第三十一話 二つの村と、山の城
村に戻って数日。
江理は診療所の机で、イアンと向かい合っていた。
卓の上に広げられているのは、ピーコック村とパール村、その間の道を書き込んだ大雑把な絵図だ。フィンが描いたものだという。
「もう終わったこと、で済ませるわけにはいかんからな」
イアンの声は、いつもより硬い。
壊れた家はあらかた直った。怪我人も順調に回復している。
それでも、あの夜のことを誰も忘れてはいなかった。
「私、戦いのことは何も分かりません」
江理は正直にそう言った。
「襲われないようにする方法は、私には考えられないです。でも――襲われたときに、誰をどこへ運ぶかなら決めておけます」
イアンが顔を上げた。
「運ぶ?」
「怪我人を集める場所です。あの日、どこに誰がいるのか、最後まで分かりませんでした。次にもし何かあったら、動ける人はここ、動けない人はここって決まっていた方が、早く手当てできます」
そばで聞いていたハンナが口を挟んだ。
「診療所は村の外れですから、集めるなら村の真ん中の方がいいかもしれませんね」
「集会所だな」
イアンが絵図に印をつける。
「寝かせる場所も作れますね。水と、清潔な布も置いておきたいです」
「分かった。用意しよう」
その日のうちに、フィンとアイリスを通じてパール村にも話が伝えられた。
数日後には、両村の話し合いが持たれた。
決まったのは、いくつかの簡単なことだ。
どちらかの村で異変があれば、鐘を鳴らして知らせる。
逃げ込む場所を決めておく。
怪我人は集会所へ集める。
そして薬と包帯の備えを、両方の村に置いておく。
「パール村の分は、アイリスにお願いしていい?」
江理がそう言うと、アイリスは一瞬驚いた顔をした。
「私が、ですか?」
「うん。この前、ちゃんとできてたから」
江理は頷いた。
「傷を洗って、布を替えて。深い傷や、出血が止まらなかったらすぐに知らせる。分からないことがあったら、自分だけで判断しなくていいから」
アイリスの表情が引き締まった。
「はい。任せてください」
その隣では、フィンがどこか誇らしげな顔をしている。
江理はそれを見て、少し笑った。
アイリスなら大丈夫だ。
もちろん、まだ医者ではない。
けれど江理がいないと何もできなかった頃とは、もう違う。
◇
話し合いが終わった頃、診療所の前に馬の蹄の音が響いた。
外へ出てみると、見覚えのある若い男が馬から降りるところだった。
城塞で何度か見かけた、ライリーの配下の一人だ。
「本日も周辺を見回っております。何かあれば、お知らせください」
「あの……毎日来てるんですか?」
「はい。ライリー様から、しばらく警戒を続けるようにと」
そこで男は、ほんの少しだけ間を置いた。
「……それと、オスカー様からも、くれぐれも、と」
「オジーが?」
思わず笑ってしまった。
同時に、別れ際のことを思い出す。
『江理、浮気するなよ』
耳元で言われた声まで鮮明に蘇ってきて、江理は慌てて頭から追い出した。
――浮気って、何だったんだろう。
「あの、それならパール村の方も見ていただけませんか?」
「承知しております」
「え?」
「そちらも見回るよう、命じられておりますので」
「……もう話が通ってるんですね」
「はい」
男は表情を変えずに一礼すると、再び馬に乗って去っていった。
「エリーさん」
アイリスが、遠ざかっていく背中を見つめている。
「あの人たち、毎日来てくれるんですか?」
「そうみたい」
「そこまでしてくれるんですね……」
「うん。あ、そうだ」
江理はふと思い出して、皆を振り返った。
「ライリーさんが、馬車が必要ならいつでも城塞に借りに来ていいって言ってくれたんです」
沈黙が落ちた。
「…………馬車?」
テオが呟く。
「うん。帰りも送ってもらったんだけど、すごく乗り心地が良くて。護衛の人までつけてくれて」
「どのような馬車でしたかな」
寝台から起き上がれるようになったエイトが、静かに尋ねた。
「二頭立てでした。扉に細かい飾りが入ってて……あ、座席がすごく柔らかかったです」
「……左様ですか」
エイトはそれきり口を閉じた。
「…………」
江理は、その横顔を見つめた。
「エイトさん」
「何でしょう」
「何か知ってるんじゃないですか?」
エイトは答えなかった。
「だって、さっきから反応がおかしいですよ」
「……私から申し上げるべきことではありません」
「やっぱり知ってるんですね」
「さて」
「今ので誤魔化せてませんよ」
それでもエイトは涼しい顔で茶を飲んでいる。
江理は小さく息を吐いた。
「でも……ライリーさんたちって、本当に山賊なんですか?」
その一言に、イアンが眉を動かした。
「城壁のある街に住んでいて、武器を持った人もたくさんいましたけど……なんというか、品が良くて」
「品?」
「ご家族なんて、私には貴族にしか見えなかったです。食事の作法もすごく綺麗で、私の方が緊張しました」
江理はそこで口を閉じた。
左手には、今も青い石の指輪がある。
指輪のことまでは、なぜか話す気になれなかった。
オスカーから求婚されたことまで説明することになりそうで、少し恥ずかしい。
「それに、住んでるのも、元は公爵様の冬の別荘だったお城なんだそうです」
