第三十六話 言えなかったこと
翌日から、江理は毎朝、皇后の部屋へ通うことになった。
最初にしたのは、記録を作ることだった。
「紙をいただけますか」
そう頼むと、リーゼルが上等すぎる紙の束を運んできて、江理を困らせた。
いつ、どんな症状が出たか。どのくらい続いたか。その日の眠りはどうだったか。食事は摂れたか。
「これを、毎日?」
「はい。皇后様ご自身でなくても、リーゼルさんでも構いません」
「こんなことを書いて、何になるのです」
「お体の変わり方が見えてきます」
江理は紙の端を指でなぞった。
「たとえば、汗がひどい日が決まった時間に多いなら、その時間だけ上に羽織るものを薄くすればいい。眠れない日が食事の量と関係しているなら、夕餉を変えればいい。当てずっぽうで何かを試すより、ずっと早く楽になります」
皇后は半信半疑の顔をしていたが、リーゼルが「私が書きます」と即答したので、その日から記録が始まった。
あわせて、できることから手をつけた。
厚着を重ねるのをやめ、脱ぎ着しやすい着方にすること。寝る前に体を冷ましておくこと。ぬるい湯をこまめに飲むこと。夜中に目が覚めても、無理に寝ようと焦らないこと。
どれも、薬ですらない。
「こんなことで、変わるものですか」
「劇的には変わりません。でも、少し楽になります」
五日ほど経った朝、皇后が言った。
「昨夜は、目が覚めたのが一度きりでした」
それだけのことに、この人がどれほど安堵しているのか、声の調子で分かった。
噂が広がるのに、時間はかからなかった。
最初に訪ねてきたのは、三十を少し過ぎたくらいの側妃だった。リーゼルが取り次いだとき、その人は扉の前で何度もためらっていた。
「あの……皇后様を診ていらっしゃる方と伺って」
「はい。どうぞ、お掛けください」
側妃は椅子に座ってからも、しばらく何も言わなかった。
江理は急かさなかった。紙を広げ、筆を持ったまま待った。
「……月のものが、重いのです」
やっと出てきた声は、小さかった。
「量が多くて、痛みも強くて。ひどい日は、半日も起き上がれません」
「それは、いつ頃からですか」
「もう、何年も」
「お医者様には」
側妃が、うつむいた。
「一度だけ、申し上げました」
「……何と?」
「女の体とはそういうものだ、と」
江理は筆を止めた。
「それから、お医者様の前でその話をするのが、恥ずかしくなってしまって」
――そうか。
江理は、ようやく分かった気がした。
この皇宮の医師は、みな男性だ。そして高名で、地位も高い。その人たちの前で、月のものが重いだの、下腹が痛いだの、若い女性が口にできるだろうか。一度「そういうものだ」と言われてしまえば、なおさらだ。
だから、誰にも言えないまま、何年も耐えている。
「話してくださって、ありがとうございます」
「え?」
「言いにくいことだったと思います」
側妃が、目を丸くした。それから、その目元がみるみる赤くなった。
その日、江理は詳しく話を聞いた。周期、量、痛みの出る場所と時期、その時に何ができなくなるのか。
「量が多い状態が続くと、血が足りなくなります。立ちくらみや動悸はありませんか」
「……あります。よく、あります」
「それも、たぶん繋がっています」
鉄分を多く含む食べ物を意識して摂ること、痛みの強い日の過ごし方、体を温める工夫。今この場でできる助言を、一つずつ伝えた。
薬草については、ここでは扱えるものが分からない。マーサなら、アイリスなら、すぐに答えが出るのに。
「もっと良い手立てがあるはずなんです。私が知らないだけで」
そう漏らすと、側妃は首を横に振った。
「いいえ。……聞いてくださっただけで、十分です」
次の日は、二人が来た。その次の日は、四人になった。
悩みは、驚くほど重なっていた。
月のものの不調。子ができないこと。産んだあとに戻らない体。人には言えない場所の痛み。そして、そのどれもが「そういうものだ」で片づけられてきたこと。
なかには、明らかに医師の診察が必要な人もいた。
「これは、私の手には余ります。腹の中を診られる方に、きちんと見てもらった方がいい」
「では、宮廷医に」
「はい。私からも、必要だとお伝えします」
自分で抱え込まないこと。それだけは、最初に決めていた。
一週間が過ぎる頃には、江理の部屋には毎日誰かが訪ねてくるようになっていた。
窓辺に椅子を二つ置き、卓に紙と筆を用意する。それだけの、粗末な診察室だ。
けれど、そこで話される内容は、この皇宮のどこでも話されたことのないものばかりだった。
「エリー様」
その日の最後の一人を送り出したあと、リーゼルが茶を運んできた。
「後宮の皆様が、すっかりエリー様を頼りにされています」
「そう見えます?」
「はい。……皆様、ずっと我慢しておいででしたから」
江理は椅子に深くもたれ、天井を見上げた。
帰る手立ては、相変わらず何もない。
皇帝からの沙汰もない。城塞やピーコック村の様子も分からない。
それなのに、朝から晩まで、患者のことばかり考えている。
「……私、何やってるんだろう」
小さく呟いた。
けれど、明日来る人の名前は、もう頭に入っていた。




