第三十話 ただいま
馬車が村の入り口に着くと、畑仕事の手を止めた誰かが、大声を上げた。
「エリー先生だ! 先生が帰ってきた!」
その声が、あっという間に村中へ広がっていく。
馬車を降りた江理の目の前に、見慣れた顔が次々と駆けてきた。トビアス、マーゴ、オーウェン、モーガン。家の陰からグレースがゆっくりと出てくる。
「ただいま……戻りました」
「おかえりなさい、エリーさん!」
人垣を割って走ってきたのは、アイリスだった。その後ろからフィンも続いている。
「アイリス! パール村にいたんじゃ」
「結界が解けたって聞いて、すぐ来たんです。エリーさんも今日帰るって、妖精さんたちが」
アイリスは江理の両手を握り、そのまま泣き出しそうな顔をした。
「ご無事で、本当によかった」
「そっちこそ。フィンさん、腕は?」
「もうすっかりです。アイリスが毎日診てくれたので」
照れくさそうに腕を回してみせるフィンの隣で、アイリスが少し誇らしげな顔をする。
「パール村にも怪我をした人が何人もいて。私、エリーさんに教わった通りにやってみました。手を洗って、傷を洗って、布は毎回替えて」
「一人で?」
「はい。……でも、怖かったです。これで合ってるのかなって、ずっと」
「合ってるよ。ちゃんとできてる」
江理がそう言うと、アイリスの目がまた潤んだ。
診療所では、テオが飛び出してきた。
「エリー先生! お帰りなさい!」
「テオ君、エイト先生は?」
「奥です。もう起きて大丈夫だって言うのに、マイミさんが寝かせてて」
通された部屋では、エイトが寝台に半身を起こしていた。右肩から腕にかけて、まだ布が巻かれている。
「江理殿。ご無事で何よりです」
「エイト先生こそ。……無茶しましたね」
「あの状況では、ああするより他にありませんでしたので」
その隣で、マイミが呆れたように口を挟む。
「この人、傷が塞がる前に起きようとするんですよ。医者が一番言うことを聞かないって、本当ですね」
「マイミさんも、顔色が良くないですよ」
「あんな大きな結界、久しぶりだったので」
軽く言うが、目の下の隈は隠せていなかった。
それから、互いの一週間を話した。
結界の中では、賊の姿はもうなく、負傷者の手当てと後片付けに追われたこと。作物が不自然なほどよく育ったこと。イアンとハンナが村人をまとめ、テオが怪我人を診て回ったこと。
江理も話した。城塞で倒れたこと。ミラの治療。マーサという薬師のこと。
「壁一面が薬草の棚で、蒸留装置まであるんです。ピーコック村の診療所より、ずっと充実してて」
「ほう」
エイトの目が、医師のそれに変わった。
「薬の話も、本当に詳しくて。私、教わることばかりでした。……エイト先生たちも、一度行きませんか。きっと、すごく勉強になります」
「それは、ぜひ」
即答だった。マイミも、テオも、アイリスまで身を乗り出している。
「私も行きたいです! 薬草のこと、聞いてみたい」
話が弾んだ、その時だった。
「エリーさん、それ……」
アイリスの視線が、江理の左手で止まっていた。
「あ、これ?」
江理は軽い調子で手を上げてみせた。
「オジーにもらったの。綺麗でしょう?」
部屋が、静まり返った。
アイリスが目を見開き、フィンが息を呑む。マイミの表情が固まり、エイトに至っては、寝台の上で身を起こしかけたまま動きを止めていた。
「……オジー、というのは」
「ライリーさんの息子さんです。十七歳の」
「十七歳の子が、それを」
「あの、何か……?」
江理が首を傾げると、マイミがゆっくりと言った。
「江理ちゃん。それ、見せてもらってもいい?」
言われるまま、左手を差し出す。マイミは石に顔を近づけ、光の当たり方を確かめるように角度を変えた。
「……うん。ガラスじゃないね、これ」
「え?」
「本物のサファイア。しかも、かなり大きい」
「ええっ!?」
「台座の細工も、古いけど相当な腕の仕事」
江理は自分の左手を見下ろした。青い石が、窓から差す光を受けて静かに光っている。
「これ……いくらくらいするんですか」
「日本円にしたら?」
「はい」
マイミがしばらく考えて、それから言った。
「……数億は、いくんじゃない?」
「…………」
江理の頭の中が、真っ白になった。
「す、数億」
「うん」
「私、これつけて、さっき馬車から降りて、畑の前を歩いてきたんですけど」
「そうだね」
「洗い物もしました」
「したの?」
「昨日、城で」
誰も何も言わなかった。
そこへ、エイトが静かに口を開いた。
「江理殿」
「はい」
「問題は、値段ではございません」
「……まだあるんですか」
江理はもう、半分泣きそうだった。
「意匠が、古い王家のものに見えます」
部屋の空気が、さらに重くなった。
「王家、ですか」
「あくまで、似ているというだけのことです。私にも断言はできません」
エイトはそう言って、それ以上は語らなかった。何か知っているのを隠している、という顔ではない。ただ、口にすべきでないと決めている顔だった。
「少なくとも、ただの装飾品ではございません。大切になさいませ」
「あの、返した方がいいんじゃ」
「それは、もっといけません」
三人の声が、きれいに重なった。
江理は左手を胸に抱えるようにして、そのまま椅子に沈み込んだ。
――公爵のお城。護衛付きの馬車。あの晩餐。そして、これ。
貴族に仕えていた人たちだろうか。それとも、落ちぶれた貴族の一族か。
どれも、当てはまるようで当てはまらない。
「……あの人たち、本当に何者なんですか」
誰も答えなかった。
窓の外では、村の子どもたちが、停まったままの立派な馬車の周りを走り回っていた。




