新しい王国の王太子となり、いずれライリー殿から王位を継ぐ」
アーサーが静かに言った。
「それが、私からの提案だ」
オジーはしばらく黙っていた。
やがて、江理を見る。
「……先生は、どう思う」
「私に聞くの?」
「ああ」
江理は少し考えた。
「オジーが決めることだと思う。私が決めていいことじゃない」
「それでも、聞きたい」
その目は真剣だった。
「……もしオジーが、大事な人たちを守れる場所を作りたいと思うなら」
江理はゆっくりと言った。
「私は、応援したい」
オジーの表情が、ほんの少し緩んだ。
そして、アーサーとライリーを見る。
「分かった」
一度、息を吸う。
「俺が継ぐ」
ライリーは何も言わなかった。
ただ、静かに頷いた。
アーサーも深く頷く。
「では、その前提で話を進めよう」
皇帝の手が、再び地図へ戻った。
「まず国境を定めなければならない」
江理も地図へ目を落とす。
西側には、見覚えのある地名があった。
「……ピーコック村」
「ああ」
ライリーが答えた。
「ピーコック村は、新しい王国に入る」
「村が……」
「いずれ、あそこを王都にする」
「王都?」
思わず聞き返した。
あの小さな村が。
イアンの家があって、診療所があって、アイリスやハンナたちが暮らしている、あのピーコック村が。
「すぐに大きな都になるわけじゃない」
ライリーが言った。
「時間をかけて育てていく」
アーサーの指が、さらに別の場所へ移る。
「そして、こちらがシアンだ」
「シアン?」
江理には聞き覚えのない地名だった。
「先生が城塞と呼んでいた場所だ」
オジーが言った。
「え?」
「あそこには、ちゃんと名前がある」
「知らなかった……」
「言ってなかったからな」
江理はもう一度地図を見る。
ピーコック。
シアン。
自分がこの世界へ来てから暮らしてきた場所が、これから一つの国になる。
「シアンは副都とする予定だ」
アーサーが説明した。
「元はシアン公爵の領地だ。新王国の西側を支える重要な都市になる」
江理は、マーサを見る。
「シアン公爵って……」
「兄だよ」
マーサがあっさり答えた。
「……お兄さん?」
また一つ、知らなかったことが増えた。
「詳しい話は、またいずれね」
マーサはそれ以上語らなかった。
アーサーが地図へ視線を戻す。
「国境をどこに定めるか。どの領地をどちらの国に属させるか。貴族、軍、税、交易路についても決めねばならない。東西で国力に大きな差が生じぬよう、土地の生産力や人口も考慮する必要がある」
「……大変ですね」
「国を二つにするのだ。当然だ」
その一言で、江理にもようやく、この話の大きさが少しだけ分かった。
「すぐに建国、というわけではないんですね」
「ああ。しばらく時間がかかる」
アーサーは答えた。
「その間、ライリー殿たちには皇宮に留まってもらう。必要な協議を進めたい」
江理はオジーを見る。
しばらくは、ここにいる。
そう思った時、自分でも理由の分からない安堵が胸に落ちた。
その日から、皇宮では新しい国を作るための話し合いが始まった。
地図に線が引かれ、消され、また引き直される。
ピーコック村は、いずれ王都ピーコックへ。
城塞は、副都シアンへ。
ライリーは、新しい国の王に。
そしてオジーは、その王位を継ぐ王太子になる。
江理が知っていた人たちも、場所も、何一つ変わっていないはずなのに。
少しずつ、違うものに見え始めていた。




