第三十四話 献上物
馬の背に押さえつけられたまま、どれだけ走ったのか分からなかった。
日が沈み、また昇った。途中で何度か馬を替え、そのたびに江理は荷物のように移された。口の布は外されたが、両手は縛られたままだ。
「水を」
そう頼むと、兵の一人が黙って革袋を差し出した。乱暴ではなかった。むしろ、どう扱っていいか決めかねている、という手つきだった。
――城下で、私が手当てしてた人かもしれない。
そう思ったが、確かめる気にはなれなかった。
二日目の夕方、街道の先に城壁が見えてきた。
ピーコック村の何倍もの家が立ち並び、その向こうに、白い塔がいくつも突き出している。城塞の街とも違う。あれは、都だ。
「帝都だ」
誰かがそう言った。
やはり、と江理は思った。ガルド卿の領地に留め置かれるのではないらしい。
石畳の広い通りを進み、門をくぐり、また門をくぐる。連れて行かれたのは、磨かれた床がどこまでも続く、天井の高い広間だった。
縛めが解かれる。手首に食い込んでいた縄の跡が、赤黒く残っていた。
「顔を上げろ」
背後にいた兵の一人が、低い声でそう命じた。
言われるまま顔を上げると、正面の一段高い場所に、人が座っていた。
白髪の混じった髭、深い色の上着、肘掛けに置かれた手。周囲の者たちの立ち位置から、それが誰なのかは、説明されなくても分かった。
その傍らには、落ち着いた佇まいの女性が座っている。
「ガルド卿」
皇帝の声は、低く、穏やかだった。
「親戚の城には手を出すなと、触れを出したはずだが」
――親戚の、城?
江理は、その言葉を反芻した。
誰のことなのか。城塞のことを指しているのだとしたら、いったい誰と誰が親戚だというのか。
江理の斜め前で、膝をついていた男の肩が、わずかに動いた。
ガルド卿。この地の領主。道中で兵たちがそう呼んでいた男だ。
「……戦は、失敗いたしました」
「何をしに行った」
「あの者たちは、帝国の統制に従わぬ者どもにございます。討伐は、陛下の御為かと」
「誰がそれを命じた」
答えはなかった。
広間の空気が、じわりと重くなる。
「ですが陛下」
ガルド卿が顔を上げた。
「献上したき者がございます」
江理は、自分の背筋がすっと冷えるのを感じた。
「この女は、異世界より参りました女医にございます。死に瀕した者すら救うと、辺境では評判の者。ライリーの城塞にて、医師として重用されておりました」
「異世界」
「はい。左様に聞き及んでおります」
ガルド卿は、ここぞとばかりに続けた。
「かような者を捨て置けば、いずれ叛意ある者どもの力となりましょう。皇宮にてお使いいただくのが上策かと。陛下の側室にでも――」
「ガルド卿」
凛とした声が、その先を断ち切った。
声を発したのは、皇帝の傍らに座っていた女性だった。
「恥を知りなさい」
広間が静まり返る。
「戦に敗れて帰る道すがら、人を攫って手土産にする。それを献上と呼ぶのですか」
「皇后様、これは――」
「わたくしは、人を物として差し出す話を聞きたくありません」
江理は、その女性の顔を見た。
皇后。ということは、この国の一番上の女性だ。それが今、明らかにガルド卿を叱責していた。
皇帝が、深く息を吐いた。
「そなた、名は」
一瞬、自分に向けられた言葉だと気づくのが遅れた。
「……前村江理と申します」
「異世界から来たというのは、まことか」
「はい」
「医師だというのも」
「はい。外科の医師です」
皇帝は、しばらく江理を見ていた。値踏みするような目ではなかった。ただ、静かに観察されている、という感じだった。
「ガルド卿。この者を連れてきた経緯を、一字も漏らさず書き出して提出せよ。追って沙汰を下す」
「は……」
「下がれ」
ガルド卿が退出したあと、皇帝は改めて江理に向き直った。
「前村江理」
「はい」
「そなたを攫ってきた者の非は、こちらで裁く。だが、連れてこられてしまったことは、今さら消せぬ」
江理は黙って頷いた。
「まずは休め。体を診る者をやろう」
「あの」
江理は思い切って口を開いた。
「私、帰りたいんです。ピーコック村と……城塞に、待っている患者がいます」
皇帝の眉が、わずかに動いた。
「城塞、と申したか」
「はい」
「……それは、追って話そう」
それ以上は、何も言ってもらえなかった。
通された部屋は、驚くほど広かった。
寝台も、卓も、椅子も、どれも江理が今まで使ってきたどれより立派で、そのせいでかえって落ち着かない。窓からは、手入れの行き届いた庭が見えた。
扉の外には、人の気配がある。見張りだろうか。それとも、世話をする者だろうか。
江理は寝台の端に腰を下ろし、ようやく、自分の左手を見た。
青い石が、そこにあった。
縄で縛られている間も、馬に揺られている間も、誰も奪おうとしなかった。
――どうして取られなかったんだろう。
そんな疑問が、ぼんやりと頭をよぎる。
答えは出ない。代わりに浮かんできたのは、まるで別のことだった。
診療所の卓に置いたままの記録。明日診るはずだった患者の名前。マーサに教わりかけの薬の調合。今頃、みんなはどうしているだろう。
ミラの咳は、ちゃんと治っただろうか。
「……帰りたい」
声に出してみて、江理は自分でも驚いた。
この世界に来たばかりの頃、同じ言葉を何度も口にした。あの時思い浮かべていたのは、日本の病院と、家族の顔だった。
今はもう、違う。
帰りたい場所が、増えてしまっていた。




