第二十九話 帰り道
朝の城塞は、いつもと同じように動き始めていた。
荷物をまとめ終えた江理が中庭へ降りると、既に見送りの人だかりができていた。
「先生、本当に世話になった」
「手、だいぶいいよ。もう槌も振れる」
鍛冶場の職人が、包帯の取れた右手をひらひらと振ってみせる。肩を痛めていた女も、膝を擦りむいた男の子も、その母親も来ていた。
「また来てくれるんだろ?」
「はい。必ず」
江理がそう答えると、あちこちから、よし、という声が上がった。
ミラは、まだ本調子ではない体を押して、玄関の前まで出てきていた。
「江理先生。本当に、ありがとうございました」
「無理しないでくださいね。咳が完全に取れるまでは、安静ですよ」
「はい。先生の言いつけは守ります」
そう言って微笑むミラの顔色は、初めて会った日とは比べ物にならないほど良くなっていた。
マーサは、腕に大きな布包みを抱えて立っていた。
「持っていきな。この前の熱冷ましと、傷薬と、火傷のやつだ。作り方は書いてある」
「マーサさん、こんなに」
「あんたが作れるようになるまでの分さ」
言いながら、マーサは江理の左手をちらりと見た。薬指の青い石を。けれど、それについては何も言わない。
「水の止め方、まだ半人前だからね。次に来たときは、そこからやり直しだ」
「はい。ちゃんと練習しておきます」
「せいぜい、しっかり練習しな」
素っ気ない言い方だったが、江理はもう、この人の言葉の裏を読めるようになっていた。
門へ向かうと、ライリーが先に立っていた。
「先生、馬車を用意してある」
「馬車?」
城門の内側に停められていたそれを見て、江理は足を止めた。
二頭立ての、堂々とした造りである。車体には細かな装飾が施され、扉の金具は磨き上げられている。馬も毛並みがよく、手入れが行き届いていた。御者のほかに、馬に乗った男が二人、脇に控えている。
「……これに?」
「ああ」
「護衛の方まで?」
「道中、何かあったら困るからな」
江理はもう一度、馬車を見上げた。
――山賊って、こんな馬車持ってる?
昨夜の晩餐が頭をよぎる。白い卓布と銀器。誰も彼も完璧な所作。そこへ、この馬車と護衛が加わった。
「……あの、こんな立派なもの、お借りして大丈夫なんですか」
「構わん。それと、先生」
ライリーが、事もなげに続ける。
「馬車が必要になったら、いつでもここへ借りに来てくれ」
「え、いいんですか」
「ピーコックとここを行き来するなら、その方が楽だろう」
「ありがとうございます。助かります」
素直に頭を下げてから、もう一度、馬車に目をやる。
――これを、いつでも?
それ以上、ライリーは何も説明しない。
少し離れた場所に、オジーが立っていた。
江理が近づくと、ばつが悪そうに目を逸らす。昨夜、食卓であれだけの騒ぎになったのだから、無理もない。
「オジー」
「……なんだよ」
「ミラさんのこと、よく見ててね。咳が長引いたり、また熱が出たら、すぐマーサさんに言うこと」
「分かってる」
それから、左手を軽く上げてみせる。
「これ、ちゃんと預かっておくから」
オジーの表情が、わずかに動いた。何か言いたげに口を開きかけて、けれど結局、別の言葉になった。
「……また来るんだろ」
「うん。また来る」
「絶対だからな」
「はいはい」
江理が笑うと、オジーはまた顔を逸らした。
馬車が動き出す。
窓から手を振ると、見送りの人々が手を振り返してきた。ミラも、マーサも、住民たちも。ライリーは腕を組んだまま、小さく顎を引いただけだった。オジーは、馬車が門を抜けるまで、その場に立っていた。
城門を出て、しばらく進んでから、江理は座席に深く座り直した。
柔らかい。荷馬車の固い板とは、まるで違う。
窓の外を、来たときと同じ山道が流れていく。
――公爵のお城に住んでいて。
――あんな食事をして。
――こんな馬車を持っていて。
――マーサさんは、王宮のお医者さんのことまで知っていて。
左手を持ち上げ、薬指の石を眺める。深い青が、朝の光を受けて静かに光る。
――これも、どう見ても安物じゃない。
昨夜のライリーの「まあ、高いな」。マーサの「値段を聞かない方がいい」。
「…………」
――この人たち、本当に何者なんだろう。
貴族の家に仕えていた人たちだろうか。それとも、何かの理由で領地を追われた貴族なのか。元は騎士団か何かだったのかもしれない。
どれもしっくりこない。けれど、それ以上の答えは、江理の知識では出てこない。
妖精たちが、馬車の中をふわふわと漂っている。
『エリー、かんがえごと?』
「うん。ちょっとね」
『むずかしいかお、してる』
「そうかな」
そんなやり取りをしているうちに、山道が下りに入り、視界が開けた。
遠くに、見覚えのある畑が広がっている。その向こうに、小さな家々の屋根。診療所の白っぽい壁。
ピーコック村だ。
さっきまで頭を占めていた疑問が、すっと後ろへ引いていく。
代わりに胸に広がったのは、もっと単純な感情だ。
――帰ってきた。
窓枠に手をかけ、江理は遠ざかる山と、近づいてくる村を、交互に見つめていた。




