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異世界転移した女医ですが、帰りたいのは元の世界だけではなくなりました ~辺境の村から始まる異世界診療記~  作者: 滝内亜依
第3章 攫われた先の皇宮で、まさかの主治医になっちゃった。

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第三十九話 皇太子妃

「どうぞ。入ってもらってください」

 江理がそう言うと、リーゼルは一瞬だけ困ったような顔をした。

「エリー様。その……」

「どうしました?」

「こちらへお通ししてよい方なのか、私にも少し……」

「え?」

 相談したい女性がいるのではなかったのだろうか。

 江理が首を傾げていると、廊下から別の女性の声がした。

「構いません。わたくしがこちらへ伺うと言ったのです」

 リーゼルが慌てて脇へ退く。

 入ってきたのは、江理と同じくらいか、少し若い女性だった。

 淡い金色の髪を丁寧にまとめ、薄い水色のドレスを身につけている。

 その後ろには、二人の侍女。

 服装だけでも、これまで相談に来た女性たちとは明らかに違った。

 ――偉い人だ。

 それだけは、江理にも分かった。

「初めまして、エリー先生」

「初めまして」

 江理も立ち上がる。

 女性は穏やかに微笑んだ。

「サラと申します」

「エリ・マエムラです。皆さんからはエリーと呼ばれています」

「存じております」

「え?」

「皇宮では今、あなたのお名前を知らない女性の方が少ないのではないでしょうか」

「そんなにですか?」

 リーゼルを、思い切って見る。

 リーゼルがそっと目を逸らした。

 ――そんなに広まってるんだ。

 江理としては、相談に来た人の話を聞いていただけなのだが。

「どうぞ、座ってください」

 いつものように椅子を勧める。

 ところが、リーゼルが小声で江理を呼んだ。

「エリー様」

「はい?」

 耳元で囁かれる。

「サラ様は、皇太子妃殿下でございます」

「…………」

 江理はサラを見る。

 サラは少しだけ困ったように笑っている。

「皇太子妃?」

「はい」

「皇太子って……」

 皇帝の次。

 そのくらいは江理にも分かる。

「皇太子ルイス殿下の正妃でいらっしゃいます」

「…………」

 江理はもう一度サラを見た。

「すみません」

「何がでしょう?」

「普通に座ってくださいって言っちゃいました」

 サラが目を丸くした。

 それから、ふっと笑った。

「座ってはいけないのですか?」

「いえ。座ってください」

「では、そういたします」

 サラは素直に椅子へ腰掛けた。

 侍女たちは少し驚いた顔をしていたが、サラ本人は楽しそうだった。

 ◇

「それで、今日はどうされました?」

 江理が尋ねると、サラの表情から笑みが消えた。

「……子どものことで」

「はい」

「わたくしはルイス殿下と婚姻して、三年になります」

 江理は黙って続きを待った。

「ですが、まだ子を授かっておりません」

「そうですか」

「王家に嫁いだ以上、世継ぎを産むことは、わたくしの役目です」

 サラの手が、膝の上で重なる。

「わたくしは隣国から嫁いでまいりました。父も母も、我が国の者たちも、当然それを望んでおります」

 ――大国の王女。

 以前、リーゼルから聞いたことがあった。

 サラの婚姻には、二つの国の関係も絡んでいる。

「何人もの医師に診ていただきました」

「どんなことを言われました?」

「身体が冷えている。血の巡りが悪い。心を穏やかに保つように、と」

「薬は?」

「何種類も」

「今も飲んでいますか?」

「はい」

「あとで、何を飲んでいるのか確認させてもらってもいいですか?」

「もちろんです」

 江理は紙を用意した。

「月経について聞いてもいいですか?」

 サラの表情がわずかに強張る。

「……月のもの、でしょうか」

「はい」

「それも、関係があるのですか?」

「あるかもしれません。ないかもしれません。まず知りたいんです」

 江理はいつものように質問した。

 初めて月経が来た年齢。

 周期。

 どれくらい続くのか。

 出血の量。

 痛み。

 最近変化があったか。

 サラは最初こそ言葉を選んでいたが、少しずつ答えてくれた。

「毎月ではありません」

「どのくらい空くことがあります?」

「ひと月ほどの時もあれば、ふた月近く来ないことも」

「来た時の痛みは?」

「強い時があります」

「寝込むくらい?」

「……はい」

 江理の手が止まった。

「出血は多いですか?」

「多いと思います」

「塊のようなものが出ることは?」

 サラは少し驚いたあと、小さく頷いた。

「あります」

「それを、今まで診てもらった先生には話しました?」

「……いいえ」

「どうして?」

 サラは答えなかった。

 その沈黙だけで、江理にはなんとなく分かった。

「言いにくかった?」

「……はい」

 小さな声だった。

「男性の先生方に、そのようなことまで申し上げるのは……」

「そうですよね」

 江理はそれ以上追及しなかった。

 ――まただ。

 医師がいないわけではない。

 宮廷医たちは、きちんと患者を診ている。

 レイモンドと話して、それは分かった。

 知識もある。

 経験もある。

 けれど。

 医師がいても、話せなければ診察は始まらない。

「サラ様」

「はい」

「今のお話だけで、子どもができない原因が分かったとは言えません」

 サラの顔が少し曇る。

「そう、ですか」

