第三十五話 皇宮の朝
皇宮に来て、三日が過ぎた。
与えられた部屋は快適だった。食事は三度きちんと運ばれ、湯を使うこともできる。着替えまで用意されていた。
ただ、外へは出られなかった。
庭へ下りるだけでも、扉の外にいる女官に断りが要る。そして断ると、決まってこう返ってくる。
「陛下のご指示を仰いでまいりますので、しばらくお待ちください」
待っても、返事は来ない。
三日目の朝、江理は窓辺に立って、手入れの行き届いた庭を眺めていた。
――客扱いなのか、囚人扱いなのか、はっきりしないな。
少なくとも乱暴にはされていない。けれど、帰してもらえる気配もない。
左手の指輪を、無意識に親指で撫でる。ここへ来てから、何度もそうしていることに、自分でも気づいていた。
扉が軽く叩かれた。
「エリー様。お召し替えを」
入ってきたのは、初日から世話をしてくれている年若い女官だった。名をリーゼルという。
「あの、リーゼルさん。私、いつまでここにいるんでしょうか」
「……申し訳ございません。私には、分かりかねます」
毎日、同じ答えだった。責める気にはなれない。彼女に決められることではないのだから。
「その代わり、と申しますか」
リーゼルが、言いにくそうに続けた。
「本日、皇后様がお呼びです」
案内されたのは、これまで通された広間とはまるで違う、こぢんまりとした部屋だった。
窓辺に、あの日の女性が座っていた。皇帝の傍らでガルド卿を叱責した人だ。
「よく来てくれました。掛けなさい」
「失礼します」
勧められた椅子に腰を下ろす。
「先日は、嫌な思いをさせました」
皇后は、まずそう言った。
「人を献上などと。あのような口上を、わたくしの前でさせてしまったこと、恥ずかしく思います」
「……いえ」
江理は言葉を探した。
「助けていただいたのは、私の方です。あの時、皇后様が止めてくださらなかったら、どうなっていたか」
「止めるのが当然のことです」
それからしばらく、当たり障りのない話が続いた。江理の出身のこと、村での暮らしのこと。皇后は熱心に聞き、時折、意外なところで感心した。
やがて、話が途切れた。
皇后が、膝の上で手を組み直す。
「エリー殿。医師だと聞きました」
「はい」
「女性の体のことも、診られますか」
その問い方に、江理は姿勢を正した。
「専門は外科です。ただ、診て、分かる範囲のことは分かります。判断がつかないことは、正直に分からないと申し上げます」
皇后は、少しだけ目を見開いた。
「分からないと言う医師は、珍しいこと」
「分かったふりをして治療する方が、怖いので」
その答えに、皇后の表情が初めて和らいだ。
「では、聞いてくれますか」
「はい」
「この半年ほど、どうにも体が言うことを聞きません」
皇后は、言葉を選びながら話し始めた。
急に体が熱くなり、汗が止まらなくなること。夜、何度も目が覚めること。理由もなく気分が沈み、些細なことで苛立つこと。月のものの間隔が、以前と変わってきたこと。
「歳のせいだと言われました」
「宮廷のお医者様に?」
「ええ。何人かに」
「それで、終わりですか」
「それで、終わりでした」
江理は、膝の上で手を握った。
歳のせいで片づけられた。その一言が、胸の奥に引っかかる。ここでも同じなのか、と思った。
「皇后様。失礼を承知でお伺いしますが、他に気になっていることはありますか。体のことでも、眠りのことでも、どんなことでも」
皇后が、少し驚いたようにこちらを見た。
「……話しても、よいのですか」
「私が知りたいのは、皇后様がどう困っているか、です。診断はその後です」
しばらくの沈黙があった。
それから、皇后は堰を切ったように話し始めた。
一つ話すたびに、次が出てくる。医師には言えなかったこと。女官にも言えなかったこと。夫にすら言えなかったこと。
江理は口を挟まず、時折、短く問いを返しながら聞いた。
話し終えた皇后は、少し息を切らしていた。
「……こんなに話したのは、いつ以来でしょう」
「よく話してくださいました」
江理は姿勢を正した。
「お話を伺う限り、体の変わり目に起こることの範囲だと思います。年齢のせい、と言われたこと自体は、間違いではありません」
「やはり、そうですか」
「ですが」
江理は続けた。
「間違いではないことと、我慢しなければならないことは、別です」
皇后が、江理の顔を見た。
「眠れないなら、眠れるようにする方法があります。汗がつらいなら、和らげる手立てもあります。気分の落ち込みも、体の変化から来ているのなら、それを知っているだけで、ずいぶん違います」
「……治るのですか」
「元に戻る、という意味では、治すものではありません。誰にでも起こることですから」
江理は、まっすぐに皇后を見た。
「でも、楽にすることはできます。少なくとも、我慢しろとは言いません」
皇后は、しばらく何も言わなかった。
やがて、その目元がわずかに潤んだのを見て、江理は初めて気づいた。
この人は、体の不調よりも、誰にも分かってもらえないことの方が、ずっとつらかったのだ。
「エリー殿」
「はい」
「また、来てくれますか」
江理は、答えに詰まった。
帰りたい。今すぐにでも帰りたい。けれど今、目の前に患者がいる。
――結局、いつもこれだ。
小さく息を吐いて、江理は頭を下げた。
「必要でしたら、いつでも」
部屋を辞して廊下に出ると、リーゼルが待っていた。その顔が、来た時より明るい。
「エリー様。皇后様が、あんなに長くお話しになるのは、久しぶりでございます」
「そうなんですか」
「はい。……ありがとうございます」
窓の外では、皇宮の庭に朝の光が満ちていた。
帰る手立ては、まだ何もない。
それでも江理は、明日の診察に何を用意しようかと、もう考え始めていた。




