第三十八話 宮廷医
翌朝。
江理が皇后の部屋へ向かうと、いつもとは違う人物がいた。
五十代くらいだろうか。
灰色の髪をきちんと後ろへ撫でつけ、濃紺の上着を着た男が、セレネの向かいに座っている。
江理が入ると、男は立ち上がった。
「エリー。こちらへ」
セレネに呼ばれ、江理はいつもの椅子へ向かう。
「こちらは、宮廷医長のレイモンドです」
「レイモンド・ヘイズと申します」
男は静かに頭を下げた。
「エリ・マエムラです」
江理も頭を下げる。
――宮廷医長。
少し、身構えた。
ここ数日、後宮の女性たちが次々と江理を訪ねている。
宮廷医たちからすれば、突然現れた異世界人が勝手に患者を診ているように見えてもおかしくない。
「エリ殿」
「はい」
「皇后様から、あなたが作った記録を見せていただきたいと伺いました」
「記録ですか?」
「ええ」
思っていた言葉と違った。
江理はセレネを見る。
「見せてもよろしいでしょう?」
「もちろんです」
リーゼルが卓の上へ紙の束を置いた。
セレネの体調を記録したものだ。
いつ眠ったか。
夜中に何度目を覚ましたか。
ほてりや発汗が起きた時刻。
月経の有無。
食事。
気分。
その日に本人が困ったこと。
レイモンドは一枚ずつ、時間をかけて読んだ。
「……これは、すべてあなたが?」
「最初に項目を決めました。毎日の記録は、リーゼルさんにも手伝っていただいています」
「痛みや不快感まで記すのですね」
「はい」
「しかし、それは本人にしか分からないものでは?」
「だから記録するんです」
レイモンドの手が止まった。
江理は続けた。
「熱なら測れます。傷なら見れば分かります。でも、痛みや気分の悪さは本人にしか分かりません。だから本人に聞いて、変化を見るしかありません」
「なるほど」
レイモンドは再び紙へ目を落とした。
「我々は、患者の脈や顔色、舌、体温などを診ます。無論、痛む場所も尋ねます。しかし、日々の変化を本人の言葉で残すという発想は、あまりありませんでした」
「私のいたところでは、経過を見るためによく記録していました」
「異世界の医術ですか」
「その一つ、だと思います」
江理は少し考えた。
「でも、私もこちらの医療については知らないことばかりです」
「ほう」
「皇后様の症状には、この国ではどんな薬を使うんですか?」
今度はレイモンドが江理を見る番だった。
「私に尋ねるのですか」
「はい」
「あなたは、皇后様の症状を改善させたと聞いておりますが」
「生活を少し変えただけです。薬は使っていません」
「なぜです」
「知らないからです」
レイモンドが瞬きをした。
「こちらにどんな薬があって、どう作用するのか、私はほとんど知りません。知らない薬を患者さんには使えません」
セレネが、わずかに笑った。
「この方は、初めて会った時からそうなのです」
「皇后様?」
「分からないことは、分からないとおっしゃるのですよ」
「……なるほど」
レイモンドの口元も、ほんの少し緩んだ。
「では、我々が使うものをお見せしましょう」
「本当ですか?」
「皇后様の治療について相談するために、私はここへ呼ばれたのですから」
レイモンドが持ってきた革の鞄を開いた。
中には、小さな包みや瓶がいくつも入っている。
「眠りの浅い者には、こちらを使うことがあります」
乾燥した葉だった。
江理は手に取らず、覗き込む。
「これは?」
「ヨネ草です。煎じて飲ませます。眠りを深くする作用があります」
知らない植物だった。
「副作用は?」
「……副作用?」
「飲みすぎた場合や、体に合わない場合に起こることです」
「ああ。それなら、量が多ければ翌朝まで眠気が残ることがあります。まれに吐き気を訴える者も」
「なるほど」
江理は紙を一枚取った。
「書いてもいいですか?」
「もちろん」
薬草の名前。
使用量。
使い方。
期待される作用。
分かっている好ましくない作用。
江理が次々と書いていくのを、レイモンドが不思議そうに見ている。
「すべて記すのですか」
「忘れますから」
江理は即答した。
セレネが小さく笑った。
「エリーでも忘れるのですね」
「忘れますよ。だから書くんです」
それから、話は思いのほか長く続いた。
汗やほてりに使う薬草。
痛みに使う薬。
腹部の不調に使うもの。
レイモンドが説明し、江理が質問する。
時には江理が、
「その薬は妊娠している人にも使いますか?」
と尋ね、
「いや、妊婦には使わぬ」
