第三十二話 その日の城下町
その日、江理は城下町の外れにある小さな家にいた。
「痛みは、朝より強いですか」
「いや、昨日よりはましだ」
寝台に横たわっているのは、六十を過ぎた元兵士の男だった。足の骨を折って以来、外へ出られないままでいる。
包帯を解き、腫れの引き具合を確かめる。骨の位置はずれていない。順調だった。
「もう少ししたら、支えながら立つ練習を始めましょう」
「立てるのか、俺は」
「ゆっくりですけどね」
男が、ふん、と鼻を鳴らす。その表情がわずかに緩んだのを、江理は見逃さなかった。
城塞へ通うようになって、ひと月ほどが経っていた。
馬車を借りてピーコック村から来る日もあれば、数日滞在する日もある。今日は他のみんなが城のアトリエにいて、マーサと薬の話をしている。江理だけが、動けない患者のところを順に回っていた。
「先生、次はどこだい」
家の外で待っていた案内役の少年が、荷物を持ち上げる。
「東の通りの、目を悪くしてるお婆さんのところ」
その時だった。
鐘が鳴った。
一度ではない。短く、何度も、打ち鳴らすように。
少年の顔から血の気が引いた。
「敵襲の鐘だ」
通りの空気が、一瞬で変わった。店の戸が閉められ、母親が子どもの手を引いて駆けていく。城壁の方から、武器を持った男たちが走ってくるのが見えた。
「先生、家の中へ!」
押し込まれるようにして、江理は今出てきたばかりの家に戻された。
外では、怒号と、馬の嘶きと、金属のぶつかる音が入り混じっている。窓の隙間から覗くと、城門のあたりに土煙が上がっていた。
寝台の男が、身を起こそうとする。
「動かないでください!」
「……どこの馬鹿だ。ここを攻めるなんざ」
男の言う通りだった。
城壁は高く、門は堅い。そして、ここには戦い慣れた人間が山ほどいる。
戦いは、思っていたよりずっと早く終わった。
鐘が鳴り止み、外の音が怒号から、指示を飛ばす声に変わっていく。江理が戸を細く開けると、通りに出てきた住民たちが、城門の方を見ながら口々に何か言っていた。
「王国の兵だってよ」
「まったく、何を考えてんだか」
追い返された、ということらしい。
江理は息を吐いた。それから、耳に入ってきた言葉に顔を上げる。
「怪我人が出てる。門の内側だ」
考えるより先に、体が動いていた。
「先生、駄目だ!」
案内役の少年が止めるのも聞かず、江理は薬箱を抱えて走り出した。
城門の内側は、まだ混乱していた。
倒れているのは、ライリーの配下の者が二人。そして、逃げ遅れたらしい、見慣れない鎧の兵士が三人。
「そこの人、腕を押さえて! 強く!」
江理は倒れている男のそばに膝をつき、出血している箇所を探した。太腿の深い切り傷。骨には達していない。
「布を! それと、水を持ってきてください!」
近くにいた男が慌てて走っていく。
止血をしながら、江理は次の負傷者に目をやった。見慣れない鎧の若い兵士が、肩を押さえて呻いている。血の量が多い。
「その人も診ます」
「先生、そいつは敵だぞ」
「知ってます」
江理は手を動かしながら答えた。
「でも、死にそうなので」
迷いはなかった。ピーコック村でも、ここでも、やることは同じだ。目の前で血を流している人間がいる。それだけだった。
若い兵士の傷口を押さえ、布を当てる。相手は驚いたような目で江理を見ていた。年は、オジーと変わらないかもしれない。
「動かないで。押さえてるから」
その時、遠くで誰かが叫んだ。
「まだ残ってるぞ! 西の通りから逃げた連中が――」
顔を上げた瞬間だった。
背後から腕を掴まれた。
振り返る間もなく、体が引きずられる。薬箱が地面に落ち、瓶の割れる音がした。
「な――」
「医者だ。この女、さっき兵に触ってた」
自分を掴んでいるのが、見慣れない鎧の男たちだと気づいたのは、馬の上に押し上げられてからだった。
「放して! 私は――」
口を布で塞がれる。腕を後ろへ回され、押さえつけられる。暴れようとしても、まるで歯が立たない。
「江理!」
声がした。
揺れる視界の端に、オジーが見えた。人を掻き分け、こちらへ向かって走ってくる。いつも生意気な顔をしている少年が、初めて見る形相で叫んでいた。
「江理! 江理っ!」
その後ろから、馬を駆るライリーの姿。
門を抜け、馬が速度を上げる。
遠ざかる。
城下町も、城壁も、追ってくる二人の姿も、みるみる小さくなっていく。
布の向こうで、江理は名前を呼び返そうとした。けれど、どんな音も外へは出ていかなかった。
左手の薬指で、青い石が、朝の光を弾いていた。