「公爵の……」
イアンがしばらく考え込んだ。
「元々、身分のある人たちだったのかもしれんな」
「イアンさん、ライリーさんのこと、知ってたんですか?」
「名前くらいはな」
イアンは絵図を巻きながら続けた。
「この辺りで賊が出れば、あの連中が片づけてくれる。そういう話は前から聞いている。ただ、素性までは知らんよ。村長が首を突っ込む話でもない」
「そうですか……」
やはり、答えには届かない。
それでも江理の中で、一つだけはっきりしたことがあった。
「山賊っていうより……何か事情があって、あそこに住んでる人たちなんじゃないかな、って思うんです」
誰も否定しなかった。
エイトだけが、静かに茶を飲んでいた。
◇
「それで、もう一つ相談なんですけど」
話がひと区切りついたところで、江理は改めて皆を見渡した。
「マーサさんっていう薬師さんの知識、本当にすごいんです。私一人が教わるより、みんなで行った方がいいと思って」
「行きます!」
真っ先に手を挙げたのはアイリスだった。
「薬草のこと、もっと聞いてみたいです」
「私も興味あるなあ」
マイミが微笑む。
「エリーがそこまで言う薬師さんなら、私もお話ししてみたい」
「僕も行きたいです!」
テオまで身を乗り出した。
「蒸留の道具、見てみたいです」
「ハンナさんにも来てほしいです」
「まあ、私が?」
ハンナが目を丸くする。
「薬の保管とか、誰に何を渡したかとか。患者さんが増えたら、私たち医者だけじゃ絶対に回らなくなるので」
「そういうことでしたら、ぜひ」
ハンナも頷いた。
江理は最後にエイトを見る。
「エイトさんも行きませんか?」
「……ええ」
少しの間があった。
そこで江理は、もう一つ思い出した。
「そういえば、マーサさん、エイトさんのこと知ってましたよ」
エイトの手が止まった。
「……私を?」
「はい。王宮にいたお医者さんだって」
「……そうですか」
「やっぱり知り合いなんですか?」
しばらくして、エイトは小さく息を吐いた。
「いずれ、ご挨拶に伺わねばならんでしょうな」
「ご挨拶?」
「こちらの話です」
「またそれですか」
江理が眉を寄せた、そのときだった。
「そのお話、私も同行して構いませんか?」
入り口から声がした。
「あ、マルコさん」
商会の用事でピーコック村を訪れていたマルコが立っていた。
「いつから聞いてたんですか?」
「薬師の方のお話あたりからですよ」
「マーサさんのところに行きたいんですか?」
「ええ」
マルコはいつもの人当たりのいい笑みを浮かべた。
「江理先生がそこまでおっしゃる薬師なら、一度お会いしてみたいですね」
「薬草とかに興味あるんですか?」
「商人ですからね。薬草、薬、道具、保存方法。知らないものを見せていただける機会は、大切にしたいんです」
「なるほど」
江理は素直に頷いた。
「じゃあ、一緒に行きましょう。馬車も借りられるし」
「馬車を?」
「はい。ライリーさんに、必要ならいつでも城塞へ借りに来ていいって言われて――」
「……ライリー様に?」
マルコの声が変わった。
「え?」
江理は顔を上げた。
「今、様って言いました?」
「言いましたね」
「マルコさん、ライリーさん知ってるんですか?」
マルコは一瞬だけエイトを見た。
エイトもマルコを見る。
妙な沈黙だった。
「……ええ。まあ」
先に口を開いたのはマルコだった。
「商人ですので」
「有名な人なんですか?」
「知っている者は、知っています」
「何ですか、それ」
江理は眉を寄せる。
「エイトさんもマルコさんも、何か知ってるのに教えてくれないじゃないですか」
「ご本人からお聞きになるのが一番でしょう」
「エイトさんと同じこと言ってる……」
江理はがっくりと肩を落とした。
そのとき、マルコの視線がふと下がった。
江理の左手。
薬指で光る、青い石。
「…………」
「マルコさん?」
「江理先生。その指輪は?」
「ああ、これですか?」
江理は左手を持ち上げた。
「オジーにもらいました」
「……オジー?」
「ライリーさんの息子さんです。オスカー」
マルコの表情が止まった。
「…………オスカー様から?」
「はい」
江理は何でもないことのように、指輪を眺めた。
「綺麗でしょう?」
「……ええ」
マルコはしばらく指輪を見つめてから、ゆっくり頷いた。
「大変、立派なお品ですね」
「ですよね。私も、ちょっと高そうだなとは思ってるんですけど」
「ちょっと……」
マルコは何かを言いかけて、やめた。
そして再びエイトを見る。
エイトは無言で茶を飲んでいる。
「?」
江理には、二人がなぜそんな顔をしているのか分からない。
「とにかく、行く日を決めましょう」
江理は紙を引き寄せた。
「マーサさんにも、人数が増えるって伝えないと」
「そうですね」
マルコは笑顔に戻った。
「私も楽しみにしております」
ピーコック村と、パール村と、山の城塞。
三つの場所が、道と鐘と薬でつながっていく。
そしてその傍らには、いつの間にか商人まで加わろうとしていた。
江理にとってそれは、政治でも同盟でも――まして、商売の始まりでもない。
ただ、患者を守るための線だった。