と返ってくる。
「どうしてですか?」
「昔、それを飲んだ妊婦が何人も出血したという記録があります」
江理はすぐに紙へ書き加えた。
――ちゃんと蓄積されてる。
薬の名前も理論も、日本とは違う。
けれど、この世界の医師たちも、長い時間をかけて経験を積み重ねてきたのだ。
当然といえば当然のことだった。
「面白いですね」
その一言に、レイモンドが眉を上げた。
「面白い?」
「はい。私の知らないことばかりなので」
「あなたの世界の方が、進んだ医術を持っているのではないのですか」
「得意なことが違うんだと思います」
江理は薬草の記録を見る。
「私の世界には、こういう薬草をそのまま使うことはあまりありませんでした。成分を調べて、薬にしていましたから」
「せいぶん?」
「あー……」
江理は少し悩んだ。
「薬草の中にある、体に作用するものだけを取り出すような感じです」
「そのようなことができるのですか」
「できます。ただ」
江理は笑った。
「私には作れません」
「作れない?」
「私は医者なので。薬を開発する人ではありません」
レイモンドはしばらく江理を見たあと、低く笑った。
「あなたは、随分とはっきりしていますな」
「よく言われます」
セレネとリーゼルまで笑った。
◇
皇后の診察が終わったあと、レイモンドが江理を呼び止めた。
「エリ殿」
「はい」
「一つ、聞いてもよろしいか」
「どうぞ」
「あなたは、ピーコック村で医療を行っていたと聞きました」
「はい」
「一人で?」
「いいえ」
江理は首を横に振った。
「医師は、私を入れて四人います」
「四人も?」
「はい。私と、マイミさんと、エイトさんと、テオです」
「……エイト?」
レイモンドの表情が変わった。
江理は首を傾げる。
「エイト・クロフォードさんです」
沈黙が落ちた。
「ご存じですか?」
「……知っているも何も」
レイモンドは額へ手を当てた。
「エイト・クロフォードは、かつてこの皇宮で最も優れた医師の一人だった男です」
「やっぱり有名なんですね」
「やっぱり?」
「マーサさんも知っていたので」
レイモンドの手が、ゆっくりと下りた。
「……マーサ?」
「はい。城塞にいる薬師さんです。すごく詳しいんですよ。薬草も魔法も」
レイモンドが、顔を上げた。
「城塞の、マーサ殿」
「ご存じですか?」
返事はなかった。
レイモンドは口を開きかけ、そのまま黙り込んだ。
「レイモンド先生?」
「……いえ」
声が、わずかに掠れていた。
「同じ名の方でしょう。昔、皇宮にも一人、おられましたので」
「そうなんですか」
「……そうですか。エイトが、ピーコック村に」
「はい」
「今も医師を?」
「もちろんです」
江理は笑った。
「すごいですよ。私が分からないこともたくさん知ってますし。薬も詳しいですし」
「……そうでしょうな」
レイモンドの声が、少しだけ懐かしそうになった。
「皇宮を去ってから、どうしているのかと思っていました」
「あ」
江理は思い出した。
「マイミさんと一緒にいます」
「マイミ?」
「エイトさんの奥さんです」
「…………妻?」
「はい」
「エイトが、結婚したのですか」
「そうですけど」
なぜそこまで驚くのだろう。
レイモンドはしばらく天井を見上げた。
「……なるほど」
「何がですか?」
「いや。こちらの話です」
江理には、よく分からなかった。
◇
その日の午後。
江理の部屋には、また二人の女性が相談に来た。
一人の話を聞き終え、記録をまとめる。
レイモンドから教わった薬草についても、別の紙に書き出した。
使えるもの。
まだ分からないもの。
自分だけでは判断してはいけないもの。
少しずつ、この世界の医療が見えてくる。
――エイトさんがいたら、もっと聞けるのにな。
マイミにも相談したい。
マーサにも。
アイリスなら、この薬草を見ただけで分かるかもしれない。
みんなの顔を思い浮かべて、少しだけ胸が痛くなった。
帰りたい。
その気持ちは、何も変わっていない。
けれど。
「エリー様」
リーゼルが扉から顔を出した。
「もうお一方、ご相談したいという方がお見えです」
「はい」
江理は反射的に立ち上がった。
そして、一歩歩いてから止まる。
――本当に、私、何やってるんだろう。
自分で少し笑ってしまった。
「どうぞ。入ってもらってください」
まだ江理は知らなかった。
自分を迎えに来る人々が、すでに帝都へ向かっていることを。