「はい。分からないものは、分かりません」

 江理ははっきり言った。

「ただ、月経が不規則なことと、強い痛みや出血があることは、一度きちんと調べた方がいいと思います」

「では、やはりわたくしの身体に問題が?」

「それも、まだ分かりません」

「ですが――」

「それに」

 江理は一度言葉を切った。

「妊娠できない原因が、女性にあるとは限りません」

 サラが瞬きをした。

「……え?」

「子どもは、女性一人ではできませんから」

「それは……もちろん、そうですが」

「だったら、妊娠しない理由だって、女性だけを調べて終わりにはできません」

 部屋が静かになった。

 リーゼルも、侍女たちも黙っている。

 サラだけが、江理を見つめていた。

「男性にも、原因があると?」

「あります」

「……男性に?」

「はい」

 江理にとっては、ごく普通の話だった。

 けれどサラにとっては違ったらしい。

「今まで、そのようなことを言われたことはありません」

「そうなんですね」

「医師たちは皆、わたくしに薬を飲むようにと」

「その薬が悪いとは限りません。私にはまだ、この国の薬を全部判断できませんから」

 今日、レイモンドから教わったばかりだ。

「でも、少なくともサラ様だけの責任だと決めることはできません」

「責任……」

 サラがその言葉を繰り返す。

「私の世界では、夫婦の両方を調べます」

「ルイス殿下も?」

「必要なら」

 侍女の一人が息を呑んだ。

 江理はそこで、ようやく気づいた。

 ――皇太子を診察するって、簡単に言っちゃいけないやつかな。

「もちろん、私が勝手に診るという意味じゃないですよ」

 慌てて付け加える。

「宮廷医の先生とも相談しないといけませんし。そもそも、こちらの世界でどこまで調べられるかも分からないので」

「……エリー先生」

「はい」

「一つ、聞いてもよろしいでしょうか」

「どうぞ」

「もし」

 サラがゆっくりと口を開いた。

「もし、わたくしが子を産めなかったとしても」

 声が少し震えた。

「それは、わたくしが妻として劣っているということでしょうか」

 江理はすぐには答えなかった。

 医師として答えられること。

 答えられないこと。

 それを分ける。

「妻としてどうかは、私には分かりません」

 サラの目が揺れる。

「私は、サラ様とルイス殿下がどんな夫婦なのか知りませんから」

「……はい」

「でも」

 江理は続けた。

「子どもを産めるかどうかで、人としての価値が決まるとは思いません」

 サラは黙っていた。

「少なくとも、私は医者なので」

 江理は少し笑った。

「目の前にいる人を、子どもを産める人かどうかで診ません」

 サラが俯いた。

 長い沈黙のあと。

「……困りました」

「え?」

「泣くつもりではなかったのです」

 サラが目元を押さえた。

 侍女が慌てて布を差し出す。

「すみません」

「どうして先生が謝るのですか」

「いや、なんとなく……」

 サラは涙を拭きながら笑った。

 ◇

 その後、江理はサラが現在飲んでいる薬を確認した。

 知らないものが多い。

 だから、その場では判断しなかった。

「これはレイモンド先生に聞いてみます」

「宮廷医長に?」

「はい。今日、いろいろ教えてもらったんです」

「……レイモンド先生が?」

「すごく詳しかったですよ」

「もちろん、宮廷医長ですから」

「ですよね」

 江理は薬の名前を書き留めた。

「あと、月経の記録をつけてもらっていいですか?」

「記録?」

「いつ始まったか。何日続いたか。出血の量。痛み。体調。分かる範囲で大丈夫です」

「皇后様がなさっているものですね」

「知ってるんですか?」

「母上から伺いました」

「母上?」

 江理が首を傾げる。

 サラが微笑んだ。

「セレネ皇后様は、わたくしの義母です」

「ああ」

 言われてみれば当然だった。

 皇太子の母なのだから。

「皇后様が、エリー先生に相談してから随分楽になったとおっしゃっていました」

「まだ少しですけどね」

「それでも、母上がご自身の体調についてあれほど楽しそうに話されるのは、久しぶりでした」

 サラは立ち上がった。

「今日は、ありがとうございました」

「いえ。また何かあったら来てください」

「ええ」

 扉の前まで行ったサラが、ふと振り返った。

「エリー先生」

「はい?」

「ルイス殿下にも、今日のお話をしてよろしいでしょうか」

「もちろんです。ご夫婦のことですから」

「そうですか」

 サラは少し考えたあと、微笑んだ。

「きっと、殿下もあなたにお会いになりたがると思います」

「私に?」

「ええ」

「どうして?」

 サラは答えず、小さく笑った。

「では、また」

 扉が閉まった。

 江理はしばらく、その扉を見つめていた。

「……リーゼルさん」

「はい」

「皇太子って、どんな人?」

 リーゼルが目を丸くする。

「ルイス殿下ですか?」

「うん」

「とても聡明で、お優しい方ですよ」

「へえ」

 江理は何気なく答え、サラの記録へ視線を戻した。

 月経不順。

 強い疼痛。

 多量の出血。

 不妊については、まだ何も分からない。

 まずレイモンドに相談する。

 必要なら、他の宮廷医にも。

 そして――。

「夫側も、か」

 江理は小さく呟いた。

 その時はまだ。

 自分がそう遠くないうちに、その皇太子本人を診ることになるとは思っていなかった。

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